46.抱き合う親子
梅芳とのやり取りでは埒が明かないと見たのか、玉燕は息子のほうを向いて、鋭く怒鳴った。
「鴻輝!」
「は、はい、母上」
床を割って咲いた花々の陰に座り込んでいた鴻輝帝は、急に名を呼ばれて背筋を正した。大人の男の人で、とても偉い皇帝だったというけれど、母親に叱られたところはもっと幼い少年とさほど変わらないのかもしれなかった。
続けて玉燕が浮かべた笑みや、紡いだ声の美しさや艶やかさは、息子に向けるものとしては不釣り合いだっただろうけど。傍で見ているだけのティルダでさえも、蕩ける心地で聞き惚れてしまいそうなものだったから。
「そなたは覚えていようなあ? 母は、そなたに構わなかったであろう? 寂しい思いもしたであろうなあ、恨んだであろうなあ。──だから、妾に毒など盛ることができたのであろう?」
「それ、は──」
でも、この綺麗な人が口にすることは、やっぱり怖い。自分を殺した自分の息子に、その時の気持ちを尋ねるなんて。そうして、梅芳の訴えをなかったことにしてしまおうというなんて。
(鴻輝さん……)
ティルダは、鴻輝帝に大いに同情したのだ。とても言いづらいことを言わされようとしているのだと思ったから。呼び掛けることができなかったのは、直接話したこともないのに名前を呼んで良いのか迷っただけで。
ラーギブは、「偉い人」が嫌いだからだろうか、そっぽを向いて手近な花を突いている。でもシルヴェリオやシェオルもティルダと同じ思いのはずだった。顰めた眉や、少し垂れた耳の角度が教えてくれている。無言のうちに視線を交わしたのは、あまりにひどくなるようだったら止めよう、という意味のはずだった。
でも──
「違い、ます」
「何……?」
鴻輝帝は、ゆっくりと、そしてはっきりと首を振った。ティルダたちや、玉燕が目を丸くするのにも構わず、身を乗り出して続ける。
「寂しくも悲しくも思いました。母上が傍にいてくださらないこと、誰も彼もが母上を謗ること──ですが、母である御方のことを、どうして恨んだり嫌ったりするでしょう……!」
梅芳にも玉燕にも負けじとばかりに、鴻輝帝は声高く叫んだ。嘆きの氷原の空気は冷え切っているし、この場にいる数人以外は人の気配もしないから、実によく響く。先ほどから立て続けに大声を間近に浴びせられて、ティルダは頭がくらくらし始めているほどだ。
「何と愚かで、甘いこと。皇帝であった者が……!」
反響を重ねながら凍った宙に消えていく鴻輝帝の声の残響を、さらに大きな玉燕の声が掻き消した。ティルダよりもほかの誰よりも、立ち直るのが早かったようなのはさすが、なのか──それとも、どうしても息子の言葉を否定しなければならなかった、のだろうか。
(あれ……玉燕さんを恨んでも嫌ってもない、って……?)
それ自体は良いこと、なのかもしれない。大昔の天という国で何があったのだとしても、親子が嫌い合ったり憎み合ったりするようなことはない方が良い、はず。
でも、そうするとまた疑問が増える。鴻輝帝は、どうして母を殺したのだろう。
「それは、母上が良い教師をつけてくださったからかと」
息子がぽろりと零した言葉に、玉燕は紅い唇を結んで押し黙った。では、これも本当のことのようだ。
「父や兄よりも善き君主になれば、構ってくださるかもしれないと思っておりました」
「……そなたが不出来では妾の立場も危うくなる。それだけのことだ……!」
「今、梅芳の話を聞いてやっと腑に落ちました。というか、そうであったら良いと思っていたことが、その通りであった、と……」
母親の尖った声も、もう鴻輝帝の舌を止めることはできなかった。どこか遠く──恐らくは彼が生きていた時代を見つめて、彼はぽつぽつと語り出す。
「母上はとても美しかった。兄たちは夢中になって──宦官でさえ傍に近づけさせなかった、と」
「ああ……」
相槌のような溜息を漏らしたのは、玉燕ではなくシルヴェリオだった。彼の気持ちは、ティルダにも分かる。彼女がものを知らなくて、王族の恐ろしさや親子の情とはどういうものか、知らなかったとしても。さすがに、ここまで聞けば。
だってそもそも、梅芳はすべて鴻輝帝のためだったと言っていたのだから。
「母上が私を可愛がっていたら、兄たちは私を始末しようとしたでしょう。母上が無視してくださったから、私の存在は忘れられていた。臣下を集め、密かに世を正そうとしても、見過ごされていた。母上が、兄たちの目を眩ませてくださったから──」
「すべて妾の楽しみのためでしかない! そのように見えるのは思い違いだ!」
玉燕が眉を吊り上げて怒鳴っても、もはや誰も信じない。この人は、息子に詰られたいだけだと分かってしまったから。最初に漏らしたことの意味は、ティルダにだって、もう分かる。
汚れはすべて妾が負うてやったのに。誰も裏切る必要などなかったであろうに──どうしてこのようなことになった? どうして素直に与えられたものを受け取らなんだ……!?
