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24.最悪の罪

「わ、私はティルダです! 普通に名前で呼んでいただければ……あの、将軍でいらっしゃる……いらっしゃった、のですよね……?」


 既にシェオルが教えていた名を、ティルダはやっと自ら名乗ることができた。まるでこれから舞踏でも始める時のように、素敵な小父様に抱えられて手を取られて、狼狽え切って上擦った声での挨拶だから、様にならないことこの上ないけど。


 それでも、ティルダの醜態など見えていないのかのように、シルヴェリオは重々しく丁重に頷いた。


「さよう。──かつては、ですが。今の私には相応しくない称号ですが」

「あ……」


 今は、というのは死んだ身だからか、それとも生前に犯した罪ゆえのことなのか。シルヴェリオの薄い色の目は悲しみに深く凍っているようで、ティルダには尋ねることができない。彼のことを何と呼べば良いのかも。


 シルヴェリオの硬い腕の中、ティルダが舌と身体を固まらせていると、シェオルが自らの存在を訴えるかのように後ろ脚で立ち上がり、軽く跳ねた。


「将軍、歩けそうでしたら上に行きましょう。ティルダが使っている部屋に。先ほど話した花も咲いていますから」


 着地すると同時に、シェオルは独房の扉のほうへ小走りに向かっている。相応しくないと言ったばかりの称号でさらりと呼びかけられたシルヴェリオは、口元に微かな苦笑を浮かべていた。


「待っているのは花だけか、氷大狼(フェンリル)殿? 嘆きの氷原(コキュートス)の罪人で、目覚めたのが私だけとも思えないが」

「ええ、それは美しい()()()が待ち構えているはずですよ。だから、ティルダの護衛に貴方をアテにしていたのです」

「毒花とは……?」


 ティルダを支えて歩くシルヴェリオは、彼女よりもよほど状況を把握するのが早いようだ。的確に質問を述べる彼は、きっとさぞ優れた将だったのだろうと窺われる。でも、きっとそんな感想を伝えても彼は喜ばないのだろう。だから代わりに、ティルダは別のことを口にした。いつまでも、ぼんやりしていると思われては情けなさすぎる。


(いにしえ)(ティエン)の国の玉燕(ユーイェン)妃、だそうなんですけど……あの、ご存じですか……?」

三夫(さんぷ)(しい)した大姦婦ですね。なるほど、コキュートスには相応しい」


 シルヴェリオは、またも理解が早かった。玉燕という女性は、彼の時代でもよほど有名な悪女だったらしい。それに、彼はとても気になることをも漏らしていた。


「コキュートスに相応しい、というのは……その人が犯した罪が、ということですか……?」


 何がなるほど、なのか、ティルダにはいまだに分からないのだ。悪人が地獄に堕ちるのは当然といえば当然なのだけど、シルヴェリオの口ぶりだと、ほかの地獄ではなくコキュートスだから相応しい、と聞こえてしまう。


 首を傾げるティルダに、シルヴェリオとシェオルは意味ありげな眼差しを交わした。彼女の無知が、彼らにとっては意外なことであるかのように。


「ああ……貴女はご自身の罪を覚えていらっしゃらないということでしたね」

「はい……きっと、図々しくて白々しいと思われるでしょうけど……」

「何、神にも手違いということはあるかもしれません。それに……どのような罪だとしても、私以上のものではありますまい」


 昏い笑みで呟いてから、そして、地下に連なる独房を抜けて、地上へと続く階段に足をかけながら。シルヴェリオは短く告げた。


「コキュートスは、裏切り者のための地獄です」

「え……」


 絶句するティルダの身体を、シルヴェリオが抱えるようにして階段を上らせてくれた。深手が治ったばかりなのに信じがたいけれど、小娘ひとりの身体など、彼にとっては羽根のようなものなのかもしれない。彼が続ける声はごく淡々として、少しの乱れも聞き取れなかった。


「玉燕妃は、自らの夫を裏切った。そして新たな夫に取り入ってはまた裏切りを重ねた。民を苦しめるとか贅の限りを尽くすとか、淫蕩に耽るとか──それらもまた大罪ではありますが、裏切りとはさらに重い罪なのですよ」

「強欲も色欲も傲慢も当然として、その上に罪を重ねることになりますからね、たいていの裏切りというものは。最下層の地獄に相応しい罪と言えるでしょうね。ああ、ティルダ、貴女は必ずしも当てはまらないかもしれないですが」


 荷物を持たないシェオルは、軽やかに階段を上りながら補足した。ティルダに優しい言葉をかけてくれる割に、シルヴェリオの()()については言及しないのが少し怖かった。穏やかで礼儀正しい武人に見えるこの人がどのような裏切りを犯したのか──ティルダの胸の中では疑問が膨らんでいくばかりだ。


「そう、なのですか……」


 疑問は、彼女自身に関するものでもある。シェオルがかつて言ったように、コキュートスに堕ちる罪が気の持ちようの話ではないなら、彼女だって卑劣な裏切り者のはずだ。何かやむにやまれぬ理由があってのことならまだ良いけれど──でも、彼女には何も思い出せない。罪の意識を持っていたのかどうかさえ不確かだった。だから、自分自身を疑ってしまう。聖女を名乗っておきながら、その陰で平然と罪を犯してしまえるような女が自分だったのかどうか。


(私は……いったい何を……誰を、裏切ったの……?)


 不安に胸を痛めるうちに、地上が近づいていた。もちろん、地下を脱したところで酷寒の氷の地獄であることに変わりはないのだけれど。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 裏切り者の地獄……コキュートスと言う名で察するべきだった。 なるほど、なんで落ちてきたんだろうなぁ……。
[一言] そうだ!彼女の部屋だった! そしてなるほどの地獄。将軍の詳細も気になる。
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