29.魔王の微笑
聖女と将軍と王后──それに、白い大狼と、さらに長大な大蛇。性別も年齢も、生まれた国も時代も、何なら種族さえ違う者たちは、部屋を移したようだった。逆巻く渦の大水蛇が壁を壊さぬように、テラスを備えた部屋へと狼が案内したのだろう。玉座の間にいながらにして、ジュデッカは鎖を通して罪人たちの動向を把握していた。
「別に、多少壁が崩れたところでどうでも良いのだが……」
ジュデッカの低い呟きが、広間の高い天井に響いて消える。コキュートスの彼の城に、彼自身とシェオル以外の住人はおらず、まして来客の予定もない。多少見栄えが悪くなろうと風通しが良くなろうと、別に気にするジュデッカではない。
彼が心に懸けるとしたら──遥かな高みにおわす神ただひとり。幾星霜を越えて、九層の地獄と、さらに人界と天界で隔てられてなお、その方の声も姿もありありと彼の脳裏に蘇る。慈愛と威厳に満ちた美しい微笑みも、美しい声も。
──貴方の城も庭も、すべて雪と氷に閉ざされるように。そして罪人を捕らえる檻となるように。
ただ、その命を下す時はその方の表情と声にも憂いと悲しみの影が落ちていた。ジュデッカを氷の地獄の只中に取り残すことに対して、神は確かに心を痛めていた、と思う。
もう何千年前のことか、彼自身にも知れないが、万象を統べる御方の心を我が身ひとりに向けさせたことに対して、ジュデッカの胸にはコキュートスでも凍ることのない熱が灯る。その灯があるからこそ、彼は何千年でも何万年でもこの役目に耐えられる。
──そして貴方も檻の中に留まるのです。罪人を監視する番人として。
唯一の御方からの命令を噛み締めて、ジュデッカはしっかりと頷いた。
(檻は壊れていない。俺の目も曇っていない)
今現在、動き始めた者たちも、これから目覚める者たちも。仮に罪人どもが力を合わせたとしても彼に及ぶはずがない。そもそもが大罪を犯した悪人どもなのだから、死した後も裏切り合いいがみ合うに決まっているし。
「何を企もうと無駄なこと、儚い抵抗に過ぎない」
聞こえないのは承知の上で、鎖が伝える罪人どもの集まりに向けて、ジュデッカは小さく嘲った。
あのティルダという娘は、床に首を伸ばしたリヴァイアサン──胴体は器用に外壁に貼りつかせている──を背もたれにして、傍らにはシェオルを侍らせている。異形の獣を二体も従えた姿は聖女というより──
(あの娘こそ魔王のようではないか)
無害を装った言動との裏腹さに、知らず、ジュデッカの唇を苦笑が彩っていた。
リヴァイアサンは、あの娘を苦痛を取り払ってくれた存在として認識したらしい。いかに巨大でも強大でも、しょせん蛇の考えることは単純なものだ。
(あれだけの魔力を持つ者がまともな存在であるはずがない)
規格外の魔力の持ち主というものは歴史上にも何度か例があるが、概ねその力を振るって面倒を起こしてくれるものだ。人の世で国を幾つか興るか滅ぶかすれば、膨大な死者の魂は天界も地獄も氾濫させる。あの娘がリヴァイアサンを宥めた時のように天地の気脈を操れば、その影響は地上のあらゆる生物にも及ぶ。
あまつさえ天界を訪ねて神に拝謁しよう、とか。地獄へ踏み込んで罪人を解き放とう、とか。
「罪人を解き放つ、か──」
と、ジュデッカは自身の考えに眉を顰めた。例えば、自ら死して地獄に潜り込み、内側から檻を壊そうなどと考えているとしたら? 人間は、時に非常に奇妙な考えに取りつかれるもの。天にまします実在の神ではなく、彼らがこしらえた想像を神と呼び、妄想をその教えと信じ込むのはその最たるものだ。
彼がこれまでに見聞きした人間の突飛な試みに比べれば、罪人の解放などごく分かりやすい部類に入る。何しろあのティルダとかいう自称聖女は底抜けのお人良しで、罪人ところか怪物まで哀れんでいた。──何もかもに慈悲をかけて救おうとするとか、そんな教義に洗脳されているのは、いかにもあり得そうだった。
(多少、氷が緩んだところで逃げられはしない……あの娘に逃がせるものでもない、が……)
罪人がコキュートスから逃れる手段は、一応ないことはない。だが、それを為し得た者はいまだかつていない。聖女の魔力をもってしても不可能な条件を、彼は番人として設定している。
「念のため、は必要だな」
神から仰せつかった命令に、過ちがあってはならないのだから。取るに足らないちっぽけな人間だろうと侮りはすまい。万全を期すため──ジュデッカは、鎖を手繰った。罪人どもに目印として繋いだ彼の鎖は、誰がどこにいるか、目覚めているか否かを教えてくれる。
(どうせあいつもそろそろ起き出すころだろう)
コキュートスに堕ちた年代と、その罪人の罪の重さ、我の強さ。玉燕やシルヴェリオが目覚めたならきっと、と。思い浮かべた罪人は、確かに城の一角で蠢き始めているようだった。
「全てを欲する大盗賊ルクマーン──清らかで無欲な聖女など、お前も気に入らないだろうな?」
鎖は、玉座から立ち上がったジュデッカに例の聖女の姿も伝えていた。ティルダとかいう娘は、落ち着きなく手と口を動かして何かしらを熱弁しているらしい。恭しく跪くシルヴェリオはともかくとして、つんと顎を反らした玉燕は娘の話が気に入らないようだったが。罪人どもが結託しようとしているとしても、前途多難ではあるようだ。
だが、ジュデッカは驕らない。あるいは、彼もコキュートスの凍り付いた時間にうんざりしていたのか。罪人どもがこれだけ起きているのは珍しいのだから、争わせてみたら面白いのではないか、と思いついたのだ。
「ふん、やはり抜け目がないな……」
彼が出向くまでもなく、目当ての罪人の気配が近づいているのを感じ取って、ジュデッカは微笑んだ。玉燕もそうだったが、目覚めて、コキュートスの異変に感づいて、そして真っ先に番人である彼から情報を得ようとする者は狡賢くて油断ならない。
──だが、今に限っては面白い、と思う。ルクマーンは、狙った品のために手段を選ばずその持ち主に取り入った盗賊だった。用心深い貴人や豪商の心の隙間に見事に入り込んだ上で、容赦なく裏切るのがその手口。お人好しの聖女に見抜けるものではあるまい。
裏切られたと知った時のあの娘の顔が、ジュデッカは見たいのかもしれなかった。