(誰も、知らなかったんだわ……!)
稀代の悪女と名高い人の、本当の目的を。当の本人と、梅芳以外は。彼女の悪名だけが鳴り響いて、その御子である皇帝のことはまったく伝わっていなかったことさえ、玉燕の思い通りだった。ただ、彼女を殺したのが実の息子で、その罪ゆえにコキュートスに堕ちたこと以外は。
「妾は空前にして絶後の大淫婦なのであろう。そなたは正義を為しただけ。それだけだと、いうのに……!」
玉燕はきっと、満足して死んだ──殺されたはずだ。自分さえいなければ、鴻輝帝は名君として歴史に刻まれる。母殺しの罪が地獄に堕ちるようなものだなんて、死んでから何千年もの間、考えもしなかったはずだ。コキュートスの酷寒で、凍り付いてしまったのだし。
(私の、せいだ……)
今になって親子が目覚めて、そして出会ってしまったのは。残酷な真実を知ってしまったのは。ティルダが、彼らを目覚めさせたりしたからだ。
(どう、しよう)
謝っても、もう、どうにもならない。聖女の魔力をもってしても。時間を戻したり記憶を完全に消してしまうことなんて。もう動かない心臓も、締め付けられるように痛くて、何も言えなくて──陸に上げられた魚のように、ティルダが口をぱくぱくとさせていると、鴻輝帝がなぜかにこりと微笑んだ。
「ですが、私は地獄に堕ちて安堵いたしました」
「何を言う……?」
ティルダだけでなく、玉燕にとっても彼の笑みの意味は分からなかったらしい。眉を顰める母に、鴻輝帝はおずおずと立ち上がり、歩み寄った。つい先ほどまで凍っていた人だから、ごくゆっくりとした動きだったけれど。だから、逃げようとすればできただろうけど──玉燕は、真っ直ぐに我が子と向かい合った。
「誰もが私を褒め称えたのです。自ら手を汚したのは立派な行いであったと。ですが、母殺しが大罪でないはずはございません。人には理非が分からずとも、神や魔王はちゃんと見ているものなのだと──やっと、罪に相応しい扱いを受けることができた、と」
今度は息子のほうから、母の手を握りしめ、額に押し戴いた。
「梅芳たちに母上を探すように頼んだのは、不孝を詫びなければならないと思ったからです。それに……地上では人目があるゆえ叶いませんでしたが、少しでもお話がしたかった。恨み言などとんでもない──私、こそ。御恩を仇で返すだけで……っ」
「何を言う!」
跪きかけた鴻輝帝を押しとどめて、玉燕はその体を抱き締めた。
「あの時、妾こそ安堵したのだ。そなたは無事に母を嫌ってくれた、後のことは何も心配いらぬと──このようなことになるなら、もっと優しくしてやれば良かった。母親らしいことは何ひとつしてやれぬままで──」
母親に抱き締められるのは、もしかしたら初めてだったのかもしれない。鴻輝帝の身体が、びくりと跳ねた。戸惑うように固まってしまって──でも、やがておずおずと腕が持ち上がって、玉燕の抱擁に応える。
「母上……」
「どうしてそなたが詫びることがある? 妾はそなたを憎んでも恨んでもおらぬ。誰が何と言おうとそなたには罪がない。殺された当の妾が許すというのに……!」
玉燕の声は、少しだけティルダの罪悪感を和らげてくれて、けれどそれ以上にまた心を引き裂いた。親子が再会できたのは、良かったと言えるのかもしれない。でも、結局のところここは地獄で、誰も逃げることはできない。また凍り付いてしまうのか、永遠に花を眺め続けることしかできないのか──いずれにしても、とても悲しくて寂しいことだ。
(どうしよう……)
抱き合う親子を前に、ティルダがどうにか言葉を探していた時──不意に、のんびりとした声が下のほうから聞こえた。
「──本当ですね、玉燕?」
シェオルが、白いふさふさとした尻尾を振りながら立ち上がったのだ。




