44.玉燕の真実
鴻輝帝と玉燕。遠い昔の、遠い国の母と子が、嘆きの氷原の宮殿の、霜の降りた床に座り込んで見つめ合っている。溶け始めた息子を覗き込んでいた玉燕は跪くような格好で、一方の鴻輝帝は、もっと低く、這いつくばるような格好だった。目が覚めたら、殺したはずの母親が目の前で怖い微笑みを浮かべていたのだから無理もない。
「どうした、鴻輝。そなたは賢い子であったのに。臆病なのは妾を始末しても変わらなんだか?」
嬲るような玉燕の言葉に、鴻輝帝の顔がいっそう引き攣った。今にも頽れそうに、彼の身体が揺れる──あるいは、母親に掴みかかろうというのか。
(動か、ないと……!)
ティルダの隣で、シルヴェリオの筋肉が強張った。足元では、シェオルがわずかに毛を逆立てたのが空気の流れで感じられた。コキュートスに堕ちた罪人同士、それも親子同士で乱暴なことにならないように、誰もが警戒し緊張したのだろう。
中でも、ティルダには罪人たちを目覚めさせてしまった責任がある。母子の間に割って入るべく、足に力を込めて飛び出そうと──した、のだけれど。
「あ、あの! どうか──」
「申し訳、ございませんでした……!」
飛び出したティルダの目に飛び込んできたのは、平伏した鴻輝帝の頭、だった。梅芳が、玉燕に対してしていたのと同じような。天の男性は、女性とはまた違った髪の結い方をするらしい、と考えたのは、たぶん現実逃避だろう。
(……あれ……?)
慌てて足を止めたティルダは、つんのめるように床に転んでしまう。玉燕のすぐ近く、少し後ろの辺りに。でも、玉燕も鴻輝帝も、目の前の相手だけを注視して身動ぎしない。シェオルたちも──この場にしゃしゃり出るのは、あまりに気まずいだろう。
だからティルダは、鴻輝帝の苦渋の表情での告白を、気配を殺して見守ることしかできなくなってしまった。
「母上の……その、悪評は皇太后に相応しくない、国の乱れのもとだと……何を企まれるか分からぬと諫言が相次ぎましたので……皇帝自ら宥めても収まることはなく──すべて私の、力不足でございました」
「まあ、当然であろうな」
(……あれ……?)
母と息子が争うことを、恐れていたのに。どこまでも罪を詫びる体の鴻輝帝の言動も不思議なら、あっさりと溜息を吐くだけの玉燕の反応も不思議だった。まるで、殺されてもしかたなかった、と言っているようで。彼女自身のことだというのに。
もちろん、ティルダの疑問を口にすることなんてできない。彼女は、生まれた時代も国も違う、赤の他人にもほどがある存在だから。そもそも、玉燕は相変わらずティルダを振り向いてはくれない。むしろ逆に膝を進めて、息子の顔を覗き込んでいく。
「だが、人に任せれば良かったであろうに。そなたの毒の盛り方は大層下手であったぞ。妾でなければ気付かれて──いや、妾にもひと目で分かったのだが。とにかく、剣でも毒でも、もっと綺麗に済ませる者は幾らでもいたであろう。そなたを慕う者は多かったのだから」
「そのような──臣下の手を汚させて、何が皇帝でございますか? 命じたのだろうと黙認したのだろうと、咎は私に帰せられましょう。……私が、やらなければならなかったのです」
と、そこまで語ってから、鴻輝帝は恐る恐る、という風に顔を上げて、首を傾げた。
「お気づきで、いらっしゃった……?」
それは、ティルダが抱いた疑問と同じだった。つい先ほど、逆巻く渦の大水蛇が鴻輝帝を咥えて現れる直前も、玉燕はそう言っていた。やはり──というか考えるまでもなく、毒と知っていながら飲み干すのは、絶対におかしいことなのだ。
(どうして……?)
