28.再会
「──ひゃ!?」
玉燕の視線を追って首を動かしたティルダの唇から小さく悲鳴が漏れた。
コキュートスの城の窓には、ガラスも格子も嵌められていない。まして板で塞ぐような無粋はない。すべてを凍らせる冷気を防ぐことは不可能だからなのか、潔いほどに何もなく、外と内は繋がっている。とはいえ白く霜が貼りついた壁に、外の景色も一面の氷原。ともすれば窓枠も白に埋もれてしまうような寒々しく味気ない景色がひたすら続くはず、だったのだが──
「なんだ、あれは……!?」
シルヴェリオが呆然と呟いたのも道理、今は、窓の外に赫々と輝く赤い円が浮かんでいる。まるで太陽のように。だが、もちろん嘆きの氷原には太陽はおろか月でさえも巡らない。
赤い円の中心には、縦長に黒い線が走っている。驚きに固まった室内の人間たちを見下ろして左右にちらちらと動くそれは、巨大な蛇の目に間違いなかった。それも、ティルダにとってはつい先ほど見つめ合った記憶も新しい。
「逆巻く渦の大水蛇。このコキュートスに封じられていたのが、先ほど目覚めていたのですが」
「なんと」
(そうだわ、シルヴェリオさんたちは知らないんだ……)
地下牢に自ら囚われていたシルヴェリオはもちろんのこと、玉燕だって窓辺に寄っていなければリヴァイアサンの姿を目にすることはなかっただろう。巨大な蛇が暴れていたのは、本当に短い間だけだったから。……だから、窓から見える目の部分だけでリヴァイアサンの全容を思い描くのには少々時間がかかるだろうし、見えない部分の巨大さや、いかにも頑丈そうな鱗、尖った牙の鋭さに気付いてしまった時の衝撃と恐怖の大きさは、相当なものだろう。玉燕がティルダを抱き締めた格好のまま、しばらく固まってしまったのも無理はない。
「化け物めが……っ」
「きゃぅ!」
そして状況を把握した時に、ティルダを窓のほう──リヴァイアサンのほうへ突き飛ばしたのも、まあ仕方ないことだと思う。巨大な蛇は、今は牙を剥いてはいないけれど、顎を閉じていてもなお狂暴そうな姿をしているのだから。少しでも逃げる時間を稼ごうと考えるのは、咄嗟の判断としてはとても正しい。
「ティルダ!」
シェオルとシルヴェリオが、ほとんど声を揃えてティルダの名を呼んでくれる。ぺしゃ、と氷の床に突っ伏しながら、彼女が割と冷静に考えることができるのは、ふたり──ひとりと一頭(?)──が近くにいてくれると思えばこそだ。それに──
「リヴァイアサン……さん?」
ティルダが目の前に転がり出ても、リヴァイアサンは思いのほか大人しかった。外から首──大蛇の長い身体のどこからどこまでが首なのだろう──を突っ込んで、窓枠を軋ませ氷の欠片を撒いた時はびくりとしまったけれど。でも、巨大な顎が開かれることも、鋭い牙がティルダを狙うこともない。
ミシミシという音と共に、壁にひびが入っていく。リヴァイアサンは窮屈そうに身じろぎしながら首をティルダのほうに伸ばし──すりすりと、鱗で鎧われた頬をすり寄せてくる。
「わ、えっと、ちょっと」
巨大な身体が迫ってティルダがよろめくと、軽く服の端を咥えられて引き戻される。くっついていないと承知しない、と言いたげに、壁のひびを広げてはティルダに寄り添おうとするのは、子猫が喉を鳴らしながらじゃれついてくる様に似ていなくもない、かもしれない。
(とても大きくて……怖いけど……)
危険ではないと、思って良いのかどうか。戸惑うティルダの傍らに、シェオルが軽い足音を立てて近づいた。ティルダの縋るような眼差しに、白い狼は首を傾げながら答えてくれる。
「……ティルダに懐いたようですね? 貴女の気配を追って来たのでは?」
「そんなことが……?」
リヴァイアサンに、人間の──というか、白大狼が語った言葉が理解できたかは分からない。でも、そうだそうだ、とでも言いたげに、大蛇はますます熱を込めて(鱗は冷たいけれど)ティルダを突き回した。
「なるほど。これも聖女の……何というか、人徳、なのでしょうね」
「いえ、あの、生前はこんなことはなかったんですけど。恐縮です……」
起き上がっては、リヴァイアサンの鼻先に転がされて。すっかり髪を乱してしまったティルダを見下ろして、シルヴェリオはしみじみと呟いた。聖女というものに、どうも過大な期待というか評価をされているような気がしてならないけれど、とにかく先ほどまでの緊迫した空気は跡形もなく消えたようだ。リヴァイアサンが首を突っ込む──文字通り──光景を前に、人間同士で諍っても意味がない。
「──この怪物には、さすがに貴女の美貌も色気も通じないでしょうな。これでやっと、まともに話ができるという訳だ」
剣を鞘に収めたシルヴェリオは、呆然とへたり込む玉燕に揶揄うような笑みを向けた。傾国の美妃は、目を口を開き切った表情でも美しいからすごい、と。こんな状況にもかかわらずティルダは見蕩れてしまう。
「……ふん!」
小娘の感嘆の眼差しなんて何でもない、とでもいうかのように。玉燕は、はっきりと顔を顰めてそっぽを向いてしまった。そうして晒される細く白い首筋さえ、ティルダが生前見てきたどんな絵画や彫刻よりも完璧な線を描いているからさすがというほかない。
玉燕は、いかにも嫌そうに、見せつけるように眉を顰めてはいたけれど。それでも、彼女の纏う気配からは刺々しさや高慢さが幾らか薄れているように見えた。だから、シルヴェリオが言った通り、多分今後どうするか、の話ができるのだろう。地獄に堕ちた罪人同士であっても──あるいはだからこそ。
(話せば分かる、わよね……?)
言葉を使って歩み寄るということは大事なのではないか。ティルダはそう願った。




