42.高みの見物
氷の玉座で優雅に脚を組みながら、魔王ジュデッカは罪人たちの挙動を眺めていた。
逆巻く渦の大水蛇が穿った川のほとりが、騒がしくなっている。希代の淫婦玉燕が、自身を殺めた息子と再会を果たしたところだった。
「やはりお前が堕ちてきて良かったな、聖女とやら……」
上機嫌で呟くのは、自慢の美貌を歪めて喚く玉燕の姿が面白いからだ。嘆きの氷原の酷寒に震える姿は前にも見たが、罪を罪とも思わない悪女がこれほど取り乱した姿を見るのは初めてではないだろうか。罪人に課した鎖に意識を集中すれば、しきりに動く唇が何を言っているかも聞こえてくる。
『……鴻輝。鴻輝ではないか。そなたが、なぜここにいる……!? 梅芳よ、妾が死んだ後に何があった!?』
裏切った者と裏切られた者が、同じくコキュートスに堕ちるのはさほど珍しいことではない。人を裏切るような者は、大体において似たような末路を辿るものだ。玉燕が問い質す梅芳という女も、前の主人と、ほかならぬ玉燕を裏切っている。
ただ、時を同じくして死んで、コキュートスで鉢合わせるのは滅多にあることではない。魂を凍らせる寒さの責め苦に長く絶えられる罪人は少ないからだ。いずれ、自身を裏切った者が堕ちてくることを信じて耐えようとする者もいないではないが、それが叶ったことはないのではないだろうか。ルクマーンの盗賊団は、裏切り合った悪人たちがほぼ同時に処刑されるという稀な事態が招いた例外だった。
「お前が余計なことをするからだ。お陰で、母と息子が地獄で争うことになってしまったぞ?」
相手に聞こえないのは百も承知で、ジュデッカはおろおろと辺りを見渡すティルダという小娘の醜態を嘲った。今はあちらにいるシェオルが聞いたら、悪趣味だと耳を寝かせるかもしれないが。だが、実際愉しいのだからしかたない。
聖女ぶって、花を咲かせたりするからだ。そうして氷が溶けて罪人どもが動き出した。本来ならば会うはずのない者たちが出会ったし、盗賊団は最初の裏切り者を追うべく城内を探索しているようだ。いかにも慈悲深そうな顔をして、あの小娘はかえって血と混乱を撒き散らそうとしている。
「罪人が苦しむなら、俺としては願ってもないが」
いかなる事情があろうとも、裏切りの大罪を犯す者は苦しむべきだ。コキュートスの酷寒の檻はそのために彼が作り上げたもの。とはいえ、さらなる責め苦が加えられる状況は、番人としては歓迎すべきだろう。
「罪人など、皆、ろくでもない連中だからな……!」
鴻輝という古の人の国の皇帝も、恥ずべき裏切り者のひとりだった。時を同じくして堕ちてきた臣下や女官たちは、口々に何かの間違いだと訴えていたが。
『あの淫婦を弑したのが罪に当たるなどとあり得ない!』
『陛下は後宮の膿を除いただけだというのに──』
『民も喜んでいた! 悲しむ者など誰もいなかった!』
裏切り者どもがよく喚く、とジュデッカは思ったものだ。王や皇帝が死んだ時に、臣下を引き連れて堕ちてくるのは古の時代にはままあることだった。殉死という意味の分からない風習が、かつては地上に蔓延っていたのだ。
だから、ルクマーンの一味とは違って、少なくとも彼らは互いを裏切り合ってコキュートスに行きついたのではなかった。とはいえ、裏切りは裏切り、罪は罪だ。鴻輝と共に堕ちた者たちは、主君のために何かしらの裏切りを犯したということだ。
周囲の者たちが騒ぎ立てるだけ、黙然と俯く皇帝の派手な冠が、裏切りによって贖われたものだと浮かび上がらせるようだった。慈悲深い名君などとんでもない、鴻輝という男は積み上げられた罪の上の血塗られた玉座に平然と座っていたのだ。
『皆の者、もう良い。止めておくれ。神の──天の世界の理が罪と定めたのであろう。天の名を戴く国の民であったからには、従わねばならぬ』
鴻輝は、それこそ聖人のような顔で、臣下たちを宥めていたが。地獄に堕ちた分際で白々しいものだと思ったから、ジュデッカは揺さぶってやろうと考えた。
