33.大盗賊の一味
無事に保護した少年の手を引いて、ティルダたちがもと来た廊下を引き返すと、逆巻く渦の大水蛇の嬉しそうな──多分──鳴き声に迎えられた。といってもラーギブには獲物を見つけた怪物の快哉の声に聞こえたのかもしれない。つないでいた手を振り払って逃げようとする少年を、ティルダは必死に止めようとした。
「何だ、あれ……っ」
「あ……えっと、もう暴れたりしないようだから、怖がらないで……? あの、ほら、良い子……? なの」
ラーギブが引き攣った声を漏らすのも、無理はない。通れなかった扉のすぐ向こう、リヴァイアサンは少しでもティルダに近付こうと鼻先だけでもこちら側に来ようとしている、らしい。
瀟洒な彫刻で飾られていた扉は、見る影もなくひしゃげて蝶番が外れかけていた。魔王の城も、リヴァイアサンの体当たりには耐えられなかったらしい。巨体がぶつかる度に舞い散る氷の粒に、見え隠れする血のように赤い目。身体が通れるように穴を広げようというのか、扉を噛む牙の鋭さ、顎の逞しさ。近くで見れば見るほどこの世のものとは思えない──地獄には相応しい光景かもしれないけど。
(きっと暴れているように見えてしまうわよね……)
これでも、最初に城外の荒野に亀裂を走らせた狂乱ぶりに比べれば可愛いものなのだけど、多分その時はラーギブはまだ起きていなかったのかもしれない。氷の眠りから覚めてすぐに、刀を持った男に追いかけられて、その後は怪物のところに連れて来られるなんて。子供には耐えがたいであろう心労を思って、ティルダは胸を痛める。でも、とにかく──
「あのね、私たちはあっちから来たの。もうひとり、綺麗な女の人もいるのよ」
(玉燕さん、この子を召使に、とか言い出さないと良いんだけど……)
リヴァイアサンとふたり(?)きりで残してしまった玉燕の不機嫌や苛立ち、ラーギブへの反応も心配だけど。まず、この扉を通らなければ彼女のいるところにも戻れないし、落ち着いて話をすることもできない。とりあえず、リヴァイアサンにはもう少し下がってもらわないと。ティルダはラーギブに微笑んでから、大蛇の顎の前に進み出た。
「ほら、大丈夫だから」
「危な──」
リヴァイアサンのひと際高い鳴き声に、ラーギブの悲鳴がかき消された。わざわざ引き裂かれに行った、と見えるのも無理はないけれど、多分これは喜びの声でしかないのだろう。リヴァイアサンの気性は実はそんなに恐ろしいものではないのではないかと、ティルダは思い始めている。
「ね? 怖くない……とは思えないだろうけど、大丈夫だから」
大蛇の熱烈なキスを全身に浴びてよろめきながら、ティルダはラーギブへの笑みは絶やさなかった。固い鱗の鼻先で髪を乱されるのも、目いっぱい首を伸ばして頬ずりするようなしぐさも、親愛の表現に過ぎないらしいから。決して襲われているのではないと、態度で示して安心してもらわなければ。
「話す暇もなかったが、この女性は聖女なのだ。怪物を手なずけるくらいは容易いということだな」
(そんな大層なものじゃないのに……!)
ティルダだって、自分でもどんな罪を犯したかも思い出せない罪人なのに。訳知り顔で語るシルヴェリオの誤解というか買い被りに頭を抱え、甘えてくるリヴァイアサンを必死に宥めて、ティルダはどうにかもといた部屋にまた入ることができた。
氷を溶かす花々の可憐さと温もりに、ラーギブは目を瞠っていた。暖炉の火にあたるように、花の傍に座り込んで花弁の色に見入る少年を他所に、ティルダはまだ休憩することはできなかった。玉燕の機嫌を取りつつ、何があったかの報告をしなければならないのだから。
玉燕が相変わらず長椅子を独占する一方で、ティルダは背筋を伸ばして椅子に浅く腰掛けた。そうして、シェオルとシルヴェリオの補足を受けながらの彼女の説明が終わるかどうかのうちに、玉燕は深々とした溜息で遮った。
「西域の貧民の子か。また奇妙な拾いものをしてきたものだな」
「追いかけられたところを保護したんです。あの、この子も一緒に行動します。えっと……召使とかではなくて、仲間として、です」
玉燕の先手を打ったつもりでそう告げてはみたものの、ティルダの胸は緊張に張り裂けそうだった。心臓は止まってしまってはいても、心の揺れによって痛みや息苦しさを感じるのは変わらない。
美しくも高慢なかつての傾国の妃が何を言い出すか──不安を覚えたのはほんの一瞬で済んだ。玉燕はティルダの言葉こそ不快、とでも言いたげに眉を顰めたのだ。
「それは宦官でもないのであろう? 文明の外の民、それも男に妾の世話をさせるなど考えられぬ」
「そ、そうですか……」
「まあ、そのような子供に犯せる罪などたかが知れておる。そのていどの者でも溶け出したとなれば、使えそうな者も早晩目覚めるであろ」
玉燕にとっては、罪の重さはやはり誇るべきことのようだった。子供の年齢や見た目や身なりからだけでなく、罪が軽いであろうというところも軽んじるような口振りだ。
(この子も本当に『裏切り者』なの? シェオルさんは神様も間違えることはあるかも、って……)
ティルダと同じ疑問を、シルヴェリオも抱いたのだろうか。鎧と鎖が触れ合う金属音を響かせて、将軍はラーギブの傍に膝をついた。少年と同じ目線で、低く穏やかな声が問う。
「──君は何をしたのか、聞いても良いか? 言いづらいこと、思い出したくもないことなのは重々察するが。先ほどの男が知り合いならば、人柄や……罪状を知っておくのは有益だろう」
「…………」
花に見入っていたラーギブは、シルヴェリオと目を合わせ、逸らし、無言のまま硬い表情でティルダの膝にしがみついてきた。
「言いたくないなら、無理しなくても良いのよ……?」
ラーギブが幼い姿でコキュートスにいるのは、その年齢で死んだ──殺されたということかもしれない。答えて欲しいのは山々ではあったけれど、そんな思い出を語らせるのも忍びないと、ティルダは少年を抱き締めた。彼女にもう血が通っていなくて、温めてあげることができないのを残念に思いながら。
ラーギブの砂色の髪を撫でるティルダの腕を、ふわふわとしたものが撫でた。シェオルがラーギブの顔を覗き込みに来たのだ。凍ったような銀色の目が考え深そうに少年を見つめ──ティルダを見上げた。
「その子供も先ほどの者も、大盗賊ルクマーンの一味ですよ。そうでしょう?」
ラーギブの目が驚愕に見開かれた。それは、狼が喋ったのを目の当たりにしたからだけではないだろう。身の上を言い当てられたことに対する驚きが、確かに少年の幼い頬に浮かんでいた。




