2.死因?
「わ、私……もう、死んで……?」
ティルダが喘ぐと、身体が揺れるのにつれて彼女の視界も揺らいだ。自然、ティルダがいる場所を、もう少しはっきりと見ることができる。既に把握していた、見上げるほどの天井の高さや床の細工の精緻さ美しさ。それに加えて、広さも王宮の謁見の間や大聖堂の礼拝の間に引けを取らなかった。ただ、ジュデッカと名乗った美しい魔王とティルダのほかには誰もいないのが不吉だった。着飾った貴族が居並ぶのでもなく、祈りを捧げる民が集うのでもなく。でも、確かにどこもかしこも凍り付いてはいても、この壮麗な城が地獄と言われても受け入れがたい。
「いいえ、ここが地獄だなんて信じられませんわ」
「惚けようとしても無駄だ。俺は罪人の量刑には関わらないからな。この氷の地獄に堕ちた以上は相応の罪があったのだろうよ」
ふるふると首を振るティルダに、ジュデッカは冷たく嗤うとマントを翻した。凍った床を靴で鳴らして彼が向かうのは、広間のほかの部分と同様に霜が降りた玉座だった。白い石でできた、巨大な狼の彫刻が守るように玉座の脇にうずくまっている。玉座に腰を下ろして脚を組み、狼の頭に手を載せる──そう、美しくも傲慢なこの人も、氷の魔王と呼ぶのがこの上なく似合うと思うけれど。でも、ティルダにも言い分がある。
「だって、身体がとても楽なのですもの! 眠くも怠くもないし、気分もすっきりとしていますし。疲れた感じも全然ありません。……ここが、地獄だなんて……」
「……何を言っている?」
「ほら、こんなに軽やかに回れるのに!」
怪訝そうに眉を顰めるジュデッカは信じてくれないようだった。立ち上がり、ワンピースの裾を摘まんでくるくる回るティルダを、気味の悪いものを見る目で眺めていて。これだけ激しく動いても目眩もしないし倒れることもしないのが、彼女にとってどれほど珍しくて嬉しいことか、彼は分かってくれないのだ。こんな爽やかな気分は天国にいるとしか思えないのに!
(あとは……逆立ちでもして見せれば良いかしら?)
でも、それでは下着をさらしてしまう。それに、ティルダが普段はそんなことはできないという証明にはならないだろう。
「おかしな罪人が堕ちてきたものだな……!」
困り果てて佇むティルダに、ジュデッカは舌打ちしながら再び立ち上がった。彼が長い脚を大股に踏み出すと、ふたりの間の距離は瞬く間にゼロになる。ティルダがひとつ呼吸をする間に、ジュデッカは彼女の胸ぐらを掴んでいた。ティルダの爪先が宙に浮き、ジュデッカの鋭い氷の眼差しが目の前に迫る。
「ここに堕ちるのは己の罪を承知したうえで俺に自慢するようなどうしようもない連中ばかりだ。見た目は可愛らしい小娘、お前は一体何をしでかしてここに来た?」
「私、は……」
神の手による彫刻のような整った顔を間近に見ても、胸元を掴まれて持ち上げられても、息が乱れることはない。苦しさもなく声を紡ぐことだってできる。
(やっぱり……私、生きてはいないの……?)
普通に生きているならあり得ない事態を自覚して、ティルダは血の気が引く思いを味わった。もちろん気分だけで、体温の変化も血の巡りもまったく感じないのだけど。でも、ジュデッカの問いは重要なことだと思った。彼女が死んだとしたら、なぜなのか。生前の最後の瞬間に、彼女は何をしていたのか──ティルダは懸命に記憶の糸を辿ろうとした。
(私……私、死ぬわけにはいかないのに!)
焦る中でも、ジュデッカの問いは重要なことだと思った。彼女が死んだとしたら、なぜなのか。生前の最後の瞬間に、彼女は何をしていたのか──ティルダは懸命に記憶の糸を辿ろうとした。
「私は……エステルクルーナという国で聖女と呼ばれていました。人の身には珍しいほどの魔力だとお褒めいただいて……だから、人々のために尽くさなくては、と……」
「神に等しく崇められて驕ったか? 恋に溺れて務めを疎かにしたか? それとも財貨や贅沢に惹かれて堕落したか──そのために断罪されたのか?」
ジュデッカが皮肉っぽく尋ねたようなことはなかった、はずだ。ティルダはいつも自らを省みずに聖女の使命を果たそうとしていた。驕るなんてとんでもない、彼女が手を差し伸べるべき苦しみや悲しみは地上に溢れていて、だから休んでいる暇など許されないと言われていた。食べるのも飲むのも眠るのも、そんなことをしている場合ではないという罪悪感や焦燥感と隣り合わせで。そう──彼女には死んでいる暇などないのだ。でも、まったく休息を取らないという訳にもいかなくて。
「いえ……昨日もカイ──従者に薬湯をもらって寝たはずで」
少しは寝ないと、と訴える、同じ年頃の少年の姿が目に蘇る。彼の困ったような顔も、薬湯を入れた椀の温かさも覚えているのに。目を閉じた後の記憶が彼女にはさっぱり思い出せなかった。
「小さな聖女様」
「きゃ!?」
と、不意に知らない声が響いて、ティルダは小さく悲鳴を上げた。誰もいなかったはずなのに、と広間を見渡すと──玉座を守っていた狼の彫刻が、優雅に立ち上がるところだった。ふるりと身体を震わせると、白い毛皮を彩って細かな煌めきが宙に舞う。石の彫刻に見えたのは、全身を霜と氷に覆われていた上に微動だにしなかったから、らしい。
「シェオル。余計な口を挟むな」
「ですが我が君、問い詰めるばかりでは何も分かりませんでしょう」
不機嫌そうに唸るジュデッカに、シェオルと呼ばれた狼は穏やかに答えた。口を開けてもいないのにどうやって喋ったかは分からないけれど。
「貴女の死因……もしや、過労死、では?」
馬のように乗れるのではないかというくらい巨大な狼が霜を踏む、ぽふぽふとという音が近づいて来る。ティルダなんてひと呑みにできそうな──でも、彼(彼女?)は牙を剥くこともなく首を傾げた。