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40.裏切った者、裏切られた者

 (ティエン)の国の女官だったという女性は、梅芳(メイファン)と名乗った。


「わたくしは鴻輝(ホングイ)さまが身罷(みまか)られた時に殉死したのだ。だからあの御方がここにいることも存じている。──ならば、あの御方もこの辺りにおられるということにはならぬのか?」

「どうなんでしょう、シェオルさん」


 聞かれたことを他所(よそ)に振ることしかできないのを情けなく思いながら、ティルダはちょこんと座った白い巨大な狼を見下ろした。梅芳の推測も理が通っているとは思うけれど、答えられるほど彼女はこの地獄に詳しくなかった。


 ティルダの青と、梅芳の黒と。色の違う目に見つめられて、シェオルは可愛らしく首を傾げた。


「さあ、可能性はありますが。この女性もその皇帝も、嘆きの氷原(コキュートス)で長く耐えられるとは思えない。ならばそう離れることもなく凍り付いたのかもしれません」

「氷の魔王の(しもべ)でも分からぬのか……」

「ええ、残念ながら」


(あれ、シェオルさんたら……)


 シェオルの尻尾がゆっくりと振られたのは、相槌のようなものなのだろうか。それともがっかりした表情の梅芳に、むっとしたからだろうか。彼(彼女?)が続けた口調は、少しムキになったような気配があって、ティルダを思わず微笑ませた。


「我が主ならば当然分かるでしょうが。すべての罪人は鎖で目印がされている……ですが、主が教えてくれることはないでしょうね」


 シェオルは、鼻先を伸ばして梅芳の衣装にも絡んだ鎖を(つつ)いた。彼女もティルダもラーギブも、コキュートスに堕ちた者は罪人の証として魔王ジュデッカから銀の鎖を授けられる。とはいえ、ジュデッカが罪人を助けてくれるなんて期待できないのも分かるから、天の皇帝、玉燕(ユーイェン)の息子だという人を探し出すことが出来ない状況は変わらない。


「むう、そうであろうな……」

「梅芳さん……」


 表情を曇らせた梅芳に、どう声をかけるかティルダが迷っていると、拗ねた響きの高い声が割って入った。


「皇帝でも地獄に堕ちるんだな。やっぱり(エラ)い奴らは悪いことしてるんだ」

「ラーギブ、ちょっと──」


 ラーギブが、大人たちの話の退屈さに耐えかねたらしい。


 軽く唇を尖らせてそっぽを向いた少年の横顔は、可愛らしくはある。でも梅芳は眉を吊り上げたし、ティルダも驚きのあまりに(たしな)める言葉も出てこなかった。シェオルも、耳を寝かせた絶妙な角度で感心しない、と表明している。ただ、言い放った本人のラーギブだけが、大人の反応を楽しむように笑っていた。


「何を申すか。陛下ほどに慈悲深く民にも心を砕いた主君はおらぬ。」

「でも地獄に堕ちたんじゃん。裏切り者なんだろ?」


 ティルダが止める間もなく、ラーギブは生意気な笑みで梅芳を挑発した。梅芳の細い手指が拳を握るのを見て、ティルダは少年の代わりに殴られる覚悟をしようとした。


 でも、梅芳はゆっくりと拳を降ろし、深く呼吸をして──そして、低く抑えた声で、答えた。


「実の母君を手にかけたからだ。子が親に背くのはあり得べからざる大罪なのだと魔王は言うておった。玉皇后さまの非道ぶりを見れば、民も官吏も誰も罪などとは思わなかったであろうに……」


(そうだった、玉燕さんは……)


 悪逆と淫蕩の限りを尽くした天の玉燕妃は、最後は実の息子に殺されたのだ。ティルダも知っていた物語だったのに、改めて言われるまで思い至らなかったのは──さすがのあの人に取っても苦々しい記憶だから、なのだろうか。


「ふーん?」


 ラーギブは、何気ない相槌で応じていたけれど、軽く寄せられた眉は、迂闊なことを聞いてしまった気まずさを感じていることも示しているように見えた。


「皇后さまが陛下に会うようなことがあってはならぬ。分かってくれたであろう?」

「はい、とても……」


 再び梅芳に懇願の目を向けられると、ティルダは頷かざるを得なかった。きっと、母にとっても息子にとっても嬉しい再会にはならないのだろうと納得がいってしまったからだ。




 完全に飽きたラーギブが氷の川原を駆け回っている間、ティルダと梅芳は頭を寄せ合って相談して、玉燕と会うのはもう仕方がない、と結論付けた。


「わたくしが御傍(おそば)にいれば、万が一陛下が目覚められたときも皇后さまの御気を逸らすことができるやもしれぬ。そなたも協力してくれるというのだな、ティルダ」

「はい。あの、シルヴェリオさん──ほかの方もいるので、玉燕さんも無理はしないと思うんですけど」


 玉燕の扱いに慣れた人がいてくれたほうが何かと楽かもしれない、という打算のような思いもあっての結論だった。梅芳の表情の悲壮なこと、辛い立場を押し付けてしまうのでは、という不安もあるのだけれど。


(私も、頑張らないと……! もっとちゃんと考えて、嫌な思いをする人がいないように……!)


