36.遠足気分
コキュートスでは、例によって時間の経過が分かりづらい。ただ、肉体も心も疲れを感じるのは生きていたころと変わらない。
という訳で、ティルダたちはひと晩休むことにした。少々の問答の末に、玉燕は最初に彼女が使っていた部屋に、ティルダはリヴァイアサンを宥めるためにもテラスに横たわることにした。そこなら巨大な水蛇が城を壊してしまうこともない。玉燕が「下賤の者」に寝顔を見せることを嫌がったから、ラーギブもティルダの隣だ。間に白大狼を挟んでいるから、まあはしたなくはない、と思う。
(カイも、よく夜も傍にいてくれたわ……)
一度寝るといつまでも眠りこけてしまう彼女をそっと揺り起こすのは、いつも従者のカイの務めだった。聖女の務めを果たす先々に、女性の世話係がいてくれるとは限らないからこそだけど、そう年が変わらない男の子に寝惚けたところを見せてしまう気恥ずかしさは、結構良い気付けになった。もちろん、ティルダが目をこすったり髪を整えたりしている間にカイはいつもの薬を用意してくれて、その苦い液体を飲み干してやっと、ティルダはぱっちりと目を開けることができたのだ。
(彼は元気にしていれば良いけど。それに、次の聖女はどうなったのかしら……?)
死んだことで見捨てることになってしまった祖国エステルクルーナのことを思うと、止まったはずの心臓が痛い。ティルダが務めてきた役は、そう簡単に代わりが見つかるものではないと思う。それなら、複数の少女が選ばれたりもするのかどうか──嘆きの氷原にいては、確かめる術もない。
俯いてシェオルの毛皮を撫でるティルダを、ラーギブが不思議そうに見上げてくる。少年の金色の目は、薄暗いコキュートスに小さな太陽が輝くよう。そう、この少年と出会ったことで、ティルダの周囲にはまた雪と氷以外の彩りが増えた。
「女性と子供は安心してお休みなさい。氷大狼殿とリヴァイアサンがいれば何も怖くはないでしょうが」
「シルヴェリオさんもいてくださって心強いです。でも、本当に寝ないつもりですか……?」
「これまでが休み過ぎていたのですよ。鈍った身体と感覚を、早く取り戻さなくては」
シルヴェリオは、ティルダが止めたにもかかわらず寝ずの番を買って出てくれたのだ。無傷の軽い身体は久しぶりだ、と物騒に爽やかに笑う彼は、きっとどんな賊も寄せ付けないのだろう。大盗賊ルクマーンの一味が曲刀を携えていると言っても、シルヴェリオの全身を覆う鎧を傷つけることはできないだろうから。
一方、どう見ても賊に抗えそうにない華奢な玉燕は、シルヴェリオに感謝することもなく例によって軽く唇を尖らせている。
「小娘と獣が汚した寝台で休むなどおぞましいが……」
シェオルの毛皮は、ティルダが暇に飽かせて徹底的に梳いたからふわふわでふかふかなのに、そんなことを言ってなかなか寝台の部屋に向かおうとしないのだ。でも、それは言葉通りの嫌悪が理由ではないかもしれない、とティルダは密かに思う。口に出したら、きっと傾国の美妃をまた怒らせてしまうだろうから、言葉にすることはしないけれど。
「贅沢を言える立場ではないでしょう。ほかの部屋を探しに行くなら止めはしない」
シルヴェリオのたしなめる口調が苦笑を含んでいるようなのも、きっとティルダと同じことを考えているからではないだろうか。だからティルダは、心配そうに大人たちを見上げるラーギブに笑って小さく首を振を振る。少年が、室内のあちこちにあるクッションを集めて、テラスに即席の寝台を作るのを手伝いながら。
「……使い勝手の良い僕が見つかってからにしよう。明日はそなたらを供にしてやろう」
「光栄なことだ」
「で、あろうとも!」
だって、ほかの人とお喋りするのは楽しいことなのだ。酒の入った兵士たちの歓談を遠くに聞き、町や村の暖かそうな灯りを遠くに見ては、ひとり身体を丸めて眠りに堕ちる──ティルダは多分、ずっとこんな賑やかさに憧れていた。
玉燕の、古い古い国のお妃の暮らしはもちろん知らないけれど、コキュートスはいつもならとても静かでとても寂しいところのはずだ。話し相手がいるということに、多少は浮かれて休むのがもったいないと思っても当然だ。それに、何より──
(地獄で明日のことを考えるなんて!)
