43.皇帝の目覚め
魔王の城に戻ったティルダたちは、天の国の鴻輝帝──玉燕の実の息子だという人を、床を割って芽吹いた花々の中に寝かせた。床に直接、というのはとても失礼なのだけど、今の嘆きの氷原では、寝台も長椅子も凍り付いて冷たくて硬いだけ、氷を溶かしてくれる花の褥が、たぶん一番寝心地の良い場所なのだ。
(あれ、でも……)
逆巻く渦の大水蛇から吐き出された時、鴻輝帝は四肢をあちこちに投げ出したひどい格好だった。凍ったまま、しかも屋外ではその体勢を変えることもできないから、そのままの姿でシェオルの背に乗せて──寝かせたところで、やっと身体と脚をまっすぐに伸ばして、胸の上で手を組んだ姿に整えたのだけれど。花が咲き乱れる中でその格好だと、まるで──
「死んでるみたいだな……って、死んでるんだけど」
ラーギブが思わず、という感じで呟いたひと言に、大人たちの間には絶妙に緊張が走った。
(やっぱり、そう見えるんだ!)
亡くなった人に花を捧げるのは、国や時代が違っても変わらない、遺された人たちの営みらしい。シェオルもぴんと耳を立てたから、もしかすると地獄の番人たちにも共通する感覚なのかも。でも、全員が同じ感想を抱いたと分かったからといって、それではしゃぐ訳にもいかない。
だって、ここにいる者は皆、等しく既に死んだ身で、等しく罪を犯している。しかも、母親である玉燕が目の前にいて、ひどく険しい目で黙りこくっているのだから。
「……えっと、ごめん」
怖いもの知らずに見えるラーギブも、さすがに気まずいと思ったらしく、小さな声で謝った。でも、彼の声が聞こえているのかいないのか、玉燕は無言のまま、死んだように目を瞑り続ける息子を睨むように見つめている。
玉燕がやっと口を開いた時も、語りかけたのは同じ国の女官に対してだけだった。ティルダたちは、まるで存在しないかのように扱われている。でも、きっと無理もないことだった。自分を殺した相手に対峙する時の気持ちは、この場の誰にも分からないのだから。
「鴻輝はずいぶん若くして死んだようではないか。まさか、そなたが先に逝ったということはなかろうな、梅芳?」
「あ、あの……わたくし、は」
梅芳は、城外の荒野でしていたのと同じように、跪くよりなお深く、顔を床につけそうなくらいにひれ伏していた。それでも呼び掛けられて一瞬だけ顔を上げ、そしてすぐにまた伏せる。傍で見ているだけでも、玉燕の目は鋭くて険しくて、綺麗なだけに、怖い。その眼差しを直に向けられて、とても答え辛いであろうことを答えなければならない気持ちも、ティルダには想像しきることはできそうになかった。
(梅芳さん……絶対に会わせたくないって、言っていたのに)
ティルダも、梅芳のたっての願いを手伝うつもりだったのに。リヴァイアサンの仕業とはいえ、彼女の心中を思うとティルダも居ても立っても居られない。当のリヴァイアサンは、人間たちの騒動を興味深そうな(?)面持ちで窓の外から覗いている。たぶん悪気がないことを叱っても意味がない気がするし、城を壊すのは良くなさそうだ、と分かってくれただけでも良いのだろうか。
梅芳は、ティルダに責めるような目を向けることはなかった。かつての主である玉燕に対しても、怯えて、言い淀む気配こそ見せたけれど、口を閉ざすことなく、詰問に答える。
「わたくしは、陛下にお供いたしました。どこまでもお仕えすると誓いましたゆえ」
「いつだ。この子は幾つまで生きた?」
「四十前──いえ、あの三十と、六でいらっしゃいました」
それでも、鴻輝帝が亡くなった年をできるだけ遅く見積もろうとしたのだろうけれど。玉燕の目は、そんな誤魔化しを許してくれなかった。
「妾を弑してから、たったの十と二年か。親殺しの罪を犯してまで保った玉座も儚いものであったな……!」
(そうね……とてもお若く見える。玉燕さんもだけど……)
