27.対立
玉燕の笑みの美しさに、言われたことの唐突さに。言葉も出ないティルダの耳に、鋭い舌打ちの音が届いた。
「──なんと傲岸な」
ついで、金属が擦れる肌をざわつかせる音が。ぴりりといっそう冷えた空気が、シルヴェリオが剣を抜いたのを教えてくれた。空気の動きと長靴が氷を踏む音で、彼が一歩、こちらに近づいてきたのも、分かる。
「そう言うそなたはなんと武骨で、無作法な。罪人風情が妾に剣を向けるとは」
「貴女も罪人だろうに。私の生きた時代でも貴女の国は既に滅んで久しかった。いまだに皇后の地位にあるおつもりか?」
「妾は美貌によって権を得て、今なお変わらず美しい。ならば妾の権威はこの氷の獄でも健在であろう。この娘はもちろんのこと、弁えて平伏するならば妾の近侍の名誉をやっても良いぞ?」
剣を向けられても優雅な笑みを絶やさない玉燕も、目が眩むような玉燕の美貌を前にしても動じないシルヴェリオも、ティルダには信じられない。睨み合う──多分──ふたりに挟まれて、ティルダはそれこそ氷の刃に前後から貫かれる思いだというのに。
何か言わなければ、何かしなければと思うのに、跪いた姿勢のまま、首を動かすことさえできないのだ。
(ど、どうしよう……)
生まれた時代も場所も違うはずのふたりが、コキュートスに堕ちたことで相まみえてしまったのは、どう考えても良い結果になりそうにない。ふたりの考えも価値観も多分まったく違っていて、だからこそ互いがどうにも気に入らないようで──そして、ふたりして退くつもりはないようだ。
「私が剣を捧げる主はすでに定めている。主も国も既にないだろうが──忠誠に変わりはない」
「どうせ裏切ったのだろうに聞こえの良いことを……!」
「あいにく、私が裏切ったのは主ではないのでな」
銀の鈴を転がすような玉燕の笑い声を、シルヴェリオの舌鋒が鋭く叩き落した。《背信者》を名乗る彼の出自も、裏切った相手もとても気になりはするのだけど、もちろんそんなことを詳しく聞けるような状況ではない。
ティルダの首筋をくすぐった冷気は、古の将軍が剣を構えたことによるものだろう。
「つまらぬ武人め。その手の忠臣面は見飽きておるわ」
研ぎ澄ませた刃を映してか、玉燕の深い色の目が妖しく光る。彼女の艶やかな唇が吐き捨てたこともまた、生前を窺わせてティルダの止まった心臓をざわめかせた。
(どうしてこんなに落ち着いていられるの!? ま、まさか慣れているとか……?)
国を傾けた妃は非業の死を遂げたはず。その時は、こうして剣を向けられたのかもしれない。……それならもっと慌てたり怯えたりしそうなものだから違うかもしれないけれど。
何も分からないから、ティルダはまだ話が通じそうなシルヴェリオに、背中越しに話しかけた。
「し、シルヴェリオさん……? 何をするつもりですか……?」
「先ほどまでの私と同じことですよ、ティルダ。手足の一、二本も切り落とせば、さすがの玉燕妃も悪だくみをする余裕はなくなるでしょう」
「そんな……っ」
さらりと答えてくれたシルヴェリオの口調は、ごく軽く明るかった。穏やかな笑顔が目に浮かぶよう。けれど一方で、その内容はどこまでも物騒なものだった。
(いくらもう死んでるからって……!)
責め苦の一環ということなのか、コキュートスでも傷を負えば血は流れるし痛みも容赦なく襲うらしい。身をもってそれを知るからこそ、シルヴェリオは脅しの手段にしているのだ。大人しくしなければ斬る、と。だが──
「そなたの腕がいかほどかは知らぬ。が、その大仰な剣で妾だけを斬れるのかえ」
玉燕は、もちろんそれに屈したりしないのだ。ふわり、と。彼女が纏う目にも綾な衣装が舞い──ティルダの目の前に迫る。まるで包み込まれるよう、と呑気に考えたのは、あながち間違いでもなかった。シルヴェリオの剣やシェオルの牙よりも素早く、玉燕はティルダを抱え込んでいた。
(え? あれ……?)
くすくすと、銀の鈴振る笑い声がティルダの耳元をくすぐっていた。背中を撫でるのが玉燕の細く白い指だと思うと、止まったはずの心臓がどきどきしてしまいそう。盾にされているのが分かっていても、綺麗な人と密着している恥ずかしさを何よりも先に感じてしまう。
「ティルダ……!」
シェオルの唸り声に揺さぶられるようにして、ティルダはやっと我に返った。玉燕に強く抱きすくめられて、もう振り向くこともできないけれど──必死に口を動かして、叫ぶ。
「……大丈夫です! 斬ってください! 私ごと!」
「ティルダ。何を……!」
がちゃりと金属が鳴った音は、シルヴェリオの動揺を表しているはずだ。
(これで、何とか収まってくれれば……!)
咄嗟に口から出たのはそう的外れなことではないはず。要は、罪人同士で争うなんて止めて欲しいだけなのだから。だから、シルヴェリオや玉燕が次の行動を起こす前に、とティルダは必死に口を動かした。
「わ、私も死んでますから大丈夫です。少し休めば魔力も回復して──そうしたら、治せますから。私も、玉燕……さん? も!」
あまりに美しく、そして高貴な身分だったという女性。とはいえ今は同じコキュートスの罪人である女性への敬称を、どうすべきか。迷いながら選んだ「さん」付けは、玉燕の気に入るものではなかったようだった。
「小娘風情が、無礼な……!」
「そのようなことが、できるはず──」
玉燕の指が、ティルダの頬を思い切り抓る。痛みと、上手く口を動かせないもどかしさに耐えて、それでも彼女は肩越しの説得を諦めない。
「で、できます! でも、疑うなら剣を収めてください!」
ティルダの癒しの力なら、何度でも傷を治せる。何度痛めつけても同じなら、それはつまり無駄なことで、止めるべきだ。そしてティルダを傷つけたくないというなら、やはり採るべきは同じこと。
(どうか、分かって……!)
玉燕の説得も、きっと簡単ではないだろうけど。それでも、剣を抜いての争いよりはずっとマシなはずだ。生前の身分はどうであれ、今は同じ罪人同士。氷の地獄の過酷な寒さの中で、手を携えることができれば良い。
「あ、あの……召使には、なれません。でも、お友達ならどうですか……?」
「何を……!」
(ああ、やっぱり……)
一か八か、のつもりで玉燕の説得も試みてはみたけれど。案の定、美妃は形の良い眉を釣り上げて唇を歪めた。ティルダはぎゅっと目を閉じて浴びせられるであろう罵倒に耐えようとした。でも……意外にも玉燕は何も言わない。そして、ティルダを抱きかかえたきり、離してもくれない。次に聞こえたのは、玉燕の怒声でもシルヴェリオの答えでもない──シェオルの、溜息だった。
「ああ──それどころでは、ないようですね……」
(え……?)
いったい何が、と。ティルダは不思議に思って恐る恐る目蓋を持ち上げた。すると目に映るのは玉燕のこの上なく美しい麗貌──ただ、ひどく引き攣っている。まるで、何か恐ろしいものを目の当たりにしたかのように。
……その視線の先は、ティルダではなく、窓の外を向いているようだった。




