51.地上の王城にて
エステルクルーナの王宮の最奥で密かな会合が開かれていた。時刻は深夜、通常ならば人の出入りはとうに絶えているはずなのに、その一角からはほのかに灯りが漏れていた。
夜警の兵が見咎めたら、不審な動きに声を上げるだろうか。いや、そっと踵を返すだろう。万が一、王宮に忍び込んだ賊がいたとして、灯りをつける愚を犯すことはないはずだ。一方で、お偉方というのは色々と考えることが多いはず。今の世は素晴らしい力の聖女が国を守っていてくれているというが、その実態はひとりのか弱い少女に過ぎない。
聖女様をどの地域に送るとか、どれだけ休ませるとか。軍と教会、中央と地方で熾烈な駆け引きがあるとかないとか。──だから、そういう大事な話があるのだろう。
そんな風に結論付けて、見なかったことにするはずだ。
実際のその部屋の様子と、無名の兵が予想するであろうことは、当たらずとも遠からず、と言ったところだった。
最上位の席を占める初老の男は、ほかならぬエステルクルーナの国王。以下、宰相に大司教に将軍に。国の中枢と言って良い面々が、一様に深刻な表情で並んでいる。もしも覗き見る者がいたら、これほどの錚々たる面々ならば、昼日中に堂々と集まれば良いのに、と首を傾げるかもしれない。だが、一同の中に疑問に思う者はいないようだった。
「それで──」
王がゆっくりと口を開くと、ほかの出席者は雷に打たれたように一斉に頭を垂れて敬意と服従の意を示す。各々が帯びる爵位やら肩書やらとは不釣り合いな、判決を言い渡される罪人のように怯えた仕草だった。
「聖女ティルダは本当に死んだのか。なぜだ。体調管理には万全を期していたのではなかったのか」
「は──」
王の下問と視線を受け止めて脂汗を流したのは、とある地方を預かる将だった。
「三日前のことでございます。ティルダ様が北方の砦にいらっしゃいました。結界の強化に魔力を注いでいただき、いつものように薬を呑んでいただいたうえでお休みになったのが深夜過ぎ。翌日未明に移動されるはずがお目覚めにならないので様子を見に伺ったところ──その、息絶えて、いらっしゃって……」
震える声での報告に、王は小さく頷くと次の者に視線を移した。
「薬の調合に問題はなかったのだな」
「は。残った薬草の量からも間違いございません」
「娘の体調の異変を見逃していたということは?」
「複数の医師が確認しております。疲労のていどは命に関わるものではございませんでした」
聖女の体調に責任を持つ教会の長に、医学の権威。そして、最初とは別の軍人を、王の冷ややかな目が捉えた。
「娘に仕えていた従者とやらは捕えたか」
「は。昨日、国境の関門にかかりました。本人を知る者に、顔を確かめさせております」
聖女ティルダは、エステルクルーナになくてはならない存在だ。甘やかし怠けさせるのは論外だが、決して心身の健康が──取り返しがつかないほどに──損なわれてはならない。それは、あの少女に関わる者すべてが承知していた。国の命運を握りかねない存在の管理を無能者が任されるはずもなく、つまりは薬の調合や医師の見立てに間違いがあった可能性はごく低いと、最初から予想はされていた。
そこへ来て、聖女の従者が行方不明、との報だ。責任を追及されるのを恐れて姿をくらませた、とも考えられるが──その者が逃げようとしたのは、実際に犯した罪からではなかったのだろうか。容疑者が確保されたならば、真相は間もなく明かされるだろう。どのような手段が用いられたとしても。
だが、たとえ真相が明らかになったとして、それが何になるだろう。稀有なる聖女は失われてしまった。死者をこの世に呼び戻す手段はない──はずだ。
列席者のひとりが、王に意見する勇気をかき集めた。
「陛下、恐れながら──たとえ犯人を捕えたところで、聖女は、もう──」
「あの娘の魔力は我が国のものだ。死後の世界に持ち逃げされてなるものか」
王は進言に取り合わなかった代わり、咎めることもしなかった。次いで、王の矛先を受けるのはそれこそ生前の聖女ティルダのように目の下に隈を作った顔色の悪い男──教会に属して、神と魂のあり方について研究する、神学の徒だった。この世のことではない事柄の究明を使命としていたその男は、初めて政に関わる席に召喚されてひどく緊張しているようだった。
「魂の居場所は知れたのか。人の世からどのように手を伸ばすか、方策は検討したな?」
「は。ティルダ様の魂は、今は嘆きの氷原に堕ちているようです」
神学者が口にした不吉な名に、一同からは戸惑いと不審の声が上がる。
「コキュートス……?」
「地獄ではなかったか」
「裏切者の──」
「なぜ、聖女が?」
コキュートスの意味を知っている者。今、隣り合った者から教えられた者。浮足立って騒めく臣下を、エステルクルーナの王はさらりと一喝した。
「驚くには当たらない。あの娘は聖女の役目を放棄して死んだ。即ち国を裏切ったということになろう。──問題は、いかにして連れ戻すかだ」
方法があるのだろうな、と言外に問われて、神学者は背筋を正した。
「アレギエリ師の書に、地獄を訪ねた節がございます。地獄を管理する魔王への謁見を果たした師は、かの氷の地獄を逃れる条件を聞き出すことに成功したのです」
「それは、どのような?」
「コキュートスは、裏切者が堕ちる地獄です。裏切った者と裏切られた者が地獄で邂逅し、かつ、裏切られた者が裏切った者を許す──そのような奇跡が起きた時のみ、罪人の魂は解放される、とのことです」
魔王とやらに、罪人を解放する気がないのは話を聞いただけでも明らかだった。裏切られた者が地獄で裏切った者と出会うことがそもそも考えづらいし、まして許すはずがない。秘密の会合の出席者たちは、一様に落胆と絶望の溜息を漏らした。
「ふむ」
ただひとり、にんまりと笑みを浮かべたのが、王だった。
「ならば、ちょうど条件が整いそうだな」
「は……?」
「聖女を殺めたその従者は、聖女にとっての裏切者だ。一方で、我が国の民であるからには、逃げた聖女に裏切られた者のひとり、とも言えよう」
物分かりの悪い臣下を見渡して、王は噛んで含めるように語った。
「は、はあ……?」
「その従者を死罪に処す。その者がコキュートスに堕ちるように。地獄で聖女を見つけ出し、あの娘の罪を許すように言い含めた上で」
一同から、再び溜息が漏れた。納得と──それに、先ほどと変わらず、絶望の想いが籠った吐息が部屋を揺らす。王の言葉は、理屈の上では正しいかもしれない。だが、依然として、そして厳然として無理難題が残っている。
「それは──ですが、それでも! 聖女は死んでいます!」
「死体はまだ残っている。あの娘がかすめ取った魔力を使えば反魂の術くらい成功させられるのではないか?」
できない、などとは言わせないと、王の眼差しが語っていた。何より、誰もが承知している。聖女を失ってはこの国が立ち行かないことに。だから、無理だろうと通さなければならないのだ。だから、臣下が口にできる言葉はひとつだけ。
「は──はは……っ、必ず……!」
聖女の死は民に伏せられたまま、国の中枢では企みが進んでいた。




