56.お人好し聖女
手を繋いだまま、ティルダとカイはしばらく氷の宮殿を駆けた。どこに何があるのかをカイに問われて、まともに答えられないのが情けなかったけれど。だって、これまでは魔王の玉座の間に近づくのを憚っていたし、さっきも鎖に引っ張られてきたから来た道を覚えておく余裕などなかったのだ。
しかたなく、ふたりはなるべく玉座の間から離れる、というごく大雑把な指針の下に進んでいる。ほかの罪人たちの気配が近づいていないか、背後から魔王の黒い気配が迫っていないか──気を付けようがないのかもしれないけれど、精いっぱい、注意を払いながら。
緊張と不安に耐えかねて、ティルダがひっそりと零した吐息を聞きつけたのだろうか。カイが振り返り、口を開いた。
「先ほど、魔王が言っていましたが……仲間が、いるのですか?」
「え、ええ……遠い昔にコキュートスに堕ちた人たちが……天の皇后の玉燕さんや、玉燕さんに仕えていた梅芳や──」
ティルダにとっては、もはや身近な友人──だなんて言ったら玉燕は馴れ馴れしいと怒るかもしれない──の名前を挙げると、カイの目が大きく見開かれた。
「天の玉燕妃? ……信じられない」
「私も、そうだったんだけど……」
彼女よりもずっと落ち着いた雰囲気のカイが驚きを露にしたのが少し楽しくて、ティルダの唇はほんのわずか、綻んだ。
(花を咲かせてしまったなんて言ったら、どんな顔をするかしら……)
魔王の気配に圧倒されているのか、この辺りではまだ(?)花が咲いていないようだけれど。地上では見たことがないあの美しい花々を、嘆きの氷原では何より貴重な色彩と温もりを、彼にも見せてあげたかった。恐らくは聖女の力によって咲いたもので、そんな、綺麗なだけで誰も傷つけないような力の使い方に、ティルダはずっと憧れていたのだと思う。
(あ、でも……それよりも)
花が咲いている場所、つまりは「仲間」たちのいる場所のことを思うと、ティルダの心は重く沈んだ。
「……ジュデッカ様が言ってたわね? ほかの人たちは動けないままだって──あの鎖で縛られているということなら、助けないと……!」
ティルダが慌てて訴えると、ちょうど行き当たった廊下の分かれ道で左右を見渡していたカイが、眉を寄せた。彼女の不安に同調してくれた訳ではないのは、続く言葉で分かってしまう。
「でも、戻り方は分からないのですよね? それに、魔王の力に対抗できるかも不明ですし……俺としては、ティルダ様の身の安全を第一にしたいです」
「そう……なんでしょうけど。でも──」
堕ちて来たばかりのカイに、玉燕たちの居場所を探して欲しい、と頼むことはできなかった。酷寒に魂を蝕まれていくコキュートスで、宛てもなく彷徨えだなんてひどい命令にもほどがある。
(でも……私のせいで皆さんが……?)