鴻輝帝とティルダだけではない、その場の全員の疑問でもあったはずだ。氷の宮殿で、誰もが既に死んだ身だというのに、息を詰めて身を乗り出す気配がその場の温度を上げるよう。
玉燕は、相変わらず野次馬の目を気にすることはないようだった。普段の彼女からして──普段、というほど彼女のことを知らないけれど──、聞かれたからといって素直に答えてくれるとは限らない。でも、息子の疑問に対しては、さすがに同じ冷たさや高慢さではないようだった。
「……そもそも妾は待っていたのだぞ。妾がいる限り、そなたの後宮も整わぬであろうに。なかなか刺客が来ないと思うていたら、そなた自身が来たのだから──まあ少々驚いたが、騒ぐのも無粋であったろうしなあ」
玉燕が漏らした溜息が、鴻輝帝の額にかかるのではないかというほど、ふたりは近づいていた。自分を殺した息子と対峙して、彼女がどんな顔をしているのか、ティルダには見えない。でも、玉燕の声には深い悲しみが宿っているような気がした。それも、息子に殺されたからではなくて、もっと違うところに理由があるような。
「一度失敗したとなれば、次まで間が空くであろう。そなたも気まずいであろう。そう思って飲んでやったのだ。だが──妾は、しくじったのか? 時間がかかってもまどろっこしくても、他の機会を待つべきだったのか? このようなことになると分かっていたら、そなたの毒を呑んだりしなかったのに……!」
玉燕の声は、次第に高くなっていった。冷え切ったコキュートスの空気に、悲痛な声はよく響いた。もう何千年も前の、取り返しのつかないことについてなぜ、どうしてと問う声は、ティルダの胸も締め付けた。
自分が死んだ時の記憶もない彼女には、玉燕の悔恨は理解しきれないのかもしれないけれど。それでも、美しいはずの声が激しい感情に揺れるのを間近に聞くのは辛くて悲しかった。玉燕はいったいどんな表情で語っているのだろう、母に対峙する鴻輝帝は、恐らくは寒さによってではなくがたがたと震え始めていた。
その震えを抑えようとするかのように、玉燕は手を伸ばし、息子の両手を包み込んだ。
「鴻輝よ、恨み言はないのか? そなたは地獄に堕ちるような子ではなかったであろう。そなたの玉座は染みひとつない清らかなもの。汚れはすべて妾が負うてやったのに。誰も裏切る必要などなかったであろうに──どうしてこのようなことになった? どうして素直に与えられたものを受け取らなんだ……!?」
「母、上……?」
目を見開いた鴻輝帝は、年齢よりもずっと若い、少年のような表情をしていた。
(そういえば、この人のことは何も知らないわ……)
天の国の玉燕妃は悪名高いけれど、その息子がどんな王だったかについてはティルダの国と時代には伝わっていなかった。若くして亡くなったからかもしれないし、名声よりも悪名のほうが残りやすいのかもしれない。
でも、玉燕の叫ぶような訴えを聞いて、ティルダはふと思い出す。どこだったかの城塞の片隅で、石壁の隙間に巣を作った鳥の親子を見たことがある。人間の目に気付いた母鳥は、翼を広げて雛を隠していた。小さな身体なのに、子供のためなら見上げるような人間にも立ち向かおうとした。
どうしてそんなことを思い出したのか──答えを見つける前に、また別の声がコキュートスの冷気に響いた。
「皇后さま。申し上げても、よろしゅうございますか……?」
梅芳だ。部屋に入った時からずっと平伏して、ティルダ以上に気配を消していた女性が、意を決したように口を開いたのだ。たぶん、この人の立場だととても無礼なことで、とても勇気が要ることなのだろう。
梅芳のかつての主人たちの反応は、正反対だった。言ったことも、その口調も。
「ならぬ」
「梅芳か。言っておくれ」
切り捨てるように命じた玉燕と、見知った人の姿にやっと気付いたらしく、明るい声を上げた鴻輝帝と。
「ありがたく存じます、陛下。それではわたくしが知ることをお伝えいたします。ずっと、お伝えしたかった……!」
相反する命令に、けれど梅芳は一瞬も迷わなかった。主人たちがそれぞれどんな反応をするか、予想していたのだろうか。
梅芳は低く伏せた姿勢から顔を上げた。苦しくないのか心配になるような格好だけど、彼女の顔は晴れやかだった。
「皇后さまの行いはすべて、陛下の御為でございました……!」