 ここが地獄で、接しているのが罪人たちである以上は、なるべく、という枕詞をつけなければいけないのだろう。何とも中途半端な態度で、しかも嫌な思いを()()()()なんてことが良いことなのかどうかも分からない。

 それでも、困った人に直に接すればどうにかしたいと思ってしまう──それは、聖女とか罪人とかは置いておいても、人として当たり前の感情であるはずだ。


(地獄でも……起きていることを許されているんだから、思うままに動いて良い、のよね……?)


 罪人が目に余る振る舞いをしたならあの魔王ジュデッカは罰すると思う。でも、ティルダの手足に絡みついた銀の鎖は沈黙したまま。だから──あの冷たそうで怖そうな人は、やれるものならやってみろ、くらいの態度で静観しているのではないか、とティルダは考えていた。


「まあ、鴻輝帝が目覚めるとしたらティルダの周辺で、ということになるのでしょうし、妥当な判断でしょうね」


 やはり退屈していたらしく、地面に身体を伸ばしてゴロゴロしていたシェオルが、話がまとまったのを見て取ってのそりと立ち上がった。


「シェオルさん、梅芳さんの服だと上まで登れないと思うんです。乗せて行っていただくことはできますか……?」

「梅芳が、(けだもの)の背に乗ることに耐えられるならば構いませんよ」

「この際、矜持などかなぐり捨てるべきなのであろうな。だから、どうか頼むぞ、魔王の(しもべ)の狼よ」


 シェオルは軽く尻尾を振って、良いでしょう、と言ったようだった。それからティルダを見上げて首を傾げる。


「貴女はどうしますか? 二往復するくらい、何でもないことですが」

「私は、頑張って上がってみます。降りるのはできたし……」

「俺がついてるから大丈夫! 狼にできることなら、俺だって。もっとなだらかなとこも見つけたし!」


 と、いつの間にか駆け寄ってきていたラーギブが勢いよく手を挙げた。シェオルが道案内をした往路の様子を見て、対抗意識を燃やしたらしい。


「なるほど。では、くれぐれも気を付けて」


 子供の負けん気は、シェオルにとっても微笑ましかったのかどうか。シェオルは、笑うように(あぎと)を開いて、鋭く並んだ牙を見せつけた。


 梅芳を乗せたシェオルは、軽々と崖を上っていく。梅芳の色鮮やかな衣装が翻って小さくなっていくのを見上げながら、ティルダとラーギブは地道な登攀(とうはん)に取り掛かることにした。


「ティルダ、次はそこ! 右手を少し伸ばすの!」

「ちょっと待ってね、ラーギブ」


 身軽なラーギブにしてみれば鈍い足取りかもしれないけれど、万が一にもふたりして落ちてしまうのが怖いから、ティルダはなるべく慎重にゆっくりと上っていく。


 ティルダを待つ手持無沙汰に、張り出した岩に腰掛けて、足をぷらぷらと揺らしながらラーギブが呟く。


「でもさ、死んだ後でも親に会えるなら良いんじゃないかな」


 玉燕と、その息子の鴻輝帝のことだ。溌溂とした少年の声に寂しげな響きを聞き取って、ティルダは岩肌を掴む手に力を入れ直さなければならなかった。


「ラーギブ、貴方のお父さんやお母さんは──」

「知らない。捨て子だったから。でも、親爺(おやじ)のことを本当の親だと思ってた」


 ようやくラーギブと同じ高さに辿り着いて、ティルダは少年の横顔をそっと覗き込んだ。


「ルクマーン……さん、に会いたいの……?」

「どうかな。親爺には本当の息子がいるし、俺を許していないと思うから」

「許す、かあ……」


 ハミード、といっただろうか。最初にラーギブを追いかけていた盗賊は、彼を許してくれそうになかった。玉燕も、彼女を裏切った者たちを許さないと言っていた。死んだ時の記憶が曖昧なティルダは多分稀な例外で、自分が死ぬ原因となった者に対しては強い恨みや憎しみがあって当然なのだろう。

 ──だから、コキュートスの罪人を目覚めさせるのは、やはり苦しみを長引かせることにしかならないのかもしれない。


「良いけどね、許してくれなくても」


 崖の途中で立ちすくんでしまったティルダに小さく笑い、ラーギブはまた軽やかに上を目指して駆け出した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 会いたいかどうかは、血の繋がりなんかよりも、きっとその関係性の方に重きがあるだろうからなぁ。 皇帝に聞いてみなければわからないことだけど。 ティルダ、崖登りがんばってー!
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