49.送葬の会
嘆きの氷原には、食べるものも飲むものもない。死者には必要ないのだろうし、罪人には過ぎた贅沢なのだろうとも、ティルダは思う。それでもなぜか魔王の城は美しくて、調度品も整っているから、凍り付いた茶器を並べて、形ばかりの茶会を催すことも、できた。
「何とも寂しい席ではございますが。地獄では望むべくもないのでしょうね」
「まことに」
鴻輝帝を見送ったふたり、特に玉燕は、これまでの高慢で強気な振る舞いが嘘のように穏やかに笑っている。空の茶器を主の前に出す梅芳の所作も優雅で、古の天の国の宮廷では、こんな光景が繰り広げられていたのでは、と思わせる。
でも、これは優雅なだけの茶会ではなくて、葬送の席でもあるのだ。
このふたりが別室で思い出に浸りたいとの言い出したのを、ほかの者たちは二つ返事で送り出していた。シェオルやシルヴェリオはもちろんのこと、生意気なラーギブでさえ。最後の最後に手を取り合うことができた母と子の対話に、罪人たちはそれぞれ思うところがあるということだろう。花咲く間に残った面々は、今ごろは各々の罪や、裏切った相手に思いを馳せていると思う。シェオルは──身体を丸めてうたた寝しているだけかもしれないけれど。
でも、ティルダはどういう訳かそちらにはいなかった。玉燕が、当然のように彼女についてくるように命じたのだ。梅芳も、主を宥めるどころか、やはり当然のようにティルダにも茶器を勧めてくれている、のだけれど。
「あの──私がいても、良いんですか……?」
天の国のふたりに挟まれるような格好で、居心地が悪くて。ティルダはおずおずと声を上げた。玉燕はもちろんのこと、使用人の立場の梅芳だって、刺繡の見事な衣装を纏っている。簡素な白いワンピース姿だと、場違いなことこの上ない。そもそも、鴻輝帝をろくに知らない彼女が、ここにいて良いとは思えないのに。
なのに、玉燕は迷うことなく大きく頷いた。
「無論。そなたに礼を言うためにこそ来てもらったのだからな、ティルダ」
「え──ええ……!?」
うっとりするような美しい笑みに、間の抜けた声で答えてしまうのが申し訳ないくらいだった。でも、仕方のないことだと思う。だって、玉燕がティルダの名を呼んだのは、多分初めてのことだ。召使も務まらない、なんて言われて無作法に呆れられてきたのに。
「そなたのお陰で我が子と会えた。許して、解き放ってやれた。最後に抱き締めてやれた。そなたがおらなんだら、妾もあの子も、未来永劫、この獄で離れ離れに凍りつくしかできなかったであろう……!」
「あの、玉燕さん」
にこやかに語りかけられるだけでなく、手を取って握りしめられて、ティルダの声はますます上擦った。死んでいる者同士だからか、触れ合う指先は冷たいけれど、頬が熱くなる気がする。
助けを求めて梅芳に目を向けても、意味がなかった。
「皇后さまがあのようにお心を明かされるのはかつてないことでした。生きておられる間も、偽って笑みを浮かべるだけで──このようなことがあってかえって、母君と御子として対することができたのでございましょう。わたくしからも、心から御礼申し上げます」
「梅芳さんまで……!」
天の国の儀礼が大げさなのは知っていたけれど、自分自身に向かってひれ伏されると、驚きも戸惑いもひとしおだった。床に膝をついて梅芳を起き上がらせながら、ティルダは必死に話題を変えようとした。
「おふたりは……あの、ここから出られないんでしょうか」
「まあ無理であろうのう。妾もこの者も、裏切った相手はここにはいないと、あの魔王は言うておった。……罪もない者も、おったしなあ」
玉燕が首を傾げる間に、梅芳はやっと長椅子にちゃんと座ってくれた。座って、と言っても、背もたれに優雅にしなだれる玉燕とは対照的にごく浅く腰を乗せて背筋を正しているのだけれど。それでも、かなり話しやすくなったからティルダとしてはありがたい。
「わたくし自身については当然の報いと思っております。この上は、どこまでも皇后さまにお仕えしようかと」
でも、普通に相対したことで、かえってどんな顔で向き合って良いか分からなくなってしまったかもしれない。地獄に堕ちて当然のことをしたと言われたこと、そのうえで、この人たちが解放される望みがほぼないということ、その、いずれに対しても。
