19.地獄での挨拶?
ティルダは地下牢という場所を知らない。多分。死んだ時にぼやけてしまった記憶に含まれていなければ。
前線に近い領主の館とか要塞とか、ものものしい雰囲気の場所に滞在したこともあったけれど、捕虜に接するのは彼女の役目ではなかったから。聖女の力は味方の兵や民のために使うものであって、彼女の存在は敵に知られてはいけないと言われていた。
でも、地下へと続く凍てついた階段を、足を滑らせないように慎重にくだりながら。ティルダはどこか懐かしい感慨に浸っていた。
「私が暮らしていたところと少し似ていますね……」
「貴女は聖女だったのでは?」
シェオルの耳は実に表情豊かで、ティルダのほうを向く素早い動きで意外と疑問を表した。ぴんと立つ三角の耳に触れたいという衝動を抑えながら、ティルダは地下だというのに眩いほど白い周囲を見渡した。
「ええ、でも、贅沢をしてはならないと言われていましたし。ここは、思っていたよりも綺麗だから」
嘆きの氷原の酷寒の中では、ネズミはもちろん、地下牢にいそうな不気味な虫の類もまったく見えない。この氷の地獄のほかの場所と同様に、ひたすら厚い霜に覆われて、生き物の気配も音もない──だからいっそ清潔な印象があった。
「部屋に戻ると寝るだけだったので、こんな感じで余計な家具もなかったんですよね」
狭い通路の左右に並んだ独房を見ると、自然とティルダの頬に笑みが浮かぶ。寝台だけが備えられた空間は、彼女の生前の寝室にそっくりだった。要塞などで兵に混じって寝起きする日々だと、若い女が安全に過ごせる空間はそれくらいしかないのだそうだった。
もちろん、兵たちが英気を養うことが最優先なのだろうから、ティルダとしてはなんら不満はなかった。処方してもらう薬のおかげで、硬い寝床だから眠れない、なんてこともなかったし。目を閉じて、そして開けたら夜が明けている──そんな日々の繰り返しだったのだ。
「……そうだったのですか」
「これくらい小さな部屋のほうが落ち着いたんですけど。今からでも、『引っ越し』しても良いですか?」
「せっかく慣れてきたところでしょう。移らなくても良いと思いますよ」
罪人の身には地下牢の方が相応しいのでは、と思ったのに。シェオルは賛成しかねる、といった調子でゆっくりと尻尾を左右に振った。喜びで尻尾を振るのとはまるで速さが違う。彼(彼女?)は尻尾も雄弁だった。
ティルダの二の腕あたりを掠めた柔らかい毛の感触が少しくすぐったくて優しくて、でも、とかだって、という言葉は言えなくなってしまう。
「──すぐ、そこですよ」
「はい。……とても、静かですね……?」
氷から解放された罪人たちが動き始めている、と聞いたのに、城の中では今のところ人の気配はしない。独房もみな空で、使われたことがあったとしてもその痕跡は氷の下に深く凍り付いていそうだった。
ティルダの呟きに、シェオルはぴんと尻尾を立てながら答える。
「目覚めた罪人がいたとしても、好き好んで地下牢に篭る者はめったにいないということですよ」
「……はい」
だから地下牢を住処にしようなどという発想は捨てろ、と。どこか言い聞かせるような調子のシェオルは、言外にそう伝えようとしているようだった。神妙に頷きながら、ティルダは好き好んで地下牢に篭っているという罪人に思いを巡らせる。
(でも、少なくともひとりはいるのよね? 《背信者》シルヴェリオ……さん、は……?)
物々しい二つ名には思わず構えてしまいそうになるけれど、コキュートスに堕ちた上に、さらに自らを牢に閉じ込めようという人だから、顔を合わせるなり襲われるようなことはないのではないか、とも思える。シェオルも頼りになりそうな相手だと言っていたことだし。地下牢という恐ろしげな場所に足を踏み入れることへの緊張にも慣れてしまうと、次に気になるのはこれからあう相手のこと。地獄で罪人同士が初めて顔を合わせる時には、いったいどのように挨拶すれば良いのだろう。
(はじめまして、と名前を名乗って……。でも、良いお天気ですね、とかは言えないし。何をしたのかとか……聞いたら失礼なのかしら?)
ご機嫌麗しく、とか家族のこととか季節のこととか。思えば、普通なら無難なはずの挨拶はほとんど地獄では使えないのではないだろうか。
「あの、シェオルさ──」
「お久し振りですね、将軍。気分はいかがですか」
今さらながらシェオルに心得を聞いておかなければ、と思い立ったけれど──ティルダが尋ねるよりも早く、大きな狼の白い尻尾はある独房に吸い込まれていっていた。ティルダの懸念がまったく無用なものだったかのような、ごく気軽な挨拶と共に。
(将軍? 《調停者》のシルヴェリオも将軍だったはずだけど……)
ティルダは内心で首を傾げるけれど、当の本人を目の前にして聞けることではないのは彼女にも分かる。だからシェオルの尻尾を追って、檻状の扉が開きっぱなしになっている独房に入る。同時に、ごく穏やかかつ丁寧な、男性の低い声が耳に届く。
「おや、氷大狼殿。ごきげんよう、相変わらずの見事な毛並みだ」
(良かった、やっぱり優しそうな人……!)
ほっとすると、自然と頬が緩むのが分かった。にこやかな笑顔で最初の挨拶ができそうだ、と。ティルダは息を吸い──
「きゃ、きゃあああぁああ!?」
独房の中にいたその人の姿を見た瞬間に、その息を悲鳴として吐き出した。