『我慢が足りなかったな、皇帝よ。お前は慕われ、お前の母は嫌われていた。もう少し待っていれば、お前が手を下さずとも誰かが玉燕を始末してくれていただろうに』
母親が早く死ねば良いのに、と願うのも道に外れたことではあるだろうが。だが、自らの手を汚さなければ一応は罪にはならない。高潔と謳われたらしい皇帝だけに、悪逆の限りを尽くした母親がそれほど疎ましかったのだろうか。
『そんな──そのような、ことが……』
ジュデッカが教えてやると、案の定、鴻輝は顔色を青褪めさせてよろめいた。殉死した連中も、声を揃えて騒ぎ出した。
『──そうだ! 私だって玉皇后を弑する覚悟はあった!』
『わたくしも! 陛下は民と臣下の声を聞いてくださっただけなのだ』
『ならば罪は我らにあろう……!?』
その時はジュデッカの足元に丸まっていたシェオルが、あまりのうるささにぶわりと気を逆立てさせたと思う。あるいは、主人の振舞いへの何かしらの批判だったのかもしれないが。とにかく、天の国の罪人たちの狼狽えようは彼を愉しませた。
誰も彼も、罰を受ける段になって初めて罪の重さを知るのだ。地上にも刑罰はあるのだろうに、自分だけは逃げ切れるとでも思っているのかどうか。もしもそうなら、地獄の実在と容赦のなさを教えるのが彼の役目というものだ。
『……それでも、臣下の罪は主君の罪になるだろう。余は地獄に堕ちて当然の者なのだ』
鴻輝という皇帝は、自身の罪を思い知ったのかどうか。色のない唇が震えながら紡いだ言葉は、あまりに殊勝でつまらないと思ったものだったが。
天の国の罪人たちは、しばらくの間は固まって行動していたようだった。いじらしいことに、皇帝を守るかのように身を寄せ合って。とはいえそれもほんの一時のこと、コキュートスの酷寒にひとり、またひとりと凍り付き、嘆きの氷原には再び静寂が戻ったのだ。もう、何千年も昔のことだ。
ジュデッカの覗き見など気付いていない罪人たちは、母と息子の邂逅に慌てふためいているようだった。
『とにかく……この人を城に連れ帰ったほうが良いでしょう。この……その、溶けかけの状態ではまともに話もできないし』
『そ、そうですね……』
中でも真っ先に建設的な提案をしたのが、もと将軍のシルヴェリオだというのはさすが、だろうか。間抜けな顔で頷くばかりのティルダという小娘は、まだまともに頭が働いていないように見える。
『この際ですから私が載せて運びましょう。将軍は、玉燕を引きずってきてください』
『……そうしましょう』
さっさと役を割り振るシェオルは、いったい誰の僕なのかと、思わないでもなかったが。まあ、変化の少ないコキュートスに退屈しているのは主であるジュデッカだけではないのだろうと納得することにする。
何よりも、ひと通り騒いだ後で表情を消した玉燕を観察する方が大事だろうし。
『……親殺しも裏切りになるか。なるほど、のう……』
『は──』
確か梅芳と言ったか、天の女官はかつての主の目に留まりたくないとでも言うかのように氷の大地に平伏して身を縮めている。それでも問われれば素直に答えを吐き出すのが、生前の力関係を物語っているのだろう。
『陛下は、皇后様もこの地獄にいらっしゃるのではと、お供した者たちに探させておりました』
『地獄に堕ちたのは妾のせいだ、とでも? 恨み言を言うつもりだったのであろうか』
『陛下御自身からは、何も。そのようにお察しした者もおりましたが……』
『目覚めたのが、妾を見つけたのがその者どもでなくて、無念であったろうな……!』
鴻輝帝の思惑は知らなかったから、ジュデッカも少し驚いた。そして同時に、人の世の王らしいことだ、と納得もする。
(死んだ後でも臣下に手を汚させるのだな。──あるいは、自ら手を汚して地獄に堕ちたからか?)
シェオルの背に載せられた鴻輝帝は、いまだ目覚める気配はないようだった。だが、花が咲いてしまった城に戻れば完全に溶けるだろう。
(さあ、どうなる……?)
これから起きる事態に胸をときめかせるような思いで、ジュデッカは鎖を手繰った。




