23.騎士の口づけ
「Jag erbjuder guden högt upp i himlen...」
歌うように呪文を唱えながら、ティルダは魔力の見えない手を思い浮かべてシルヴェリオの傷をそっと探った。
(とても深い……内臓も、背骨も傷ついて……血もたくさん流れている……)
シルヴェリオの顔が、青褪めるを通り越して黒ずんだ色になってしまっているのは、嘆きの氷原の寒さに加えて大量の失血も理由なのだろう。それでもなお意識を保って会話さえできるのは、彼の強靭な精神力と、それに、既に死んだ魂ゆえの奇跡……というか呪いのようなものなのだろう。
(まずは、時間を戻して……!)
「Rotera, rotera, Snurrhjul av tid...atergar till, till det förflutna」
ティルダの魔力の手は、床に滴り落ちたシルヴェリオの血を掬い上げて彼の身体に戻す。もちろん、たとえコキュートスで凍っていなかったとしても、一度流れた血を掬ってかけたところでまた血管を流れるようにはならない。あくまでも、そのように思い描くというだけだ。彼の身体が、健康な状態に戻るように。彼の身体の奥深くで、時の紡ぎ車が逆に回転するのを幻視するように。ティルダのイメージに従って、彼女の魔力は彼女が望んだ状態を捏ね上げる。血と共に失われた体力までは戻らないから、ティルダの魔力を注ぎ込んで補う。彼女の方が貧血に陥ったような、くらりとする感覚は術が成功している証拠だ。
(もっと大勢を一度に癒したこともある……これくらい、平気!)
「おお……?」
シルヴェリオ本人にも体力と気力の変化が分かるのだろう、戸惑いと驚きの声が漏れたのに微笑んで、ティルダは次は時の紡ぎ車を順の方向に回す。ただし常よりもずっとずっと速く、独楽が回るような速さを思い浮かべて。身体に血を押し込んだところで、傷を速やかに塞がなくては。本来なら何日も何か月もかかる治癒の過程を、できる限り早めるのだ。生前だったら、治ってもまたすぐに戦場に送られてしまうのかも、と心を痛めながらだったけれど。今なら、純粋な治療として術を行える。一片の迷いも悩みもなく、魔力の操作に全神経を傾けることができる。
「Rotera, rotera, Snurrhjul av tid...atervander, lyckligtvis pa morgonen...min enda onskan!」
ティルダの祈りの歌の、最後の音が独房の中に響いてふわりと消えた。コキュートスの冷え切った空気だからか、音を立てるものがいないからか、いつもよりも残響が長く漂ったような気がする。あるいは、大きな術を見事に成功させた高揚が、ティルダの神経を鋭敏にさせているのかもしれない。
既に死んだ身体は汗をかくことも熱を感じることもないけれど、もしもまだ温かい血が通っていたとしたら、彼女の頬は赤く染まって熱くなり、心臓もどきどきと高鳴っていたことだろう。
(できた! ……はず……!)
手応えは確かにある。でも、ごっそりと魔力が抜けた手足が言うことを聞いてくれなくて、ティルダは跪いた姿勢のまま、立ち上がることができなかった。顔を上げることもできないから、視界に映るのはシルヴェリオの脚を覆う鋼のすね当てだけ。少しでも彼の顔色が良くなったのか、確かめたいのに。
「……どうですか、将軍?」
動けないティルダの視界を、シェオルの白いふわふわの四本の足が通って行った。白い狼がシルヴェリオに駆け寄ったらしい。前脚を寝台か、シルヴェリオの腕にでも乗せたのだろう、後ろ脚だけで立っているのが見て取れた。
「ああ……痛みはない。動けも、するようだ。残念ながら、な……」
ティルダの目の前に、今度は細かな氷の欠片が雪のように降った。鎧に張り付いた氷を落としながら、シルヴェリオがゆっくりと立ち上がったのだ。凍った寝台から立ち上がった彼は、二、三歩よろめいた後はしっかりと自分の足で立っている。長いこと主人に突き立っていたという剣も、やっとその主人の手によって拾い上げられ、鞘に納められた。金属が擦れる微かな音が、ティルダに教えてくれた。
(良かった……!)
それでは改めて挨拶をしなくては、と。ティルダは白く霜の降りた床に手をつく──けれど、床に手形が幾つも残るだけで、やはり身体は彼女の自由にならないままだ。
(薬をもらえれば、立てるんだけど……)
生きていた頃だったら、従者のカイが素早く駆け寄って薬湯を呑ませてくれた。そうすると、失った魔力が瞬時に補われたかのように身体に力が満ちてくるものなのだけど。カイはもちろんまだ元気なのだろうし、そもそもコキュートスに堕ちてからというもの、ティルダは何も飲み食いしていない。座り込むような格好で、さてどうしよう、と思っていると──手甲に包まれた手が、優しく彼女を助け起こしてくれた。
「──見事な技でした。正直に申し上げて疑い侮る思いもあったのをお許しください」
「あ……あの、すみません……! お見苦しいところを──」
シルヴェリオに支えられて、穏やかに微笑む薄青の目に見下ろされて。ティルダは慌てて足に力を込めようとした。重傷を癒したばかりだというのに彼の力は強くて、腕の中から逃がしてくれなかったけれど。
「聖女の呼び名が何ら不遜にはならない方なのですね。魔力を惜しみなく注いでくださったのは武骨な身にも分かりました。無理をなさらないように」
「いえ、普段はこんなことはない……はずなんですけど……」
術を使うたびに倒れていては聖女の役目は務まらない。死んだからか、薬がないとこの有り様なのか、とにかく恥ずかしい限りだというのに──なのに、シルヴェリオはティルダの手を取ると恭しく口づけた。
「コキュートスに奇跡をもたらす聖女殿──貴女のために微力を尽くすことにいたしましょう」
「ひゃ──」
こんな、姫君にされるような扱いは初めてで、ティルダは変な声を上げてしまう。絶句して固まってしまった彼女の顔がおかしかったのだろうか、シェオルの尻尾が機嫌よく振られているのが見えた。




