39.同じ時代、同じ罪
ティルダたちが何も言えないでいると、天の出身らしい女の人は、また深々と溜息を吐いた。青褪めた顔のまま、それでも万感の納得が込められた吐息だった。
「ああ……裏切り者の地獄、だものなあ。やはりあの方もここにいらっしゃったのか……」
「あの……お名前は……?」
玉燕の所業を詳しく知っているらしいということは、やはり彼女と同じ時代の人なのだろう。名前を聞いて玉燕に伝えれば、どういう人なのかすぐに分かるくらいの関係なのかも。
『妾と通じて元の主を裏切った者、妾を裏切って敵の手引きをした者──その辺りに天の後宮に仕えた者が眠っているであろう』
……それはつまり、上品そうなこの人も、何らかの「裏切り」を犯したことになるのだろうけど。この恐怖に引き攣ったような顔からすると、玉燕を裏切ったのかもしれないけれど。
「あの御方には名乗らずとも知れよう。だが、拝謁することなど考えられぬ。そのような、恐ろしいこと──」
ティルダの予感を裏付けるように、その女性は激しく首を振って自らの身体を掻き抱いた。
「あの、でも、玉燕さんはもう責める気はないみたい、でしたけど……」
それは罰を与える獄吏がいないからというだけだし、許す気もない、とも言っていたけれど。大事なところを伏せて伝える心苦しさに胸を痛めながら、それでもティルダはその女性に手を差し伸べようとした。
コキュートスで生前の知り合いに会えるのは、多分とても貴重で幸運なこと。ラーギブはかつての一味とは離れて行動することになってしまうけれど、もしも仲直りの機会があるならそれに越したことはないと思うのだ。
「そなたがどの国のどの時代の者かは知らぬが、あの御方のお言葉など信じてはならぬ。花のように美しく毒のない笑顔で、心にもないことを言うことができる御方なのだからな」
「そ、そうなんですか……?」
でも、その女性はごく真剣な表情で、いっそティルダに忠告するような調子で応えたのだけれど。
(玉燕さん、言いたいように言っているようだったけど……?)
出会ってからの短い間に言われたことを思い返すと、玉燕が心にもないことを言ったことなどなかったような気がしてならない。まあ、見たこともないくらいに美しいのは事実だし、生前は色々と駆け引きをしなければならなかっただろうから、コキュートスとは話が違うということなのだろう。
「玉燕は、そこの崖を上がったところにいますよ。同じ国の侍女や召使が欲しいのだとか。どうしても会うのが怖いなら、この場でまた凍り付くのも手かと思いますが」
「そなた──氷の魔王の遣いか。人の罪人に手懐けられたのか?」
シェオルが口を開いたのを見て、女性は目を丸くした。大きな白い狼の姿が目に入っていなかったはずはないけれど、気にする余裕がないくらいに玉燕のことで頭がいっぱいだったのだろうか。
(そんなに玉燕さんが怖いのかしら……)
それなら、会って欲しいというのは酷なことになってしまうのかも。でも、シェオルが突き付けたようにまた凍ってしまえ、なんて言うこともできない。
「シェオルさんもいますし、他の時代の人もいます。玉燕さんが貴女に何かしたりはできません。だから……一緒に上に上がっていただけませんか? 今のコキュートスは目覚めた罪人が増えてしまって……ひとりでいるよりは、集まっていたほうが良いと、思うんです」
「罪人が、目覚める? この獄は、魂までも凍らせるのが責め苦なのであろう? わたくしが目覚めたのも、そもそもおかしなことではあるが。そなたらは、近ごろ堕ちた罪人ではない……のか?」
玉燕に──大国の后に仕えたことがあるからか、女性は事態の把握がとても早かった。蛮族とごく大雑把に括っていたティルダやラーギブに、探るような視線を送ってくる。
