31.増え続ける罪人?
「玉燕さん……あの、本当にそんなことを思っていらっしゃるんですか……?」
「無論。地獄とやらに堕ちた以上は企みを巡らす労力が無駄というものであろう」
聞き間違いであって欲しい、と。切に願って尋ねたというのに。玉燕は何を馬鹿げたことを聞いているのか、と言わんばかりの表情で頷いた。企みではない──つまりは、駆け引きで言っているという訳でもなく、この女性は心の底から悔い改めるつもりは欠片もないらしい。
「では、貴女はどうするつもりだ? 我らと行動を共にはしないのだな?」
「誰がそのようなことを言った? 妾を氷の荒野に追い出そうというのか? よもや聖女を名乗る者がかような非道はすまいなあ?」
玉燕の艶やかな微笑は、ティルダにレースのように美しい蜘蛛の巣を思わせた。ジュデッカの銀の鎖とはまた違った不思議な力で、絡め取られて封じ込められてしまいそうな。そんな嫌な予感をひしひしと感じながら、ティルダはおずおずと頷いた。
「ええと……はい。せっかく目覚めたんですから、また凍ってしまうなんてひどいと、思います……」
「そなたの咲かせる花はこの氷の獄を、囚われた罪人を溶かすようだ。花を増やしていけば、より多くの者が目覚めるのであろ?」
「はい。そう……だと、思うんですけど、でも」
目覚めた者たちに対して、また凍り付いてしまえ、とは言えない。でも、このまま嘆きの氷原に罪人を増やしても良いとも思えないのが難しいところだった。紳士的なシルヴェリオ将軍はまだしも、武力という意味では力を持たない玉燕の相手だけでもティルダの手には余るというのに。
(あ、でももう何人か目覚めてる、のよね……?)
シルヴェリオもシェオルも──ジュデッカも。すでに起き出した罪人が複数いるようだと察していた。では、ティルダは少なくともその人たちとも対峙しなければならない訳だ。
『罪人が争い傷つけ合うのも責め苦のうちだ』
これもまた、ジュデッカが脅すように言っていたこと──
(ううん、話せば分かる……きっと……?)
もう一度自分に言い聞かせようと思っても、どうしてもティルダの胸を不安が過ぎってしまうけれど。年齢も性別も、どの国のどの時代の人かも分からない相手──シルヴェリオの時のように、上手くいけば良いのだけれど。
そんな考えに気を取られたティルダが、でも、の続きを思いつくことができる前に、玉燕は美しい笑みと声でじわじわと彼女を追い詰めようとしていた。
「この短い間でもよく分かった。そなたのように粗忽な娘では妾の召使は務まらぬ。──その辺りに天の後宮に仕えた者が眠っているであろう。そなたの花でも力でも何でも良い、適当に目覚めさせるのだ」
「え──そんな、都合良く同じ国の方がいるとは──」
思えない、と。遠慮がちに言おうとしても、ティルダにはやはりその隙は許されなかった。玉燕は優美な踊りのように繊手をひらひらさせて、大雑把に「その辺り」を示した。さっさと取りかかれ、とでも言わんばかりに。
「妾と通じて元の主を裏切った者、妾を裏切って敵の手引きをした者──幾らでもいるはずだ。妾に仕えればその者どもにとっても償いになろう?」
「──貴女を裏切った者が現れたら、許してやるつもりですか、玉燕?」
寝そべったままの姿勢で尋ねたシェオルを、玉燕は不思議そうに見下ろした。これもまた、彼女にとっては愚問らしい。
「妾の命を狙った者を許すはずがなかろう。まあ、ここには獄吏もおらぬゆえ、罰してやることもできぬが」
「なるほど」
シェオルは白いふさふさとした尾がぱたぱたと振って、床の霜を軽く掃った。
(何がなるほど、なのかしら……?)
彼(彼女?)の問いかけの真意は分からないながら──助け舟を出してくれたなら無駄にしてはならないと、ティルダは必死に口を挟んだ。
「あ、あの! 私、お花を咲かせようとして咲かせている訳ではなくて──だから、凍ってしまっている人を選んで起こすこともできなさそう、なんですけど……」
「まあ、この調子だといずれ天の民も目覚めるかもしれませんね。この玉燕ほどの器の者はなかなかいないでしょうから、時間はかかるかもしれませんが」
「シェオルさん……?」
シェオルの毛並みが、ティルダの足に触れた。寝そべっていたところから立ち上がってティルダに寄り添いながら、身体を振るわせて霜を宙に煌めかせながら、白い狼は玉燕を見上げて首を傾げた。
「既に死した罪人の身である以上は、多少の我慢は覚えなさい、玉燕。ティルダの傍に留まって、運良く同胞が溶け出すのを待つのですよ。どこかへ去って、また凍り付きたいというならそれも自由ですが」
「むう……」
玉燕は、露骨に不満そうに唇を尖らせた。そんな子供っぽい表情も美しくて、つい、宥めなければ、と思ってしまうのだから傾国の美女というのは恐ろしい。でも、せっかくシェオルが毅然と言ってくれたのを台無しにしてはならないということも分かるから、ティルダは両手で自分の口をふさいだ。
語り口こそ丁寧で穏やかでも、シェオルの牙も爪も鋭い。地獄の魔王ジュデッカの僕でもあるし、さすがの玉燕も黙ってくれるのではないだろうか。シルヴェリオも黙って見守る姿勢なのは、玉燕が折れるのを待つのが得策だと、彼も分かってくれているからではないだろうか。
三対の目が見つめる中──玉燕の唇が、ふう、と溜息を漏らした。シェオルの提案に頷いてくれるのか、否か。ティルダが身を乗り出した、その瞬間だった。
氷の宮殿の凍てついた空気を裂いて、高い声が微かに響いた。シェオルの耳がぴんと立ち、シルヴェリオの身じろぎが鎧を鳴らす。ティルダも、声が聞こえた方角に向き直って、耳を澄ませる。なぜなら──
(悲鳴……!?)
声の高さからして、その主は女性か子供だ。それも、言葉は聞き取れなくても、怯える響きが確かにあった。コキュートスにいる以上は何らかの罪を犯した人なのかもしれないけれど、か弱い人が助けを求めているのだとしたら放っておけない。
「私が参ります。ティルダ、貴女はここにいてください」
「いえ! 癒しが必要になるかもしれません。お邪魔にならないように、しますから」
素早く飛び出したシルヴェリオの背を追って、ティルダも足を急がせた。その間にもまた高い声が響いて、その居場所を教えてくれる。──声の主を脅かす者も、引き寄せているのかもしれないけれど。
走り出したティルダの足元を、シェオルの毛がくすぐっていた。それに、彼女の視界に落ちた影は──リヴァイアサンも、ついて来てくれるのだろうか。
(お城がこれ以上壊れませんように……!)
種類の異なる不安を抱えながら、ティルダは声の主を探して城の凍った廊下に視線を走らせた。




