38.初めての崖下り
「私は多分貴女より重いですが、人と獣では動ける範囲が違うので十分に気を付けてくださいね」
「は、はい」
平地にいた時と変わらない穏やかな声と愛らしいふわふわの姿で、シェオルは崖の只中にちょこんと座っていた。言葉通り、狼の四肢の力強さとしなやかさが、裂けたままのぎざぎざした氷壁でも平地のように止まっていることを可能にしているのだろう。
シェオルが鼻先と肉球で確かめてくれた、安全と思われる道筋を辿るティルダの進み方はごくゆっくりとしている。人間の手足の非力さも理由だし、高さや切り立った氷の鋭さに足が竦んでしまうのだ。シェオルからすれば待つ時間が長すぎるのか、口を大きく開けて欠伸をしている。狼の大きな口から覗いた赤い舌は、白い氷の世界によく映えた。
「ティルダ―? まだー?」
「今行くから! 大人しくしていて!」
最初に下りたラーギブは、シェオルに輪をかけて退屈しているらしい。呼び掛ける声に答えたはずみに氷の欠片が足元で崩れて、ティルダの心臓を凍らせる。もちろん、そんな気分になる、というだけだけど。
「その次は、そこの四角いところに足を乗せて。そこを降りればもう少しなだらかになりますから」
「はい……っ」
ティルダが苦労して下りる目と鼻の先で、シェオルが軽やかに崖の斜面を行き来している。この順番で足を運べば安全ですよ、と振れる尻尾が教えてくれている。シェオルの身のこなしを見ると人間の姿はどうにも不格好に思えてしまう。いや、ラーギブのように身軽な者もいるのだから、単にティルダがどうしようもなくのろまなだけかもしれないけれど。
(私、本当に何もしてこなかったのね……)
聖女として、文字通り死ぬほど頑張ってきた、と思っていたけれど。思い上がりに過ぎなかったのかもしれない。少なくとも言われるがまま、命じられるままに運ばれて、祈って、魔力を使って。自分の足で立って、自分の目で見て、自分の頭で考えて──そういうことは、してこなかった。
盗賊の一味で、生前から罪人と呼ばれていたラーギブのほうが、ティルダよりもできることは多いのかもしれない。シルヴェリオは言うに及ばず、玉燕だって自らが持つすべてを使って生き抜いたはず。そう思うと、ティルダはぼんやりと、何となく生きてきただけなのかもしれない。それが、彼女の罪かどうかは分からないけれど。
「ティルダ? 疲れたのでしたら、私に乗りますか?」
「いえ! 頑張ります!」
シェオルが、いつの間にかティルダと同じ目線で首を傾げていた。彼女があまりに遅いから、待ちくたびれてしまったのかもしれない。あるいは、本当に厚意での申し出かも知れなかったけれど、とにかく、ティルダは首を振った。彼女は何もしないままで命を終えてしまったけれど、幸いに──と言って良いか分からないけど──死んだ後でも、思いのほかに色々な体験ができるらしい。
崖にしがみつくことも、爪先で足場を探りながら少しずつ降りていくことも。生きている間にできなかったことを取り戻しているのだと思えば、いっそ楽しいかもしれない。
逆巻く渦の大水蛇が穿った川まで下り切ると、川原と読んでも良さそうな拓けた空間ができていた。久しぶりの平らな地面にほっと息を吐くティルダに、ラーギブが満面の笑みで駆けよって来る。
「ティルダ! こっちだよ」
「お待たせ、ラーギブ。その人……どういう状況なのかしら」
勢いよく抱き着いてきた少年に少しよろめきながら、ティルダはまたひとつコキュートスの謎に気が付いていた。
(罪人が溶け出すところを見るのは初めてではないかしら?)
