34.盗賊たちの末路
「大盗賊ルクマーン……!」
それは、コキュートスに名だたる悪人たちがいると聞いて、ティルダが真っ先に思い浮かべた名のひとつだ。恐れを込めてティルダが呟いた一方で、けれど、シルヴェリオは不思議そうに首を傾げた。尋ねる視線は、シェオルを見下ろしている。
「知らない名前ですね。私の死後に悪名を馳せた者でしょうか」
「私にとってはコキュートスの時間の流れは曖昧なのですが、将軍がご存知ないならそうなのでしょうね?」
そして、シェオルはティルダを見上げ、質問の答えはティルダに託された。彼女にぴったりと寄り添ってくるラーギブを気遣いながら、記憶を探る。ルクマーンの名は、この少年にとっても恐ろしい意味を持っているのかもしれない。
「はい……ルクマーンは、《調停者》シルヴェリオよりも後の時代の人……だったと、思います」
「なるほど、やはり」
教えられた歴史上の人物の名前と、目の前の穏やかな武人の姿を結び付けて良いものか分からなくてティルダが声を泳がせると、シルヴェリオはさらりと頷いた。
(激しく争う国々を和平に導いた人、ではなかったの……?)
ティルダが聖女を務めていたエステルクルーナでは、彼の業績は称えられていた。彼女の祖国には、まさに長く続いた戦乱に苦しんだ人々の末裔もいるから。でも、ティルダはまだシルヴェリオの罪──コキュートスに堕とされるだけの裏切りが何なのかを聞いていない。ラーギブに対して思い出したくもないこと、と言ったのは思い遣りだけではなくて彼自身の感情のこもった言葉なのかも。
だから、疑問を口にすることはできなくて。それでも、顔には訝る色が浮かんでいただろうと思うけど、シルヴェリオは微かな笑みで躱して、再びシェオルに目を向けた。
「少々珍しい経緯で堕ちた、と仰っていたような、氷大狼殿?」
「はい。何しろ盗賊団がまるまる堕ちて来たのですからね。ほんの一時ではありましたが、嘆きの氷原が賑やかなのは、大変珍しいことでした」
シェオルはどこか懐かしむような表情で目を細めたけれど、盗賊団が大勢闊歩する地獄の賑やかさ、なんてどう考えても和やかさや楽しさとはほど遠いと思う。死んだ人間がすぐに地獄に堕ちるものなのかも分からないけれど──盗賊団の全員が同時に、ということなら、彼らはやはり捕らえられて処刑された、ということなのでは、と思えてしまう。
(このままお話しても、大丈夫?)
ラーギブの胸中を慮って、ティルダが腕の中に庇った少年に目で問うと、小さな頷きが返ってきた。自分の口で話すよりは、シェオルから説明してもらったほうがマシ、ということかもしれない。
「コキュートスに堕ちた以上は、その盗賊団は一致団結していた、とはいかなかったのでしょうね。賑やか、といっても……?」
「ご明察です。先ほどご覧の通り、武装もしていたし血の気も多い者たちでした。それが、主や私を横目に激しく争ったのですよ」
(そんな……仲間同士なのに……?)
シルヴェリオが思い浮かべたらしい事態は、ティルダの想像よりもさらに凄惨なものだった。ラーギブは無言を貫いているけれど、彼女の服の裾を掴む指に力がこもったようだった。
鈍いティルダにも分かったことは、玉燕にも当然分かったはずだ。太古の国のお妃は、下賤の言葉には耳を貸さないと言いたげに顔を背けているけれど、軽く顰めた眉が、しっかりと話を聞いていると伝えている。ちなみにリヴァイアサンは──ティルダが傍にいるのが満足なのか、床に寝そべってとろりと眠そうな眼差しをしている。怪物には、人間の話題は興味がないのかもしれない。
「じゃ、じゃあ……その人たちの罪──裏切った相手、っていうのは」
「はい。互いに互いを裏切ったのですよ」
「ああ──」
椅子に座っていなかったら、それに、ラーギブを抱えていなかったら、ティルダはその場に崩れ落ちてしまっていたかもしれない。それくらい、悲しいことだ。盗みは明らかな罪で、そのために苦しんだ人たちもいたのは確かなのだろうけど。それでも、仲間だった相手を裏切るのも裏切られるのも、その遺恨で地獄に堕ちてまで争いあうのも、どれもとても悲しいことだと思った。
「なるほど」
ティルダの嘆きと裏腹に、シルヴェリオはまたもさらりと頷くのだけど。口元に浮かんだ微笑は、予想が当たって良かった、とでも言いたげなくらいだった。
「仲間を売れば減刑してやるとか、その類の『取引』があったのですね」
「さすがですね。将軍はどちらかというと『取引』を仕掛けるほうでいらっしゃいましたからね」
「ああ、覚えがある」
尻尾を振って称える口調のシェオルも、やはりコキュートスの番人としての目線なのだろうか。
と、目と口をぽかんと開けているティルダに気付いたのか、シルヴェリオは彼女に微笑みを向けてくれた。
「そのような手段も、裏切りと言えるのかもしれませんが。とはいえそれも民を守るためのこと。恥じ入ることではありません。……私の『罪』は、あいにくもっと卑劣なものなのですよ」
「そ、そうですか……」
死した将軍の声は、暗に自分ほど大罪を犯した者はいない、と言っているようだった。彼の声にも表情にも昏い影が落ちて、罪を犯していっそ誇らしげな玉燕とはまるで違うけれど。それでも、コキュートスの罪人というものは、誰しも自らの罪を「特別」なものとして捉えているようだった。コキュートスに堕とされた理由さえ思い出せないティルダにとっては不思議なことだ。
(シルヴェリオさんの『罪』……まだ、聞くことはできないけど……)
いつかは、彼の事情も話してもらえると良い。それくらいに信用されて、心を近づけることができれば。地下牢で自らを罰しようとしていたこの人を、ティルダは贖罪を理由に連れ出してしまったのだから。シルヴェリオの心を安らげることができないままでは、嘘という、これも重い罪を犯すことになってしまう。
とはいえ、今大事なのはルクマーンの盗賊団のことだ。彼らは何人いて、どのような武装をしているのか。ラーギブを狙う者はどれだけいるのか。分かっているから、ティルダはシルヴェリオが少年を覗き込むのを黙って見守った。ラーギブの心中も案じられたから、彼の細い腕に手を添えて、支えるようにしてあげながら。
「では、君が先ほど追われていたのはその遺恨か? あの男か、あるいは他の……『仲間』を裏切ったのを責められていたのか……?」
「…………」
ラーギブが頷く気配が、ティルダの身体に伝わってきた。少年の揺れる砂色の髪は、太陽の気配を感じさせて温かい色。なのにコキュートスの氷の白さは、砂と太陽の国の色彩さえ凍らせるようだった。
「そう……俺が隠れ場所をバラしたせいで、捕まった奴らがいたから……」
だからだろうか、ラーギブがやっと聞かせてくれた声もか細く震えて、ひどく寒そうに聞こえた。




