32.砂の国の罪人
シルヴェリオが抜いた剣の刃が、氷に覆われた城内に冷たく煌めく。次いで、彼の声が音もなく静まり返って凍り付いた空気を割くように響いた。
「誰かいるのか!? 助けを求める者がいるなら、こちらへ!」
コキュートスにいるのは罪人ばかりと、悲鳴の主も承知しているはず。だから、都合の良い言葉を信じて頼ってきてくれるとは限らない。それでも、シルヴェリオの意図はティルダにも分かる。地下室から上がってきた時と同じく、近くにいるかもしれない襲撃者を牽制するための大声なのだ。
気になるのは、先ほど聞こえた悲鳴の主も罪人だろう、ということだ。
(子供か女の人の声に聞こえたけど……)
女の罪人については、ティルダ自身という実例がある。玉燕だって、女がどれほどの罪を犯せるものなのか、得々と語ってくれた。でも、子供がこんな氷の荒野に堕とされたとしたら──
「シェオルさん……コキュートスには、子供の罪人もいるんですか……?」
「おりますね。心当たりは、あります」
「いるんですか!」
雪の中で膝を抱える子供の姿を思い浮かべてしまって、できれば否定して欲しいと思って尋ねたのに。シェオルは、耳と鼻とで周囲の気配を窺いながら、あっさりと頷いた。思わず上げてしまった大声に、自分の口を塞ぐティルダを見上げて、白い狼は牙を覗かせて笑顔のような表情を見せた。
「コキュートスでも少々珍しい経緯で堕ちた者たちなので、その子供がどれほど望んで裏切りを犯したのかは私にも分からないのですが。ティルダも知っているかもしれませんが──」
「話は後で。……あちらだ!」
シェオルが言葉を途切れさせ、シルヴェリオが抑えた声で囁いた理由は明らかだった。再び、高い悲鳴が聞こえたのだ。部屋の中で聞いた時よりもはっきりと、より近づいたその声は、確かに助けて、と言っていた。さらには、もっと低い男の人の、脅すような声まで聞こえた。
子供が大人に追われる場面を想像して、ティルダも即座に口を噤んで身体を動かした。声が聞こえた方へ、急がなければ。
(……会えば、どんな人か分かる!)
駆け出したふたりと一頭の背中で、リヴァイアサンが不機嫌そうに唸った。案じた通り、あの巨体では城内では自由に動けなかったらしい。扉につかえる大蛇が寂しげに鳴くのを置き去りにして、ティルダたちは霜を踏み砕き、細かな氷を蹴立てて走った。
廊下の角を曲がると、白く氷に染まった情景に鮮やかな色彩がふたつ、踊っていた。手前の小さい人影と、まだ比較的遠くに、大人の人影。いずれも褐色の肌に砂色の髪をして、ゆったりとしたシャツとズボンに、赤や青の刺繍や縫いつけられたコインが煌めくベストのようなものを纏っている。しゃらしゃらと涼やかな音が聞こえるのは、彼らの手足にもジュデッカの鎖が絡みついているからだ。
(砂の国の人たち……? 同じ国の、生きていた時から知り合いだったりするのかしら……?)
玉燕が要求したように、同じ国、同じ時代の罪人は近くで目覚める、なんてことがあるのかどうか。助け合ったり、子供を庇っても良さそうなものなのに、どうして片方は逃げ、片方は追っているのか。
ティルダが訝しむ間に、子供のほうの人影はみるみる近づいて──剣を持った騎士と白い大狼を見て、幼い頬を引き攣らせる。踵を氷の床に突きさすようにして速さを殺そうとする彼の姿を見れば、十歳を越えたかどうかくらいの少年だった。逃げる先に恐ろしい敵が現れたと思われても無理はないけれど──
「──私の後ろへ! 傷つけたりはしない!」
「お願い。どうか信じて……!」
シルヴェリオの前に進み出て、ティルダは両手を広げた。耳元で驚きのような呆れのような溜息が聞こえた気もするけれど、構わない。武装した男の人よりも、軽装の小娘のほうが絶対に信じてもらいやすいだろうから。
「……っ」
少年の金色の目が、素早くシルヴェリオとティルダを見比べた。大人を値踏みする鋭い視線がティルダの胸に刺さる。この子が本当に罪人かどうかは分からないけど、少なくとも幸せではなかったのがひと目で分かってしまった。殴られるんじゃないか、騙されるんじゃないか。常に警戒していたのが伝わってしまう眼差しだった。
だから──コキュートスに堕ちた後では遅いかもしれないけど──安心して頼って良い存在がいることを、教えてあげたかった。
「──vindens omfamning」
「わ!?」
ティルダの細い腕では届かない距離を、魔力で紡いだ腕を少年のほうへ差し伸べることで、埋める。そっと抱き締めるように、母鳥が雛を翼の下に匿うように、彼を包み込んで引き寄せる。少年がたたらを踏んでティルダの胸に収まったのとほぼ同時、シルヴェリオがまた一歩を踏み出してふたりを鎧の背後に庇ってくれる。
刃の煌めきが、ティルダの目に刺さる。シルヴェリオの剣の頼もしい輝きではなく、少年を追って来た男の持つ片刃の曲刀の剣呑な輝きだ。武装を固めたシルヴェリオを前に、慎重に間合いを測る表情のその男は、少年と同じ金色の目をしていた。立ち止まって対峙してみると、思いのほか若いかもしれない。少年とは、いったいどのような関係なのだろう。
「子供への狼藉は見過ごせぬ。去るなら追わぬが、退かぬなら受けて立つぞ」
シルヴェリオの低い声を聞いて、男の頬が苦笑に引き攣った。口元を覆う髭から、白い氷の粒が舞う。彼も氷の眠りから起き出したばかりなのだ。
「……ここは地獄だよな? 何を惚けたことを……」
「罪人だからといって罪を重ねて良い理由にはなるまい?」
「ご立派だな。そのガキが何をしたかも知らない癖に」
男の棘のある声に打たれるように、少年がぎゅっとティルダにしがみついた。やはりこのふたりは生前からの知り合いらしい。コキュートスに堕ちたということは、少年はこの男に何かしらの裏切りを働いたのかもしれない。でも、罪人が罪人に罰を与えるのは筋が違うはずだ。まして子供が相手とあっては。
(何があったとしても、乱暴はさせないんだから……!)
ティルダもシルヴェリオも──シェオルも。男にもう何も言わなかった。男は、少年の所業を尋ねられるものだと思っていたかもしれないけど。シルヴェリオの剣の煌めきで迎えられて、男は顔を顰め──やがて、足を退けた。一歩、二歩。そして十分に距離を取ったと見るや、身体を翻して走り出した。多勢に無勢と、分かってくれたのだ。
男の足音と鎖の音が完全に消えると、ティルダはほっと息を吐いて腕を緩めた。息を殺して──コキュートスでは必ずしも呼吸は必要ではないかもしれないけど──身体を縮めていた少年に、微笑みかける。きっと、とても怪しいに違いない彼女たちを信じてもらうために。
「もう大丈夫。少しだけだけど寒くないところもあるから。これからどうするか、一緒に考えましょう? えっと──貴方の、お名前は?」
地獄での初対面の挨拶をどうすべきか、ティルダにはまだ分からない。どうにも締まりのない尋ね方に思えてならなかったけれど──とにかく、少年は少しだけ笑ってくれた。薄い唇が動いて、ティルダにとっては異国の響きを紡ぐ。
「……欲する者」