これまでは、気が付くとコキュートスに罪人が増えていた、という感じだった。魔王ジュデッカは、そこら中に凍った罪人がいる、というような口振りだったけれど、ティルダが城内を探した限りでは人の形の氷の像なんて見当たらなかった。もしも、倒れた姿で凍り付いた人を踏みつけてしまっていたなら、とても申し訳ないことだ。
「見れば分かるよ。なんか──すごい? っていうか面白い? から!」
「面白い……?」
罪人の話をしているのに、面白いだなんて不似合いなような。ティルダの手を引っぱるラーギブは、だいぶ興奮しているようだ。彼が案内してくれるのは、氷の崖が裂けて洞窟のようになったところ。輝かしい日差しとは無縁のコキュートスにあって、洞窟の中はさらに一段と暗い影が落ちている。リヴァイアサンが暴れて打ち砕いたままの氷は刺々しくてごつごつとして、一見では人がいるようには見えなかったけれど──
「最初は、何もないと思ったんだよ。でも、なんか人っぽいな、って思ったらどんどん人に見えてきたんだ」
「わ……!」
ラーギブが指さして訴えるところに目を凝らすと、確かにそこには人がいたからティルダは驚きの声を上げた。
酷寒の中で行き倒れた人の上に雪が積もって凍り付いた様子に、もしかしたら似ているのかもしれない。ティルダがそんな場面を見たことはないから分からないけれど。
氷の白いヴェールを透かすように、その人が髪に挿した簪の金の煌めきや、衣装の生地や刺繍糸の鮮やかな色が浮き上がって見えてくる。
どうみても硬そうな氷の塊にしか見えなかったところに、一度目を留めると人の身体の丸みや柔らかさが間違えようもなくある。氷から溶け出した、というよりは、その場に人が現れた、というほうが近いような。
(本当に凍ってしまう、のとは違うのね……?)
氷の地獄で、魂までも凍らされるということは。
何度か瞬きをするうちに、その人の姿はティルダにもはっきりと見えるようになっていった。氷の壁に寄りかかるようにして目を閉じている女性の姿。ババア……だなんて、ラーギブは言っていたけれど、確かに目元や口元に皺が刻まれているけれど、それでも上品そうな綺麗な人だとティルダは思う。
玉燕に似た格好、というラーギブの説明も合っていた。複雑に結い上げた髪型や、何枚も重ねた丈の長い衣装。とはいえ玉燕の装いの華やかさには劣るようなのは、さすがはあちらは王の后だったから、ということなのだろう。
ティルダとラーギブ、そしてシェオルが見守る中で、その人は軽く顔を顰め──ゆっくりと、目を開いた。小さく紅く塗られた唇が開いて、掠れた声が漏れる。
「そなたたちは──」
「はじめまして。あの──」
挨拶をしようとティルダが進み出ると、その人は警戒も露わに身構えた。細く整えられた眉がきっと上がって、黒い目がティルダを睨む。
「地獄に堕ちた罪人とやらか。わたくしに何をするつもりだ……!?」
「ええと、私はティルダと申します。こちらはラーギブと、シェオル。あの、天の方でしょうか? その衣装は、そうではないかと思うんですけど……」
今度もまた、初対面の挨拶は今ひとつ格好がつかないものになってしまった。害意がないこと、武器を持っていないことを示すために両手をひらひらと振って、その間にラーギブとシェオルを手で示して。
ティルダの、噛みながらどもりながらの挨拶をちゃんと聞き取ってくれたのかどうか。それとも、小娘と子供だけだと見て取ったのか。天のものらしい衣装の女性は、深々と溜息を吐いて肩の力を抜いた。
「異国の蛮族ではないのか。天の威名はどこまで届いているのか……」
(あ、やっぱり玉燕さんのお知り合いかも……!)
その女性のもの言いは、玉燕とよく似ている気がした。天という国のことを、この上なく誇りに思って──ほかのところは、見下す対象であるかのような。祖国を蛮族でくくられることの是非はさておき、これは良い兆候な気がして、ティルダは勢い込んで女性に尋ねた。
「もしかして、玉燕さんをご存知ではないですか!? 同じ国の方がいなくて……あの、心細いようなんですけど! もしも同じ国で、同じ時代の方なら……えっと、話し相手になっていただけるかも──」
「皇后さまが、ここに?」
面と向かって召使になってください、だなんて言えるはずがない。だから無難な表現に置き換えるために、ところどころつまってしまったティルダを遮って、その女性は目を見開いた。
コキュートスにいるからには、彼女も死んで、血が通わない冷たい身体のはずなのに。血の気が引く音が聞こえるような勢いで、その人は顔を青褪めさせた。さらには恐らくは寒さによってではなく震え出したのを見て、ティルダは何だか嫌な予感を覚えた。




