21.贖罪の形
「わ、私……?」
「ほう、このお嬢さんが?」
シェオルの言葉に、ティルダとシルヴェリオの口から同時に異なる響きの声が漏れた。ティルダの声には戸惑いが、シルヴェリオのそれには微かな驚きと興味が滲んでいる。それに勢いを得たのか、シェオルは後ろ脚で立ち上がり、シルヴェリオが腰を下ろす寝台に前脚を載せた。小首を傾げて彼を見上げる様子は、忠実な猟犬が主人にじゃれかかっているように見えなくもない。もちろん、鎧姿の将軍の腹に深々と突き刺さった剣を無視すれば、だけど。
「何百年ぶりでしょうか、ちょっと上に出てみませんか? なんとこの嘆きの氷原に花が咲いているのですよ」
「まさか……いや、そもそも私は──」
「このティルダはどういう訳かここに堕とされた聖女です。彼女の力で氷の大地にも緑が芽吹き、それによって貴方を閉じ込めた氷も解けたという訳です」
散歩をねだる犬のように、シェオルは尻尾を振りながら朗らかに誘う。それに対してシルヴェリオが表情を翳らせたのは、自分は罪人だから、とかそういうようなことだろう。
ティルダにも分かるのだから、付き合いが長いというシェオルにはなおさら自明のことだろうに。なのに、彼(彼女?)は強引だった。シルヴェリオの弱々しい声──腹の傷を思えば声が出せること自体が不思議だけど──を遮って一方的に説明する。ちらりとティルダを振り返った瞬間に、銀色の目は安心しなさい、とでも言うかのように微笑んでいた。
「なので、貴方にはティルダに借りがあると思うのですが」
「シェ、シェオルさん……?」
一歩下がったところではらはらと成り行きを窺うティルダには、何が安心なのか、シェオルが何をしようとしているのかさっぱり分からないままだ。罪人の身で勝手に地獄に花を咲かせたなんて、誇らしげに語れることではないと思う。自らへの罰を切望しているらしいシルヴェリオならなおのこと、不遜な真似だと叱責されてしまうのでは、と思ったのだけど──
「なるほど……確かに私は安らかな静寂など許されない身。起こしてもらえた──再び贖罪の機会を得られたことには、確かに感謝しなければ」
「でしょう!」
(ええ……そうなるの……?)
ティルダの予想に反してシルヴェリオはあっさり頷き、シェオルは嬉しそうにいっそう激しく尻尾を振った。無邪気で愛らしい姿を隠れ蓑に、どうも言葉巧みに言い包めているような気がしてならないのだけど、この場で罪がないのはシェオルだけらしいのだからますますよく分からない。しかも、シェオルの巧み過ぎる話術──なのか何なのか──を弄するのはティルダのため、なのだろう。だからティルダは何も言えないまま、シェオルの尻尾が動くのを見つめるしかない。
「貴方以外にも罪人が目覚め始めているのですよ。コキュートスに堕ちるのがどんな連中なのかはご存じでしょう? か弱い乙女を守るのは貴方の贖罪にもなるでしょう、将軍」
「守るために剣を振るえるなど、いったいいつ以来か──相手が罪人であれば許される、か……? だが──」
シルヴェリオがそう呟いた瞬間、独房の中の気温が一段と下がった気がした。同時に漂う不穏な気配に、シェオルの尻尾もぴたりと止まる。
「折が良くなかったな。この傷ではものの役には立つまい。聖女殿のご無事を、ここから祈るしかないようだ」
腹の傷に目を落として俯くシルヴェリオは、すでに氷の彫刻のように微動だにしない。ただ、彼の目の奥では熱く強い意思が燃えているのが見て取れる。なんとしても地下牢で苦しみ続けるのだ、という。
(この方は、最初からそのつもりだったのね……)
彼は、シェオルの言葉に心を動かされてなどいなかったのだ。久しぶりに会った昔馴染みに、少し話を合わせてやった、程度のことで。だって、コキュートスで罪人の傷が癒えるのにどれだけかかるかは知らないけれど、そう簡単に塞がるような浅い傷でないのは明らかだ。動けるようになった途端に、この人はまた自らを傷つけて地下牢に縫い留めるのが容易に想像できる。きっとシェオルだって、シルヴェリオのそんな姿を何度も見て来たのだ。
アテが外れたのを悔しがるように、シェオルの尻尾が独房の氷の床をぴしゃりと叩いた。
「まったく貴方は思い切りが良いことで……急いで来たつもりだというのに、もういつものその格好になっていたとは」
「騎士のような晴れがましい役はもはや私には相応しくない。貴殿の純白の毛皮ならまた違うだろうが、氷大狼殿」
「引きこもって自分の殻に閉じこもるのは、私の主だけで十分だというのに。──さてティルダ、申し訳ないことになってしまいましたねえ」
シェオルは白い巨体を翻し、ティルダの足もとにすり寄って来た。言葉と裏腹にまったく申し訳なさそうではない口調と、もの言いたげな目に、ティルダの頭に閃くことがある。彼女は一歩進み出て──剣と鎖で囚われた将軍の前に跪いた。
「あの……傷さえ治れば、来ていただけるのですよね」
「何……?」
シェオルが彼女に何を期待しているのか、分かった気がしたのだ。見ていられない、と。孤独な玉座で物思いに耽るジュデッカを指してシェオルは言ったことがある。それなら、こんな穏やかな人が地下牢で苦しむのだって見ていられない。
この人が頑として苦痛に囚われたままでいようとするなら、救ってあげたい。ティルダならそれができるかもしれない。聖女ならその力を見せてみろ……そういうことではないだろうか。
(私にできることがあるなら……!)
傷さえなければ、と。シルヴェリオは無理難題のつもりで言ったのだろう。でも、彼はティルダの力をまだ知らない。リヴァイアサンを宥めるために大きな術を使った後だけど、まだ、できるはずだ。覚悟を決めるため、ティルダは深く息を吸って、吐き──そして言った。
「私に、治させてくださいますか……!?」