「俺、一回凍っちゃったけど、つい昨日……ぐらいに目が覚めたよ。ティルダのお陰だってさ」
「なんと」
ラーギブはなぜか得意げに胸を張り、女性は、これまたなぜか鋭い視線でティルダを睨んだ。
「余計なことをしてくれたもの……!」
「す、すみません」
罪人の身で、同じく罪ある者たちを解放してしまうのは──わざとではなかったとはいえ──やはり叱られるべきことだった。シルヴェリオたちは褒めてくれるから忘れかけてしまっていたけれど、やっとちゃんとした反応がもらえた気がした、のだけれど。
「……天の者は皇后さまのほかには、わたくしだけか?」
「だと、思います。今のところ、そういう衣装の方には会っていません」
優美な衣装をまとった女性は、やはり優美に眉を顰めた。玉燕に仕えていたということは、王宮にいた侍女とか女官なのだろう。顎に指を添えて首を傾げる、考え込むような仕草だけでも実に洗練されていた。ただ、彼女が何を考えているのか、何に対して眉を顰めているのかがティルダには分からないままだ。
どうやら、ティルダを咎めようとしている訳ではないと思って良いのかどうか。落ち着かない思いでシェオルの毛皮を撫でていると、女性はついに口を開いた。
「そなたはどうやって罪人を目覚めさせるのだ」
ごく短い問いかけなのに、ティルダは言いよどんでしまう。言ったらますます眉を顰められるのではないか──そもそも信じてもらえないのでは、と。
「花が、咲くんです……」
「なんと?」
「えっと──」
案の定、「怪訝」という概念を音にしたような声で問い直されて、ティルダは言葉に詰まった。代わりに、シェオルが説明を加えてくれる。
「この方は聖女と呼ばれる強い魔力の持ち主です。その魔力で、この嘆きの氷原の氷を溶かし、花を咲かせたようですね」
「なんと?」
女性は、それでも納得したようには見えなかったけれど。それでも、尻尾を振るシェオルとはっきり頷いたラーギブを見て、これ以上聞いてもしかたないと決めたらしい。もう少し考え込んでから、彼女はまた違った角度から切り込むことに決めたらしい。
「……そなたは皇后さまに従っている訳ではないのだな? 地獄において、何を褒美にすれば良いのだろうか──わたくしの頼みを聞いてはもらえぬか?」
「わ、私に、できることなら」
女性が氷の大地に跪こうとしたのを見て、ティルダは考える前に口を動かしていた。
「ティルダ」
「シェオルさん、でも……」
シェオルの尻尾が、地面をぺしりと打った。安請け合いをしてはいけない、と言われたのはよく分かる。でも、死んでも地獄に堕ちても、ティルダの根っ子は聖女のままだ。困っている人に頼られれば否とは言えない。そういう風に、育てられたのだ。
シェオルの目が咎めるように見上げてくる一方で、女性は勢い込んでティルダとの距離を詰めた。ティルダの手を取るような勢いで、黒い目が彼女の顔の前に迫る。
「そなたに助け出して欲しい御方がいる。そしてその上で、皇后さまには絶対に会わせたくない。どうだ、できるか……!?」
「その方は、どなたなのですか? コキュートスにいることが分かっている、天の方……ということですか?」
「ああ、何も知らずに引き受けることはできまいな」
女性とシェオルに挟まれるような格好で、身動きが取れなくて。せめてもう少し情報を、と足掻いたティルダの問いかけに、女性は少し笑って身を引いてくれた。そしてすぐに表情を真剣なものに改めて、答える。
「その御方は、天の国の皇帝であった御方。心優しく聡明な鴻輝陛下。……玉皇后さまの、実の御子でいらっしゃる」
囁くような声で、女性が最後に付け加えたことを聞いて、シェオルの毛がぶわりと逆立った。腕をくすぐる柔らかな感触を感じながら、ティルダも目を瞠る。
母と子が同じ地獄に堕ちることも、あるなんて。




