25.賑やかな地獄
「おお……本当に花が咲いている……!」
城の上階に上がり、廊下のあちこちに咲く花を見た瞬間にシルヴェリオは驚きの声を上げた。ティルダを見下ろす彼の目にも高揚が宿り、何か居たたまれなくなるような過剰な誉め言葉をもらってしまうような気がしてならなかった。
「ええと……本当に私が咲かせたのかは分からないんですけど。でも、目が覚めたら部屋にお花が咲いていて……それで、時間が経つとどんどん増えていて……」
だからティルダは慌てて言い訳めいた言葉を並べたけれど、さほど役に立ったかどうかは分からない。彼女を支えながら進むシルヴェリオは、一歩ごとに鎧をがしゃがしゃと鳴らす。それに、ティルダと併せてふたり分の鎖の、しゃらしゃらという涼やかな音が加わって、しんと凍り付いた廊下は、一時だけ騒がしくなってしまう。そしてその騒音をさらに掻き消そうとでもいうかのように、シルヴェリオは大きな声でティルダに応えるのだ。
「貴女の御力に間違いございますまい! 先ほど私を癒したお手並みは誠に御見事なものでしたからなあ!」
「いえ、当然のことですし、こんな有り様ですし……。あの、静かにした方が良いのでは……?」
広いところに出たからか傷を治したからか、シルヴェリオの声は地下牢にいた時よりも朗々としてよく響く。わぁん、と耳鳴りのような残響が聞こえるほどだ。まだ彼の手を借りなければまともに歩けないティルダの頭にも響いてくらくらしてしまいそうだし、何となく、静寂を乱すのはいけないことのように思えてしまう。まさか、ジュデッカがいるであろう玉座の間まで聞こえるなんてことはないだろうけど。だから、魔王の不興を買う心配は無用なのだろうけど。
ティルダがおずおずと唇に人差し指をあててみせると、シルヴェリオは少し笑った。そして長身を屈めて、彼女の耳元にそっと囁く。
「こちらの居場所を教えた方が良いでしょう。ひとりではなく、かつ、武装した男がいるということも」
「教える……誰に……?」
さっきの大声とは打って変わった、空気を震わせるかどうかの小声は聞き漏らさないようにするのが大変だった。それでも、どこか周囲の様子を窺いながら、シルヴェリオが張り詰めた声で告げた単語はやけにティルダの耳についた。思わず、彼女も声を潜めてしまう。
「誰かは分かりませんが。だが、確かに人の気配はいたしますな。嘆きの氷原にいるのは罪人ばかりというのをお忘れなく。……隙を見せないに越したことは、ありません」
「そんな──」
『何人か目覚めたようですね』
城の外でシェオルが呟いたことを思い出して、ティルダの頬は強張った。彼女が名前を聞いているのは、このシルヴェリオと、伝説の傾国の美女、天の玉燕だけ。何人か、というなら確かにふたりでは少ないようとは思うけれど。
「私も音と臭いで警戒していますからご心配なく。将軍と私の姿を見て、わざわざ寄って来る者もそういないでしょう」
止まってしまいそうなティルダの足を、シェオルの柔らかな毛並みがくすぐった。身体を擦りつけることで、彼女の歩みを促すかのよう。笑ったように軽く開いた口には、ずらりと鋭い牙が見える。シルヴェリオは堅固な鎧に剣まで携えているし、ほかの罪人がうろついているとして、恐れて逃げてくれれば良い……だろうか。
(ふたりとも、よく短い時間でそこまで……!)
罪人たちが目覚め始めるのを見越していち早くシルヴェリオの助力を求めたシェオルはすごいし、多くを説明されるまでもなく、人の気配を感じ取って警戒を怠らないシルヴェリオのほうも、すごい。生まれ持った魔力を教えられたように使っただけのティルダよりも、よほど。
「シェオルさん、シルヴェリオ……さん? あの、ありがとうございます……!」
感謝と感嘆を込めて礼を述べると、シルヴェリオは微笑んで小さく頷き、シェオルは尻尾のひと振りで応じてくれた。さらに白い狼は、耳を動かし鼻を鳴らして、何かしらを感じ取る素振りを見せた。
「いいえ! ──ティルダ、将軍。こっちですよ。……ちょうど、玉燕も待ち構えているようですね」
「ほう、素早いな」
「主が彼女と話したと仰っていましたから、ティルダのことも聞き及んだのでしょうね。ちょうど、ティルダが寝起きしているのも玉燕が使っていた部屋でしたし」
狼と武人がさらりと言葉を交わし合うのを聞きながら、ティルダは頭を抱えたくなった。
(あ……私、勝手に上がり込んだように見えるのかも……?)
シェオルが最初にあの部屋に案内してくれた時は、多分こんなことになるなんて思ってもいなかったのだ。こんな──地獄に花が咲くことも、罪人たちや、逆巻く渦の大水蛇までも目覚めるような事態なんて。
(コキュートスがこんなに賑やかで良いのかしら……?)
ティルダは首に絡んだ鎖にそっと触れた。コキュートスの番人であるジュデッカは、この氷の世界で起きている何もかもを把握しているのだとか。あの冷ややかな顔で、無言のうちに、あの方は怒っているのだろうか。それを思うと怖いけれど──でも、静まり返った世界のままよりは、少しくらいうるさいほうが良い、かもしれなかった。