玉燕が無意識に漏らしたであろうひと言に、ティルダとしては頬が緩むのを止められない。たとえやっと穏やかな日々を得られても、美しく温かい花々が咲いたとしても、先のことが分からない不安は怖かったから。共にいる人たちがいて、これから、の目標がある。彼女たちはもう死んでいるのに、大罪を犯した罪人なのに、なんて幸せなことだろう。
「シェオルさん、ラーギブにも触れさせてあげて良いですか? 安心すると思うんですけど……」
「ふむ、許すというよりは、貴女のための盾になるつもりで枕を務めましょうか。子供とはいえ男との同衾は感心しませんから」
「俺は何もしないよ!」
心外、と言いたげに声を上げたラーギブに、シェオルはぶわりと毛皮を震わせて応えた。真っ白な毛並みの美しさとふかふかさを自慢するようでもあり、身体を大きく見せて威嚇しているようでもあり──いずれにしても、少年の褐色の肌と狼の白い毛皮は、とても映える対だった。目を丸くした固まったラーギブの顔がおかしくて、ほかの三人と一頭の、それぞれ異なる響きと高さの笑い声が唱和して──コキュートスの夜は、和やかに更けていったのだった。
翌朝──というか、恐らくはひと晩分くらいの休息を取った後──ティルダたちは城の外へ探索に出ることにした。城内ではリヴァイアサンは窮屈そうだし、何の切っ掛けで壁の罅が広がるか分かったものではないし、何より嘆きの氷原にできてしまった川を、シルヴェリオやラーギブが見たがったのだ。城の中に留まるよりも、見晴らしの良い──良すぎる──氷原のほうが、数も知れない目覚めた罪人たちを警戒しやすいだろうという考えもある。
「昨日の奴はハミード。親爺の実の息子だからって偉そうな奴。あ、つまり、生きてたころからってこと」
氷を踏み砕くざくざくという音を立てながら、ラーギブは滑らかに快活に語っている。彼が履いているのは爪先が剥き出しのサンダルで、ティルダの布靴に輪をかけて氷の荒野を歩くのには向かなさそうだ。けれども凍えて足指の感覚がなくなる、なんてことがなさそうなのは、コキュートスの酷寒はやはり魂を凍らせるためのもの、だからだろうか。
「ならば一味の中でも相応の地位にいるということか。首領は、父親のほうはまだ起きていないのか……?」
「俺は見てない。親爺がいたらあんな奴がでかい顔してない……!」
シルヴェリオとラーギブが語らう頭上では、灰色の空にリヴァイアサンが鱗の煌めきを添えている。魔王ジュデッカの城は、やはり巨大な大水蛇には狭すぎたのだ。宙を泳ぐように長大な体をくねらせる彼または彼女にとっては、水浴びもきっと楽しいのだろう。それに、あともうひとり──
「あの、玉燕さん、大丈夫ですか……?」
「妾を置き去りにするとはつくづく無礼な者どもだの……!」
ティルダが振り返ると、ちょうど玉燕が氷の欠片につまづいて体勢を崩れさせたところだった。主に相応しく、目に綾な刺繍が施された絹の沓は、多分そもそも屋外を歩くことを考えて作られていないと思う。玉燕の優雅な足取りも、きっと豪奢な宮殿や整えられた庭園でしか通じないものだ。
ラーギブは無理をしなくても良いのに、と呟いたし、シルヴェリオはどちらが供だか分からないと笑っていた。シェオルが乗りますか、と尋ねたのは断られるのを見越していたからだと、揺れる尻尾が教えていたし、実際、玉燕は噛み付くような勢いではねつけていた。ティルダとしても、彼らと同じようなことを思わないでは、なかったけれど。
(でも、お城でお留守番をしなかったということは──)
もちろん、ひとりだと不安だから、はあるのだろうけど。玉燕に限って、そんな屈辱的なことを口に出したりはしないだろうけど。
やっぱりこれは、楽しいお出かけの会と思っても良いのではないだろうか。そう、まるで遠足のような。
「えっと……手を繋いだりは──」
「黙れ。これくらい何ほどのこともない」
だから、鋭い声で打たれても、ティルダの浮かれた気分が醒めることはまったくなかった。




