30.玉燕の高慢
シルヴェリオ将軍の鎧の鈍い輝き。玉燕が纏う薄絹の、重なり合う色目が織りなす艶やかで鮮やかな花の色。シェオルのふわふわとした白い毛皮と──それに、リヴァイアサンの鋼色の鱗とそれを透かす半透明の鰭。リヴァイアサンに城を壊させないために移動した部屋にはまだあの花は芽吹いていなかったけれど、これだけ多くの色彩が集うと嘆きの氷原の見るだけで魂も凍り付いていくような寒々しさはだいぶ遠ざかってくれた……気が、しないでもない。
(生きていれば決して会えなかった人たちだものね……貴重な経験なのかしら……?)
シルヴェリオ将軍の装いは、まだティルダの生きていた国──エステルクルーナの文化に通じるものがあるけれど、玉燕のそれについては、時代も場所もかけ離れて過ぎているから傍から見ているだけではどこがどうなっているのか分からない。
「貴人を直視するのは無礼であるぞ。退屈させたままで待たせるのも、な?」
「あ、あの、すみません……」
長椅子をひとり占めしている玉燕は、優美な線の美しさを見せつけるように脚を組み替えた。ティルダの知る礼儀作法と、玉燕の衣装の足元まで隠す様式からして、少し行儀が悪いのでは、と思ったけれど──それ以上に、傾国の美女の機嫌がまた傾きつつつあるのを察したから、ティルダは慌てて頭を下げた。
ティルダの低姿勢にとりあえず満足してくれたのか、玉燕は細い顎を逸らしてティルダの背後に寝そべっているリヴァイアサンを示した。
「その化物を鎮めた功に免じてとりあえず話は聞いてやる。だが、妾を退屈させるでない。言いたいことがあるならば早うせよ」
「まずは目覚めさせてもらった恩をわきまえるべきだろうに」
「何を……!」
ことを波立てないで欲しいというティルダの切なる願いを他所に、低く、苦笑交じりに漏らしたのはシルヴェリオだ。彼は意図していたのかいないのか、二重の意味で冷え切った部屋の空気にその呟きは意外と大きく響いて、玉燕はきっと眦を決して異国の将軍を睨みつけた。
またも言い争いが起きる前に、と。ティルダはふたりの間に割って入りながら──もたれる先をなくしたリヴァイアサンが不満そうに唸るのが背中に聞こえた──声を上げた。
「あ、あの! 私……どうして地獄に来てしまったか分からないんです。どうして死んでしまったのか、どんな罪を──裏切りを、犯したのか」
シルヴェリオと玉燕が、斬り合うようにぶつからせる視線を断ち切るように、慌ただしく首を左右に振って、ティルダは思いを紡ぐ。先ほど地下牢でシルヴェリオを癒した時に、気付くことができた彼女自身の願いを、どうにか言葉に表そうとして。
「コキュートスに堕ちた罪人は、本来はすぐに凍り付いてしまうのだとか。でも……あの、多分なんですけど、私の力でお花が咲いたみたいで……だから、少し頑張れそうで。今のうちに──っていうのも変なんですけど! 何をしてしまったのかを思い出したい……今まで生きて来たこと、その中で罪になってしまうことがあるなら、向き合いたいです。その上で、償うことができたら、と思うんです」
決して滑らかに語った訳ではなかった。民や兵に向けての説教や演説は偉い方々のすることで、ティルダは微笑んでいれば良いと言われていた。聖女が迂闊に口を開けば、人々を失望させてしまうから、と。
恥ずかしいくらいにたどたどしいティルダの言葉に、それでもシルヴェリオも玉燕も耳を傾けてくれているようだった。床に寝そべったシェオルも、尻尾を小さく振って応援してくれている、と思う。リヴァイアサンは──目蓋もないぎょろりとした目で、何を考えているかは分からないのだけど。
「そのためにも、罪人同士で助け合いたいな、と思ったんです。その、同じ罪を犯した者の誼というか! 話し相手がいたほうが、凍ってしまうこともないんじゃないかな、って思いますし……だからあの、皆さんと仲良くしたい、です」
「私は聖女の力とティルダの慈悲に感服している。贖罪の機会を得ることができたことへの恩も返したい。──だからせめて、邪魔をしないでいただけるとありがたいのだが」
シルヴェリオの棘のある言葉に、玉燕は毒のある微笑で応えた。
「化物どもを従えて脅しておいて殊勝げなことを嘯くものだの」
「脅すなんて、私──」
「ま、確かに今の妾には何の力もない。化物どもをけしかけられぬように、せいぜい息を潜めているとしよう」
「あ──ありがとうございます! でも息を潜めるなんて、玉燕さんも、どうか一緒に──」
でも、ふいとそっぽを向いた時には、玉燕の表情からは刺々しさは消えていた。相変わらず皮肉っぽい口調ではあるものの、邪魔をする気はないと思って良いのだろうか。ティルダはぱあっと笑顔を浮かべて、玉燕に手を差し伸べようとするが──
「図に乗るでない、小娘」
それを払いのけるように、玉燕は傲然と胸を張って唇に弧を描かせた。艶やかで美しい笑み──なのに凄みがあって、ティルダの舌も身体も凍らせる。コキュートスの酷寒にも負けず劣らず、分かり合えたと思ったとたんに突き放されるのは、辛いことだった。
「死んだくらいで罪を忘れるそなたと一緒にするな。妾は自身が何をしたかすべて、あますことなくこと細かに覚えておる。さほど美しくもない癖に妾の上席を占めていた女どもを陥れ、必要ならばその子らも始末した。老いぼれた皇帝が死後までも侍れと命じたゆえに、血の繋がらぬ息子を唆して父を殺させ、その罪ゆえに新帝も弑させた。ああ──その過程で何人の男を誑かしたかは、さすがにあやふやではあるが」
「──っ」
陰謀も人の死も誑かす、なんて言葉も、ティルダには恐ろしく忌まわしく感じることばかり。なのに、いっそ自慢げに語る玉燕を前に、ジュデッカが最初に漏らした言葉が蘇る。
『ここに堕ちるのは己の罪を承知したうえで俺に自慢するようなどうしようもない連中ばかりだ』
「その上で、妾は何ひとつ悔いてはおらぬ。まして悪いなどとは思うものか。めそめそと過ぎたこと、それも自ら為したことに思い悩むなど愚かしい。妾を引き入れようなどとは不届き千万である!」
コキュートスの主の言葉を裏付けるように、玉燕は堂々と言い切った。




