52.凍て緩む魔王城
嘆きの氷原の魔王の居城は、ティルダが目を覚ますごとに少しずつ姿を変えている。朝が来るたびに、と言わないのは、この地獄にははっきりとした昼夜はないからだ。何となく寝て、何となく起きるだけ──とはいえ、何人かで一日の感覚を共有していると、それなりに規則正しい生活らしきものになっている、かもしれない。
「えっと、おはようございます……」
それでも、毎朝のように挨拶の言葉には悩むのだけれど。何しろ寝る前も起きた後も光の加減はさほど変わらないから、早いも遅いもないのでは、と思ってしまう。
「おはよう、ティルダ」
「今日も花が咲いておりますね。目に鮮やかなこと」
玉燕は欠伸を噛み殺す姿も妖艶で美しくて、主の髪を梳く梅芳はにこやかにティルダの挨拶に応じてくれて。女同士で同じ部屋に眠るようになってから、ティルダは何度でも静かに感動を噛み締めるのだ。
(朝起きたらお話しできる人がいるって……すごいことだわ……)
着替えや洗顔を急き立てられることもなく、新たに咲いた花の色や形に目を細めることができるなんて。
生前は、髪型を整えるのだって楽しいことではなかった。儀式の場に相応しい盛装として、頭が痛くなるほど重い飾りを載せられるか、そうでない時は無造作に括られるだけで。それが今では、毎日のように梅芳が違う髪型を作ってくれるし、玉燕も──時に厳しく辛辣だけど──感想を言ってくれる。
(地獄なのに。私は……悪いことを、したはずなのに)
目を覚ますたびに、ティルダは天国にいるみたい、と思ってしまう。それほどに、この城の変化はめざましいから。
日々数を増やす花は寄り集まって灯になり温もりになり、雪を完全に溶かしてしまった。それは、白い氷や霜に覆われていた城の調度が、姿を見せたということ。細やかな造りの調度も、タイルが繊細な模様を描く床も、誰も知らない森を描いた壁の絵も、美しく、色鮮やかに。それを彩る花の花弁は互いの色を映し合って、コキュートスの曖昧な光を何倍も眩しくしてくれる。その輝きによって茎や葉の緑もいっそう映えて──だから、うっかりすると聖典に描かれる楽園の景色のよう、だなんて不敬な感想が、ティルダの胸を過ぎってしまうのだ。もちろん、花の音がまだ届かないところに出れば、魂を凍らせる寒さは依然として健在なのだけれど。
逆巻く渦の大水蛇が窓を壊した部屋が、ティルダたちの居間のようになっていた。女たちが寝る部屋、男たちが寝る部屋は、それぞれこの居間に隣接したところを確保している。ティルダ、玉燕、梅芳、シルヴェリオとラーギブ──それに、シェオル。五人と一頭と、それに、リヴァイアサンも顔を出すことができる、ほど良く広い部屋なのだった。
「こうして氷が溶けたから思うのだが──」
日課のようにいつもの面々が顔をそろえて、いつものように形ばかり、空の茶器が並べられると、玉燕が艶やかな唇を開いた。濡れたような黒い目が向く先は、白い毛並みの狼だった。
「魔王には妃はおらぬのかえ」
「お妃……!?」
突然の問いかけに、シェオルは耳を軽く揺らめかせただけ。大きな毛玉に足元を温めてもらっていた──見た目だけ、気分だけ──ティルダのほうが驚いて、危うくシェオルを蹴り飛ばしそうになってしまう。
「ご、ごめんなさい。シェオルさん……」
「いいえ。『実』は入っていないところでしたので」
ティルダは慌てて座り直して膝を揃え、シェオルは毛並みのふわふわを誇るかのようにぶわりと毛を逆立ててみせた。その、落ち着かない一幕を見て軽やかに笑ってから、玉燕はまたシェオルに鋭い眼差しを向ける。
「この城の造りは女のためのもののようではないか? あの恐ろしげな魔王には似つかわしくないこと」
「そう、ですか……?」
「そういえば……」
首を傾げるティルダやラーギブを余所に呟いたのは、シルヴェリオだ。煌びやかな鎧を纏う将軍のこと、たぶん、生前には貴婦人の居室に招かれたりすることもあったのだろう。
(ジュデッカ様は、このお部屋を使ったことはあるのかしら……?)
