41.リヴァイアサンの土産
ティルダがようやく岸のてっぺんに手をかけると、軽やかな笑い声が耳に届いた。玉燕の声だ。シェオルと先に上がっていた梅芳と、生前の話もしているのだろうか。
彼女たちの様子を確かめるため、最後のひと息を登り切ってしまおうと足に力を込める──までもなく、ティルダの身体はふわりと持ち上げられた。
「おかえりなさい、ティルダ。よく頑張りました」
ティルダとラーギブの様子を見守っていてくれたのだろう、シルヴェリオが彼女の手を掴んで引っ張り上げてくれたのだ。
「シルヴェリオさん、ありがとうございます!」
「俺はひとりで上がれる! 余計なことすんなよな」
久しぶりに平らな地面に立つことができて、ティルダはほっと安堵の息を吐いた。彼女に続けて手を差し伸べられたらしいラーギブは、子供の生意気さで手助けを断ったらしいけれど。
「天の国の方と会えたんです。それも、玉燕さんのお知り合いだって──あの、お話が弾んでいるみたいですね……?」
「ええ、まあ。ルクマーンの一味といい、同じ時代の同じ国の者と巡り合うこともあるのですね」
「羨ましいのですか、将軍は?」
「いいえ。私の罪を知っている者と顔を合わせたくはないし、知らない者は私を称賛してくれるでしょうから。いずれにしても居たたまれない」
離れていたのはほんの短い間だったけれど、挨拶のように身体をすりつけてくれるシェオルの毛皮のふわふわとした感触が懐かしかった。シェオルとシルヴェリオの、親しげなのに時々どきりとしてしまうようなやり取りも、もういつものことだった。
(梅芳さんも安心してくれたかしら?)
玉燕の笑い声がしたほうに目を向けて──そして飛び込んで来た光景に、ティルダは思わず絶句した。
「ああ、大儀であった。まさか梅芳を探してくれるとは思わなんだ」
まずは、玉燕の蕩けるような笑顔。こんなに機嫌が良いところは、初めて見るかもしれない。でも、喜ぶことはできなかった。優雅な立ち姿の玉燕の足元に、梅芳がうずくまっていたのだ。跪くよりもずっと低い体勢で、地面に座った上に手と額を氷原についている。
「梅芳さん……! 寒くないんですか!?」
嘆きの氷原の酷寒は、肉体よりも魂を凍らせるものだ。でも、ほかの人が素肌を氷に触れさせているところなんて、見るだけでも寒そうだ。慌てて駆け寄って、助け起こそうとするのだけれど──
「皇后の前では額づくのが礼儀というものであろ。この者は身分を弁えているだけだ」
「玉皇后様の仰る通り、これが天の作法なのだ。気にすることはない」
玉燕は美しい微笑のままで梅芳もティルダも見下ろして、梅芳のほうも、ティルダの手に全身で抗って頑なに顔を上げようとしない。
(ここまでしないといけないの!? 地面でも!?)
ティルダの生きていた国と時代では、王様や神様にだって跪くまでしかしないのに。戸惑い驚く彼女に降ってくるシルヴェリオの困り切った声は、この将軍の常識でもやはりこれは信じられないことなのだと教えてくれていた。
「私も、地獄に堕ちてまで生きていたころの作法を守らなくてもと言っていたのですが、この有り様で──ティルダたちが戻ったからには、早く城に帰りましょうか」
「そ、そうですね……あの、すみません、お待たせして……」
魔王の城に帰るというのも、おかしな表現ではあるのだけれど。たとえやり過ぎとしか思えないほどに低頭するのが天の倣いだとしても、氷の地獄には変わらないとしても、屋内の床なら見ているほうとしてもだいぶ気が楽だろう。
何より、城には花が咲いている。気持ちの上でも身体の上でも、外よりはだいぶ暖かいはずなのだ。
天の作法として、貴人の供をする時にはどれくらい後ろからついて行くのかとか、その時の目線や歩幅に至るまで細かに定められているということで、歩き始めるにあたっても幾らか揉めた。玉燕と梅芳は生前のとおりにしたがったけれど、そうすると他の者たちはとても歩きづらくなってしまう。
最終的には、玉燕と梅芳の間にティルダが挟まって進むことにした。他の国の人間が間にいるから天の作法通りにいかないのだ、という体にしたのだ。シルヴェリオでもラーギブでも良かったはずだけど、女性の足の歩みはとても鈍くて、ふたりが合わせるのはかえって大変そうだった。
きょろきょろと、前と後ろにいる女性をそれぞれ気にしながら、ティルダは城に辿り着くまでの間を持たせようと務めた。
「あの、さっきはどんな話をしていたんですか……?」