「そう、ですか……」
「そなたはどうなのだ、ティルダ? そなたが裏切りを犯すなど、相当の理由がありそうなものだが。……相手も地獄に堕ちるような輩ではないのかえ」
「私は、何も覚えていないんです。どうして、どうやって死んだのか……誰を、裏切ってしまったのか」
玉燕が気遣ってくれたようなのが嬉しくて、ティルダは少しだけ微笑んだ。彼女が裏切った相手がコキュートスに堕ちるということは、鴻輝帝のように、ティルダもその相手に許される可能性があるということだから。
でも──ティルダだって玉燕たちと同じ気持ちだ。地獄に堕ちるだけの罪を犯したのに、簡単に許されようだなんて思ってはいけないと思う。そもそも、自身の罪を思い出してさえいないのに。
「私のことより、どうかおふたりのことを聞かせてください。良かったら、ですけど……鴻輝さんのことも」
だから、ティルダは微笑んだまま、玉燕たちに促した。亡き人を偲ぶための場で、余計な話題が続くのは良くないと思って。
すると、玉燕は不思議そうに眼を瞬かせながらも頷いてくれた。
「ふむ、確かに死んだ時のことなど覚えていないほうが良いのかもしれぬ。──そなたはどうであったのだ、梅芳?」
玉燕の溜息が漏れそうな流し目を受けて、梅芳は恭しく目を伏せた。
「わたくしは、覚悟の上でございましたから。きっと皇后さまとは同じところに辿り着くだろうと思っておりましたから、陛下のことをお伝えせねば、と──苦しむ毒でもございませんでしたし」
「さほど苦しまなんだのは、妾も同じであったな。鴻輝は優しい子であったから。これで終わりと思うと、いっそせいせいしたほどだ」
恐ろしいことを口にしながら、玉燕は自慢げに微笑んでいた。母を苦しませなかった息子を、誇るかのように。ティルダは反応に困ってしまって相槌を打つこともできなかったけれど、梅芳はまったくもってその通り、と言いたげに大きく頷く。
「その時は、恐ろしいとも思いましたが──安堵が、勝ったかもしれませぬ」
「やはり、か! 覚悟はしていても待つ身は辛いものだからのう」
「然様でございますね。わたくしとしても、裁かれぬのは理に合わぬことと思っておりましたから……」
自分が死ぬ時のことを、語り合う人たち、というのはとても珍しい光景に違いない。しかも、ふたりともが楽しそうで、和やかな空気が漂っているからなおのこと。コキュートスならではのことだろうけど、死んだ時のことを覚えていないティルダには相槌の打ちようがない話題だった。──その、はずだったのだけど。
「そうですね。ほっとするのは、分かります」
(あれ……?)
不意に自分の口から零れたことに驚いて、ティルダは息を呑んだ。何となく話を合わせた訳ではない、と思う。そんなことは失礼すぎる。でも、知らない──覚えていないはずのことについて、どうしてこんなに実感を込めて頷くことができたんだろう。
(私も、玉燕さんたちと同じように……?)
生前の、最後の記憶がよみがえる。心配そうな顔で、薬湯を差し出してくる従者のカイ。ティルダよりも少しだけ幼い少年の、優しい声。
『ティルダ様。こちらを──早くお眠りにならないと』
『ありがとう、カイ』
いつも通りのやり取りのはずだった。安堵するというなら、確かにそうだった。薬を呑めば、また頑張れる。目を閉じれば、眠ることができる。聖女の務めの多忙さを、ほんの一時だけでも忘れて夢の世界に旅立てる。──でも、ほんとにそれだけだった?
(あれ……)
なぜか不意に怖くなって、ティルダは胸を抑えた。もう心臓は動いていないのに、そんなことをしても意味はないのだけれど。でも、そうせずにはいられなかった。
「鴻輝の治世がどのようであったか教えておくれ。妾が骨抜きにした者どもが、いかに落ちぶれて行ったのかも」
「はい、是非──」
黙りこくるティルダには気付かないようで、玉燕と梅芳は昔話に花を咲かせている。とても楽しそうなのに。遠い昔の異国の話は、興味深いはずなのに。
無邪気に聞き入ることができないのが、残念でならなかった。