十六で死んだティルダは、人の年齢のことをどうこう言える立場ではない。何ならラーギブはもっと幼い。でも、ふたりとも、恐らくは普通ではない死に方をしている。ティルダは過労、ラーギブは刑死。皇帝ともあろう人がそんな死に方をするはずはないだろうから──
「やはり、病か? 位を極めたところで天意には勝てぬのか……」
玉燕が呟いた時、鴻輝帝が身動ぎした。伸ばしていた身体が横になって丸まり、整った──玉燕に似た──眉が寄せられる。恐らくは寒さに噛み締めていた唇が、微かに開いて呻きが漏れる。
「う……」
「これ、起きよ、鴻輝。そなたは寝起きの良い、手のかからぬ子であったであろ?」
「皇后様──」
玉燕は、息子の傍らに膝をつくとそっと揺すった。梅芳が膝でにじり寄って声を掛けるのも、無視して。梅芳が助けを求めるような目でティルダを見てくるのが、分かる。彼女が何を懸念しているのかも。
(玉燕さんは、裏切った人たちを許さないって……)
梅芳は、玉燕がそう言った時にはまだ目覚めていなかった。でも、この人ならそう考えるだろうということは、すぐ傍に仕えていた人なら分かってしまうのだろう。
と、いつの間にかティルダのすぐ傍に近づいていたシルヴェリオが、そっと囁く。
「大丈夫。乱暴なことはさせません」
「は、はい……」
怪我人が出ないような、ということなら確かに将軍はとても頼もしい。玉燕を取り押さえるのも簡単だろう。
(でも、この先どうしたら良いんだろう……)
玉燕は、自分を殺した息子に何を言おうと──何をしようと、しているのだろう。せっかく目覚めた者同士、集まって行動したほうが安全なはず……だけど、殺した者と殺された者が同じ場所に留まるなんてできるのかどうか。でも、ふたりがそれぞれどう感じたとしても、どちらかと別れるなんて考えられない。ラーギブのもと仲間の盗賊たちや、ほかにも危険な罪人がどれだけ目覚めているかも分からないのに。
(玉燕さん……どうか、ひどいことはしないで……)
手を胸の前で組み合わせて必死に祈るけれど、口に出すことなんて考えられない。だって、玉燕は殺されたのだから。毒を盛られたと言っていた。それをやった犯人を前にして何もしないでいろなんて、それもまたひどいことだろうから。
結局、シルヴェリオが言った通りだ。乱暴なことが起きそうになった時に初めて、止めるしかない。
(いざとなったら私が盾にならないと)
でも、シルヴェリオに任せきりには、しない。梅芳と約束したのはティルダなのだから。何かあった時のために、すぐに飛び出せるように。彼女は少しずつさりげなく、すり足で玉燕たちに近づいた。──ティルダが思い悩む間にも、玉燕は息子を揺すって声を駆け続けている。
「これ、鴻輝」
「あ──は、母上……!?」
そして何度目かに呼びかけられて、鴻輝帝はとうとう目を開いた。何度か瞬きをするうちに、目の前にいるのが玉燕だと──殺したはずの母だと、気付いたらしい。彼は凍り付いていた時よりも蒼白な顔色になって、素早く転がるようにして玉燕から距離を置いた。その動きで花が何本か折れ、彼の身体で踏みつぶされる。
「死人を見たような顔をせずとも良いであろうに。……まあ、そなたにとってはその通りか。そなたが殺した母に再び見えるのはどのような心持ちだ?」
だって──背後から忍び寄るティルダからは見えないけれど──玉燕はきっととても美しく怖い微笑を浮かべているのだ。我が子に呼びかける声も、水晶の鈴を鳴らしたらこんな感じだろうと思うくらいに澄んで涼やかで綺麗で、なのにとても怖いのだから。
「妾に恨み言があったのではないのかえ。なぜそう震えている? 良い機会ではないか。思う存分、言いたいことを言えば良かろう?」
笑いを含んでいるのにとても怖い玉燕の猫撫で声は、細かなやすりで心を削っていくようだった。後ろで聞いているだけのティルダがそうなのだから、迫られる鴻輝帝はもっと怖いはず。
「母上……わ、私は──」
それでも、彼は震えながら口を開いた。子供が、親に口答えする勇気をかき集めた時のような表情で。大人の男の人なのに、不釣り合いな表現なのだろうけれど。




