54.再会
「痛……っ」
全身がじんじんと痺れるような衝撃は、じわじわと痛みに変わって行った。凍った床にうずくまって身体を丸めて、ティルダはその痛みに耐える。
死んだ身でも、引きずられたり落ちたりすれば痛みを感じる。血を流すこともある。酷寒だけでは飽き足らず、何度となく自らの身体に剣を突き立てたシルヴェリオの例からも明らかだった。氷の地獄コキュートスで、ティルダが今までのほほんと過ごすことができていたのは、リヴァイアサンやシェオル、シルヴェリオが守ってくれたお陰だった。でも、魔王ジュデッカが言った通り、彼女はやっぱり罪人なのだ。だから、こんなふうに手荒に扱われることだって、あるのだろう。
ひとしきり身体を縮めて痛みをやり過ごしてから、ティルダは恐る恐る顔を上げた。魔王の夜の色の目は、ひたすら冷たく鋭く彼女を見下ろしている。舌さえ凍り付きそうな思いを味わいながら、それでもティルダは必死に舌を動かす。
「あの……いったい、何のご用でしょうか。ええと……やっぱり、花を咲かせるのは良くなかった、ですよね……」
ジュデッカは、最初から彼女のことが気に入らなかったのだろうと思う。氷の地獄の番人が、氷を溶かされて面白いと思わないのは当然のこと。ティルダとしてはそんなつもりはなかったけれど──悪いことをしたなら、謝罪するのが道理だろう。
「あの、申し訳──」
「そんなことはもうどうでも良い」
空々しいと聞こえるだろうと思いながらも、必死に述べようとした言葉は、けれどあっさりと遮られた。ジュデッカは玉座に腰を下ろして立ち上がりもしないまま、指先だけを動かす。どういう理屈なのか──彼の指の動きに合わせて、ティルダを縛る銀の鎖が巧みに撚り合わさって絡み合い、彼女の顎に掛かって、上向かせる。
首に少々の痛みを感じる体勢で、ティルダは無理に中空を見せられることになる。魔王の玉座の上方、人の世界だったら、王家の紋章が掲げられているあたり。そこに、彼女と同じく魔王の銀鎖で吊り下げられていたのは──
「ティルダ様……っ」
「え……カイ……?」
この場にいるはずがない、けれどティルダがとてもよく知る少年だった。生きている間に親しく言葉を交わすことができた数少ない存在だと、つい先ほど思い出したばかり。
(どうして、カイが地獄にいるの……?)
寝惚け眼のティルダの身支度を──異性ができる範囲で──いつも手伝ってくれた。彼女の呑気さに呆れたり、時間に遅れると急かしたりしながら。休む時には薬を用意してくれて、彼女の眠りが妨げられることがないように見張りの役を買って出てくれた。
少し跳ねた金茶の髪も、胡桃色の目も、記憶にある通り。でも、だからこそ訳が分からない。ティルダが知るカイなら、絶対に地獄に堕ちるようなことはしないはずなのに。
倒れたままの姿でティルダがぽかんとした顔を晒していると、ジュデッカが高らかに笑った。玉座の間の高い天井に涼しげな声はよく響いて、罪人たちの頭上に降り注いだ。そして彼は初めて立ち上がり、靴音を高く鳴らしてティルダの顔を覗き込んでくる。
「新しい罪人から、お前のことを聞いたぞ。裏切り合った者たちが邂逅するとは、コキュートスでも珍しい。ルクマーンの一味以来ではないか? 自身を殺した者と再会するのはどんな気分だ?」
「……殺した……私、を……?」
ひどく楽しそうな顔を浮かべるジュデッカとは裏腹に、ティルダは首を傾げるばかり。言われたことを鸚鵡返しに繰り返してはみるものの、本当のこととは思えない。
(神様も手違いをなさるのかしら……それなら、何か申し立てることはできないのかしら?)
