37.ふたり目の天の罪人
氷原に深く長く走った亀裂を見下ろして、シルヴェリオはしみじみと溜息を吐いた。
「なるほど、これは確かに川ですね……」
嬉しそうに川に飛び込んだリヴァイアサンが上げた飛沫が跳ね上がって、崖上に残ったティルダたちに降り注ぐ。何もかもが凍り付いているはずのコキュートスで水を浴びるなんて、本当に不思議なことだ。
荒野に突然現れた川だから、地上から水面までは大地が割けたままの険しい岩肌が隔てている。獣道ですらない悪路に、水浴びができるかも、なんてほのかな期待は瞬時にしぼみかける──けれど、ティルダの横で小さな影が動いた。ラーギブが、素早く岩肌に取りついて、するすると下り始めたのだ。
「下りられるかな? 何か見つかったりして……!」
身軽な少年は、すぐに手が届かないところまで下りてしまって、金色の目が、星のように悪戯っぽく光って笑う。
「ラーギブ、あぶな──」
「大丈夫だって、これくらい!」
「止めて! 気を付けて!」
戻るようにと言おうとしても、片手を離して意気揚々と振られてしまって悲鳴に変わる。気を散らせて落ちてしまうのを恐れると、迂闊に声を上げることはできなかった。もう動かない胸の上で手を握りしめて、ティルダはラーギブの姿がみるみる小さくなっていくのを見守るしかできない。
ティルダと同じく連れ戻すのをあきらめたらしいシルヴェリオは、今度はラーギブの身軽さに対して感嘆の溜息を吐いた。
「さすがは盗賊、といったところなのでしょうね……」
「将軍にとっても簡単なことではないのですか」
真っ白でふわふわなシェオルなのに、時々ちくりと刺すようなことを言うからびっくりしてしまう。武人ならこれくらいできるのでは、と言われて、シルヴェリオは小さく苦笑した。
「この鎧さえなければ、あるいは。こう開けたところでは脱いで放り出す気にもなれませんしね」
「着替えは、どこかにないのでしょうか……?」
ラーギブを上から見ていると心臓に悪い──動いてなくてもそう思う──から、ティルダは前から気になっていたことを尋ねてみた。問いかけの視線を受けて、シェオルは耳をぴんと立てながら首を傾げる。
「服を脱いで、別の場所で凍り付いた罪人がいれば、見つかるかもしれませんね? 我が主がその気になれば作ってくださるかもしれませんが」
(ジュデッカ様が、作る……? いえ、縫うのではなくて、何か、そういう術があるということかしら)
一瞬だけ頭をよぎった可愛らしい妄想──針を手に取る魔王──を、ティルダはふるふると首を振って追い出した。
酷寒の嘆きの氷原で、自ら服を脱ぐ者はいないだろうし、魔王ジュデッカが罪人のために心を砕いてくれるとは思えない。つまりは、ほぼ絶望的だ、ということなのだろう。
「着替えの話かえ。確かに欲しいのう……!」
と、そんなことを話している間に、ようやく玉燕が追いついてティルダたちに並んだ。すでに死んだ身の者たちは息切れとは無縁のはずだけど、それでも気分の問題なのだろう、細い肩を大きく上下させて、走った後のような仕草をしている。もしかしたら、置いていかれたことへの当てつけなのかもしれない。
「この際、天のでなくても、蛮族の風俗でも良いぞ。毎日毎日同じ装いとは屈辱の極みだからの……」
ティルダは清潔さのためにも着替えが欲しかったのだけど、玉燕にとってはお洒落の意味でも切実らしい。ティルダはいつも与えられているものをそのまま着ているだけだったけれど、普通の女性は着るものを選んだり変えたりするのがとても大事だというのは何となく知っている。
「あの……私と着るものを交換したり、とかは──」
だから、独り言のような玉燕の言葉に、恐る恐る申し出てみたのだけれど──