ジュデッカも、罪人を放任する構えのようだったのに。急に考えを変えたのは、きっとティルダのせいだ。花を咲かせたことは、その意味では曇りなく「良いこと」ではなかったのかも。でも、花のお陰で目覚めて、懐かしい人と再会できた人たちもいる。でも、地獄で救いを求めるのは間違っているのかもしれなくて──
「カイ。あの……」
頭の中を「でも」が駆け巡って言葉が出なくなってしまった。ティルダの混乱を見て取って、カイは小さく溜息を吐く。生きていたころ、彼女の数々のうっかりを、呆れて宥めて助けてくれた時のように。
「……さっき魔王が言ったことは本当です。俺は、貴女を許すことができる。そんな資格があるとは思えないんですけど、とにかく、神だか魔王だかが定めた規則はそう、ってことらしい、です」
違う──カイの渋面は、ティルダに対するだけのものではない。彼自身に対しても、何かしら苦い思いを抱いているのを、零した息のようだった。その理由は……ティルダにも心当たりがある。
「私たちはお互いを裏切り合っていた、の……? カイも、私を……?」
恐る恐る口に出してはみたものの、ひどく現実味のないことだった。彼女がカイを裏切ったのも、その逆も。ティルダの記憶が曖昧なのは死の直前だけ、そんなほんのわずかの間にふたつも裏切りが起きたなんて信じられない。
否定してくれれば良い、と願いながらの問いかけだった。でも、ティルダの仄かな期待を裏切って、カイは小さく、けれどはっきりと頷いた。噛み締めた唇の間から絞り出すような声が漏れる。
「はい。そうです」
「そう……」
嘘、とかまさか、とか言う気にはなれなかった。カイは、そんなつまらない冗談を言ったりはしない。聞き返すだけ、彼への非礼になってしまう。だから、どんなに信じ難くても、カイはティルダを裏切ったのだろうし、ティルダも──ティルダは、彼に何をしてしまったのだろう。
俯きかけて──ティルダの頭の片隅を、良い考えが閃いた。
(ああ、でも。そういうことなら──)
嘆きの氷原を抜け出す方法を、彼女は既に知っている。魔王ジュデッカからして、そのために彼女を呼び出したようだった。あの美しくて綺麗な方は、そうやってティルダを追い出そうとしたのだろう。でも、カイがティルダを裏切ったというのが本当なら、その逆だってできるのだ。
「じゃ、じゃあ、話は簡単ね? 私は貴方をゆる──」
「ダメです! そんな簡単なことじゃないし、簡単に許しちゃいけません!」
満面の笑みで告げようとした名案は、でも、カイに勢いよく塞がれてしまった。文字通りに、彼の手によって。
「……うー?」
無理に喋ろうとすると、カイの掌を噛んでしまいそうだった。だから、どうして、と問うのは唸り声のような鼻声のような間の抜けた音によって、だけ。というか、ほとんど睨むようなカイの真剣な顔が間近に迫って少し恥ずかしいのに。彼は、ますます手に力を込めてどうしてもティルダの言葉を封じるつもりのようだった。
「ダメです。裏切られた者が裏切った者を許せば、その罪人は解放される、でしょう? 地上にも伝わっていたし、魔王にも確かめることができました。その赦免は即座に効力を発揮すると──でも、それではいけないんです!」
カイの、胡桃色の目がティルダの目の前で輝いている。そこに燃える感情は──苛立ち、だろうか。寝坊したティルダを叩き起こす時の色に少し似ているけれど、もっと激しくて棘がある。
でも、まったく怖くない。カイの手は、もはや温もりを持っていないけれど、心の中は違うのが分かるから。理由までは、分からないけど。彼は必死で、ティルダのために何かをしようとしている──と、思う。
「自分を殺した相手を何も聞かずに許すなんて、どこまでお人良しなんですか、貴女は!」
だって、こんなに真剣に、ティルダのことを叱ってくれるのだから。
(知ってる人を助けてあげたいのは普通のことよ……?)
叱られるほどのお人良しとは思っていないし、人を助けようとするのは良いことだと、思うのだけれど。でも、口を塞がれていては言えないし、言ったらカイは怒る気がする。彼の声は、氷の廊下にずいぶん響いてしまっている。こんなところで問答を続けていたら、ほかの罪人に見つかってしまうかもしれない。
だから、ティルダはふるふると首を振った。もう何も言わない、という意思表示が通じたらしく、カイはやっと彼女の口を解放してくれた。掌をじっと見つめた彼は、何度か指を開閉させてから、服の裾で強く拭っている。……涎をつけたりは、しなかったと思うのだけど。
ティルダが少し傷ついた気配に気付いてくれたのか、辺りを窺うことを思い出したのか、カイは慌てたように声を潜めた。手近な扉に手を触れて、小さな部屋があるのを確かめながら。
「……ここ、誰もいないみたいです。入って、話をしましょう。地上で──エステルクルーナで何があったかをお話しします。俺は、貴女を本当の意味で助けたい。……信じて、欲しいんです」
「ええ、お願い。何があったか、とても気になっているの」
ティルダはもちろんカイを信じている。だから迷わず頷いた。