ティルダは、たぶん魔王の期待に添う反応を返すことができなかったのだろう。ジュデッカはあからさまに顔を顰めると、舌打ちしつつ立ち上がった。反応の鈍いティルダの代わりに、鎖で吊り下げたカイに視線と声を投げる。
「お前の目的の相手を連れてきてやったぞ。さっさとこの娘の罪を許せ。この地獄に平穏を取り戻してもらいたいものだからな……?」
「く……っ」
カイの首に絡んだ鎖が鳴って、彼の呼吸が締め上げられたのが分かった。苦悶に歪んだ彼の表情が恐ろしくて、ティルダは悲鳴のような音を漏らして息を呑む。いったい何が起きているのか、まだ何も分からないけれど、とにかく止めてもらわなければ。魔王に懇願するために、必死に舌を動かそうとするけれど──
「主よ。下僕としては諫言いたします。どうしてコキュートスの流儀に背いて罪人を責めるのですか」
ティルダよりも早く、魔王を責める声が上がった。主の、ジュデッカの脚に頭突きをする白い巨大な狼──シェオルだ。ふわふわとした毛皮に覆われた姿は、相変わらず可愛らしい。でも、声も言葉の内容も、かつてなく鋭い。ばたばたと左右に振られる尻尾も、喜びではなく明らかに非難を現わしているようだった。
(シェオルさん……庇ってくれるの? 罪人を……?)
たとえふわふわでふかふかでも、シェオルは魔王の下僕のはずなのに。罪人は、苦しむためにこそ地獄に堕とされるはずなのに。安堵しきることもできずにティルダが息を潜めて見守っていると、案の定というか、ジュデッカは腹立たしげに唇を歪めて狼を見下ろした。
「罪人とつるむうちに情が移ったか? 罪ある者を苦しめて何が悪い」
直接向けられたのではないティルダでさえ震えてしまいそうな、険しく棘のある声だというのに──シェオルは怯むことなく耳をぴんと立てた。
「裏切りの大罪を犯した者には、魂までも凍る酷寒の責め苦を。そのための嘆きの氷原でしょう。主自ら罰を下すための地獄ではなかったかと。今回に限って流儀を変えるのは、単にティルダを追い出したいからというだけではないのですか」
「黙れ、シェオル」
黙って欲しいと、ティルダも切に願った。シェオルは、たぶん彼女の味方をして主人に逆らってくれている。カイにひどいことをするなと、言ってくれている。それは、とても嬉しいけれど──低く、唸るようなジュデッカの声も、眉間に深く刻まれた皺もとても怖い。魔王の容姿が整っているからこそ、彼の怒りも不快もありありと感じ取れてしまって。次に何が起きるか、何をされるか分からないから──恐ろしかった。
でも、シェオルは主の命令に従わなかった。全身の毛を逆立てて身体をひと回り大きく見せながら、あくまでも諫言を続ける。
「裏切った相手に許されれば解放されると定めたのは、確かにまずあり得ないから、なのでしょうが。神がそれを認められたのは、罪を許すか否かをその相手に委ねるとの御心なのでは? 無理強いして『許す』と言わせるなどとは、コキュートスの番人にあるまじき行いかと存じます」
「出過ぎた真似だ、シェオル」
ジュデッカが拳を握ると、まるで脅すかのように鎖がじゃらりと鳴った。魔王の最後通牒では、と予感して、思わずティルダは息を止める。
「お前にコキュートスの番人の何たるかを教えられる謂れは──」
「せめて、新しい罪人とティルダが話す機会を与えてくださいますように。酷寒の中で罪人が足掻く姿こそが、コキュートスに相応しいのではないですか」
下僕に言葉を遮られて、ジュデッカは完全に機嫌を損ねたに違いなかった。噛み締めた唇の間から、歯軋りの音さえ聞こえたような。魔王から立ち上る怒りの気配の激しさに、ティルダはいっそう身体を縮こまらせた。
「黙れ、シェオル!」
命じると同時に、ジュデッカは実力行使に出た。突き出した拳から鎖が伸び、銀の煌めきが蛇のようにシェオルに襲いかかった。