「そなたの服はあまりに地味でみすぼらしい。妾には到底似合わぬであろう」
玉燕は、ティルダの頭のてっぺんから爪先まで、素早く視線を走らせるとあっさりと切り捨てた。とても綺麗な上にとても複雑そうな玉燕の衣装を、もっと近くで見てみたい、という気持ちがなくはなかったのだけれど──予想できて当然の反応だった。
「そ、そうですよね……」
「そして、そなたにも天の皇后の衣装が似合うはずがない。まあ、普段着ていどではあるが、妾はもっと豪奢なものを幾らでも持ってはいたが、とにかく格が違うのだ」
玉燕の遥かな高みから見下ろすようなもの言いには、もう慣れた。この女の人は、綺麗なだけでなくて実際にとても偉い人だったのだから当然、というかしかたない。
(玉燕さんはいつも着ているものをそのまま着ているのね。シルヴェリオさんもそうなのかしら。私は──こんな服は、知らないのだけど)
玉燕は、一瞬でティルダへの興味を失ったらしく、大地の亀裂と、その底の川を覗き込んでいる。一方のティルダは、あらためてワンピースの裾をつまんでしげしげと眺めてみた。彼女が生きていた場所と時代の造りに間違いはないから、今までさほど不思議には思っていなかったけれど。罪人によって着ている──着せられた? ──ものが違うのだとしたら、どんな意味があるのだろう。
もしかしたら、ティルダがコキュートスに落された罪と関係があったりは──
「ねえ、ティルダ! どうしよう、誰かいるんだけど!」
「え──」
とりとめのない思考は、下から呼び掛ける声によって中断させられた。慌てて崖下を覗き込むと、水面に辿り着いたラーギブが口に手を当てて呼び掛けている。歪に割れた岩肌のせいで、下の様子はよく見えない。彼が言うところの誰か、がいったいどんな人なのかも。
ティルダは、シルヴェリオと素早く目を見交わした。判断を下すのは、さすがに武人のほうが早い。最初に呼び掛けられたティルダに代わって、シルヴェリオがラーギブに大声で指示を出す。
「大人か、男か? 話が通じなさそうなら距離を──」
「女! ババアみたいな格好したババア!」
ババア、のひと言に、コキュートスの酷寒がいっそう冷え込んだ気がした。その冷気の源──玉燕のほうを、ティルダは怖くて見ることができない。でも──もしもその単語が彼女のことなら、とても重要な情報だ。
「待て、それは妾のことか!? いや、そこに天の者がいるなら──」
「まだ溶けたばっかみたい! 目を閉じてる!」
「早う叩き起こすのだ!」
「わ、私が下りてみます。見てきますから……!」
焦れたように叫んだ玉燕を制するように、ティルダは声を上げた。玉燕の気持ちも分かるし、彼女の衣装や華奢な手足では崖を下りられないのは明らかだ。鎧を纏ったシルヴェリオよりは、ティルダのほうがまだ身軽にラーギブのもとへ辿り着けるだろう。
「新しく起きた人がいるなら、連れてこないと……」
「では、私も。この際だから背中に乗せてやりましょう」
シェオルが、尻尾を振ってティルダの足を撫でて自身の存在を頼もしく誇示してくれる。四つ足の狼は、確かに人より楽に下れるだろう。新しく目覚めたという人が身動き取れない姿だった場合も、ティルダとラーギブの細腕ではあまりに不安だから、シェオルが来てくれるのは嬉しいことだ。
「ありがとうございます。シェオルさんは、優しいですね」
「さあ、どうでしょう。誰にでも、ということはないのですが。──さあ、行きましょう。私が先に行って道を探してあげますから」
含みのある言葉にティルダが瞬くうちに、シェオルの尻尾は崖の下へと消えてしまった。だから、ティルダはスカートの裾を結ぶと、慌てて白い尻尾の目印を追いかけて降下を始めた。