「妾が殺された後のことだ。何が、誰がどうなったのか──知れるものなら気になるであろう?」
「そう……ですね……」
死んだ時の記憶が曖昧なティルダにとっては、頷きにくいことではあった。気になるのは、まあ分からないでもないけれど、先ほどの玉燕は朗らかに笑っていたような。
(殺されるのは……苦しかったり怖かったりするのではないのかしら)
不思議には思っても、もちろん口に出して尋ねることはできない。玉燕に限って、ティルダの疑問を感じ取ってくれたなんてことはないだろうけど──彼女にとっては人に聞かせたい話題なのか、美しい声が恐ろしいことを歌うように紡ぐ。
「妾の葬儀はそれは盛大であったそうだ。貴顕はもちろん、民草に至るまで路上に溢れて天を仰ぎ伏して泣き叫んでいた、と──ふふ、大方は嬉し泣きであっただろうが」
「は、はあ……」
何とも相槌に困る発言に、ティルダはあたりを見渡した。シェオルは、関与しません、とでも言いたげに尻尾を一定の高さに掲げてとことこと歩いている。ラーギブは、玉燕たちの歩みが遅すぎるのか、少し離れたところを蛇行している。時々屈むのは、変わった形の石でも落ちているのだろうか。
「玉燕妃は弑逆されたと聞いていましたが、葬儀が行われたのですね」
「表むきは病死ということであったゆえ。……皇后様は毒を盛られたのだ」
先頭で周囲を警戒してくれているシルヴェリオがひとり言のように呟けば、殿を務める梅芳も同じくぼそりと返す。ティルダと、当の玉燕を挟んでのやり取りも、やはり反応し辛くて、とても居心地が悪い。
「鴻輝──息子は、それはそれは青褪めて手が震えていてなあ。まったく臆病な子であった。あれでは何かあるとひと目で分かってしまうであろうに」
(え──じゃあ、玉燕さんは毒だと分かって……?)
ひとり言を受けてのひとり言のような玉燕の言葉も、笑いを含んで優雅だった。それに、相変わらず恐ろしいことを言っている。
「あの──」
さすがに疑問と好奇心が遠慮を上回って、ティルダが口を挟もうとした時だった。──黒い影が、空を覆った。見上げると、銀の煌めきが宙を泳いでいる。逆巻く渦の大水蛇が、水の雫を雨とまき散らしながら飛んで来たのだ。
「ひ──龍……!?」
そういえばリヴァイアサンの存在を知らなかった梅芳が、悲鳴を上げて立ち竦む。危険ではないと伝えようと、彼女のほうへ急ぐティルダの耳に、シェオルののんびりとした声が届いた。
「リヴァイアサン。あれもティルダが従えている怪物です。──遊び飽きて帰ってきたのですかね」
(別に従えている訳ではないのに……!)
とはいえ、シェオルへの反論よりも、梅芳を安心させるほうが先だ。ティルダは今にも倒れそうな顔色の梅芳を支えながら、息を吸い、言葉を探した。
「えっと……大きいしびっくりしたと思うんですけど、あの子は怖くないんです! 暴れたり人を襲ったりはしない……と、思います! た、たぶん……」
そういえば断言できるほどにリヴァイアサンとの付き合いも長くないことに気付いてしまって、ティルダの声は弱々しく頼りなく揺らいでしまう。
しかもリヴァイアサンは、ティルダの姿を見ると笑うように顎を大きく開いて、ずらりと並んだ牙を見せつけた。
「く、食われる……」
梅芳の呻きも、とてももっともで──ティルダも、思わず身体を強張らせてぎゅっと目をつぶる。と、視覚を閉ざした闇の中に、べしゃ、という音が聞こえた。恐る恐る目を開けると──
「人……また……?」
「溶けかけているようですね」
「ティルダが喜ぶと思って持って来たのでは?」
「俺、知ってる。猫もそういうことするんだ」
最初は、氷の塊に見えた。でも、ティルダはもう知っている。魂まで凍り付いてしまった罪人がどう見えるか、どう溶けるか。リヴァイアサンが吐き出したらしいその氷塊は、ティルダたちが囁き交わすうちに人の姿になっていく。
若い、線の細い男の人だ。黒い髪をきっちりと纏め上げて結っている。それに、薄い絹を何枚も重ねた、刺繍も見事な衣装。造りは少し違うけれど、玉燕と梅芳が着ているものに似ていると思う。
(天の国の人……また……?)
直感が当たっているかどうか尋ねようと、ティルダは玉燕と梅芳に視線を向けた。そして、気付く。ふたりとも、凍り付く寸前のように青褪めて震えていることに。
「……鴻輝。鴻輝ではないか。そなたが、なぜここにいる……!?」
玉燕の悲痛な声が、荒野に響いた。