言われて改めて首を巡らせてみれば、部屋の調度はどちらかというと優美で繊細で──女性的、なのかもしれない。少なくとも、魔王ジュデッカの好みではなさそうな気が、しないでもない。そういえば、かの黒の魔王はいつもは玉座の間に座したきりらしい。せっかくの壮麗な城だというのに大部分が顧みられないままだというのは、もったいないことだ。
シルヴェリオの同意を得て力づいたかのように、玉燕はシェオルに対して身を乗り出した。
「茶器や櫛や鏡まで揃っているのだ。どこかに衣裳部屋があるのではないかえ?」
「なるほど、貴女の狙いはそこですか」
どうしてそんなことを言い始めたか分かった、と。納得の意を示すかのようにシェオルはゆっくりと尻尾を振ってティルダの脛をくすぐった。
「この獄は退屈でならぬのだもの。目新しい衣装なり装飾品なりあれば気も紛れよう。で、心当たりはないのかえ」
息子の鴻輝帝を見送ったことをどのように考えているか、玉燕の妖艶な微笑からは窺い知ることはできない。あくまでも自らの身を飾ることばかりを考えるかのようなもの言いは、まさに傾国の美女のものだけど。彼女の内心を見通そうとするかのように、シェオルは軽く首を傾げた。
「残念ながら。この城の本来の住人は私と主だけ。私はこのように服など必要としませんし、主も着替えているのを見たことはないでしょう?」
「地獄にまでも添うような女はおらなんだか。まああの魔王ではのう……」
ジュデッカは城に女性──というかお妃を招こうとして断られた、と。ほとんど断じるような玉燕のもの言いに、ティルダとラーギブは思わず顔を見合わせた。
「振られたとは限らないんじゃないの?」
「え、そういうことなんですか?」
ほとんど重なった疑問の声に、玉燕は手を蝶のようにひらひらとさせて部屋を、室内の調度を示した。
「城まで拵えて妃に迎えようとして叶わなかった、ということではないのか? 罪人に城を用意することはないであろう? 魔王の居城にしても広すぎる」
「そ、そうでしょうか……?」
「どうせなら衣裳まで整えておけば良かったのに、のう」
あくまでも幻の魔王の妃がいた、と断じる口調の玉燕に、シルヴェリオは苦笑しつつ口を挟んだ。傾国の美女と、横たわった白い狼を交互に交互に見ながら。
「主君の私事です。氷大狼殿からは言えますまい」
「お心づかい痛み入りますね、将軍」
とはいえ、彼のもの言いも、ジュデッカに何かあったことを前提にしているようで少しおかしかったのだけれど。シェオルは少し荒々しく尻尾を振って床を掃くだけで、済ませた。
続けて、シルヴェリオは玉燕にも宥めるような声をかける。
「無為の時も、致し方ないのでしょう。何しろ地獄で、我らは罪人なのですから」
「ふん、もっともなことではあるが」
少し前なら、玉燕は異国の将軍に対してもっと辛辣な言葉を返していたかもしれない。でも、お互いの存在に慣れたからか、鴻輝帝の一幕があったからか、今の彼女はだいぶ素直になっていると、ティルダには見える。
大人の話が一段落ついたと見たか、今度はラーギブが口を開いた。
「新しい罪人は、目覚めないのかな。親爺の一味の──ハミードも、大人しいみたい……?」
「目覚めてはいても、機を窺っているのかもしれません。コキュートスに堕ちるのは、本来は重罪人ばかりなのは忘れるべきではないかと」
確かに、城のまだ溶けていない場所を探索すると、霜に足跡が残っていたりすることもあるのだ。ラーギブを狙っているであろう盗賊団は確実に目覚めているとして、姿を見せない罪人がいてもおかしくはない。シェオルはともかくとして、ジュデッカは危険な罪人が目覚めたとしてもティルダたちに教えてくれはしないと思う。
(本当は、みんなで仲良くできれば良いのに……)
自分たちだけ花咲き乱れる一角にいるのは、心苦しいこと。でも、幼いラーギブや女性もいるとあっては、迂闊にほかの罪人と接触できない。コキュートスを少し溶かしてしまった責任を感じて、ティルダが溜息を吐いた時──
「あ」
シェオルが四つ足で立ち上がった。鼻先を宙に向けてしきりに何かの匂いを嗅ぎ、さらに耳を立てたり寝かせたりすることしばし。大きな白い狼は、珍しく真剣な気配を纏ってちょこんと座った。
「新しい罪人が、現れたようですね。いえ、目覚めたのではなく──新たに、堕ちて来た者が」




