57.死の真相
カイが扉を開けた隙間に滑り込んだ瞬間、室内に人影が見えてティルダは少し飛び跳ねた──でも、すぐに安堵の息を吐く。入って正面の壁が、鏡張りになっていたのだ。ティルダは自分たちの鏡像に驚かされたという訳だった。
滑らかなはずの鏡面も、当然のように霜が降りて曇っているから、常に自分自身に見つめられる居心地の悪さは味わわなくても済みそうだった。鏡張りの壁に加えて、衣装や装飾品の組み合わせを見るためであろう胸像や、化粧台も備えられている。高貴な人の着替えや、衣裳部屋に使うはずだった場所ではないか、という感じがした。
鏡の表面にこびりついた霜を指先で払ってみながら、ティルダは考える。
(玉燕さんが、魔王には妃がいたんじゃ、って──本当だったのかしら?)
そういえば、これまでも城のあちこちで優美な茶器や繊細な造りの櫛を見つけてはいた。結局のところ、古の美貌の皇后が期待していたような、豪華な衣装はまた見ていないし、お城に住むような人なら男性でもこんな衣裳部屋が必要なのかもしれない。だから、ティルダには分からないのだけれど。
(玉燕さんたちは、今は……)
せっかく目覚めた人たちが、また凍らされてしまっているのかもしれないのだ。それも、ティルダのせいで。あの人たちも重い罪を犯したことに間違いはないのだろうけど、でも──
「ティルダ様。ティルダ様は──何も覚えていらっしゃらない、んですか……? その、最期の時のことを……」
「え、ええ」
遠く離れてしまった「仲間」たちを思って物思いに耽っていたティルダは、カイの呼び掛けに反応するのに遅れてしまった。彼女がぼんやりしている間に、彼は霜に埋もれて見えづらくなっていた椅子をふたつ、掘り出してくれていた。この少年は、生きていたころとまったく変わらないと、何かするたびに思い出させられて胸が詰まりそうになる。カイは、働き者で気が利いて、優しかった。ティルダの主観では、仲が良いと言って良いと、認識していたというのに。
カイのことを、信じている。彼は良い子なのだ。ティルダを殺したというのが真実だとしても、事情があったに決まっている。
(でも、その事情って……?)
罪を犯すだけの事情があるとしたら──ティルダは殺されて当然、裏切られて当然の存在だったから、ということになるような。ジュデッカとシェオルは、彼女が危険だとか言っていたとも思う。それは、コキュートスに対して、なのか、それとも……?
「私、は……いつも通りに眠ったと思ったの。カイ、貴方からお薬をもらって……それで、目が覚めたらさっきの広間にいて。死んで、地獄に堕ちたって言われて──」
カイのことは、信じている。でも、ティルダ自身については分からない。記憶には間違いがないと思うけれど、だからこそ大事なことを忘れているようで。最後の夜を思い出しながら紡いだ声は、不安と恐れに震えていた。
「やっぱり。そうじゃないかなって思ってました」
椅子はふたつ用意した癖に、カイはそれに座ろうとはしなかった。冷たい氷の床に膝をついて、ティルダの手を両手で包み込んで見上げてくる。ふたりとも死んでしまった以上は、主従なんて関係ないはずなのに。まるで、赦しを乞おうとするかのような格好で、ティルダの不安をますます掻き立てる。
「貴女は……怒ったりは、しないかもしれないけど。でも、さすがに怖がるとか──そうでなければ、謝ったりしそうだから」
「あの、私を……殺したことについて? 謝るって……?」
カイと目線を合わせたくて、ティルダは腰を浮かせようとする。でも、彼が許してくれなかった。痛いほど強く手を握られて、体勢を変えることなんてできそうにない。
「貴女は……お気付きだったから。それに、奴らが思ってたほど、何もご存じなかった訳じゃない──少なくとも薄々は、分かっていたんでしょう。だから、俺に……その、そうさせたことに対して、哀れんでくれる。貴女は、そういう人です。信じられないくらい──底抜けのお人好しで、優しくて……だから──」
絞り出すようなカイの声を聞きながら、ティルダは最後の夜の記憶をもう一度反芻した。
(そうだわ……あの日は、確か──)
砦の強化のために、結界に魔力を注いでいた。地に描かれた巨大な魔法陣。見守る将兵の目は鋭くて怖かった。身体からごっそりと魔力が抜け落ちる感覚が蘇って、指先が震える。魔法陣が光って──誰かが何かの演説だか訓話だかを述べたはず。兵が応える声を聞きながら、ティルダは風が吹いても倒れそうな気分だった。
魔力を喪って消耗した後は、身体が固形物を受け付けない。だから供された食事は、肉も野菜も細かく刻んで煮込んだ、粥ともスープともつかないもの。それも、カイにひと匙ずつ呑ませてもらうほどの疲弊ぶりだった。入浴も着替えも、人形がされるように人任せで、運ばれるままで──
「最後に、ありがとう、なんて……っ」
カイの、悲鳴のような声が、生死の狭間に埋もれていた記憶を掘り起こしてくれた。今まで覚えていた光景が、もう少しだけ鮮明になる。その時に抱いていたティルダの想いも、共に蘇る。ほかならぬ彼女自身の唇が紡いだ声も。
『ありがとう、カイ。いただくわ』
何もかも、いつも通りのことだった。魔力の行使も、疲労も眠気も。薬を呑むのだって。両手で抱えた薬湯の椀は、ティルダの手に実に馴染んでいた。笑顔で──弱々しかったかもしれないけれど──カイに礼を言うのも、同じ。よくあることだった。でも、声の調子や込めた想いに至るまでもまったく同じ──では、なかった。
何もかもが腑に落ちた不思議な満足感に、ティルダは思わず息を吐き出していた。
「ああ……私、分かっていたんだわ。だって……カイの手が震えていたし、とてもひどい顔色だったから」
「最後の最後で、俺は怖気づいた。何をしようとしてるかに気付いたんです。止めようとした。呑んじゃいけないって、叩き落とそうと──本当なんです」
ティルダの手を握るカイの力はますます強く、溺れる人が目の前の綱に縋るかのようだった。そんな、言い訳めいたことを言わなくても良いのに。カイの声も態度も表情も、すべてがいつも通りではないことを教えていた。何か、とても良くないことが起きるのだと。
「ええ。だから私、お礼を言ったのよ。……これで楽になれると、思ったから」
でも、その時のティルダにはこれ以上悪いことなんて起きるはずがないと思えた。疲れ切っていて眠くて怠くて、どこか息苦しくてどきどきとして。眠っても爽やかな目覚めとはほど遠くて、漠とした気持ちの悪さと不調を押して、また似たようなことをするのだと分かっていたから。──彼女は、本当に疲れ切っていたのだ。
薬を取り上げられる気配と察したから、ティルダは慌てて呑み干したのだ。気付かなかったことにして。カイがどうしてそんなことをするのか、実際のところ何を呑もうとしているのかは分からなかったけれど、今しかないと、朦朧とした頭で気付いて──必死だったのだと、思う。
それなら、ティルダの罪は今こそ明らかだった。
「私、確かに裏切っていたのね。聖女と呼ばれていたのに、その務めを投げ出したなんて」
呟いた彼女自身の声が、胸に突き刺さる。ティルダは、民や国のことよりも自分のことを考えてしまったのだ。多くの人の命や生活が彼女にかかっているのだと、知っていたのに。それはとても自分勝手なことで──地獄に堕ちても、当然だった。




