18.宮殿の変化
行きはシェオルの脚で駆け抜けた荒野を、帰りはティルダの足でゆっくりと歩いて戻る。
逆巻く渦の大水蛇が暴れたのはジュデッカの城の目と鼻先だったけれど、そんな短い距離を歩くだけでも嘆きの氷原の何もなさはティルダの胸を凍らせるようだった。
「本当に、寒いところなのですね……」
「そういう地獄ですからね」
リヴァイアサンが鎮まった今は、空にも大地にも動くものはひとつもなく、微かな風の音とひとりと一頭の足音、それにティルダの首と手足に絡んだ鎖のしゃらしゃらという音以外は何も聞こえない。もしもシェオルさえいなくて、ひとりでこの荒野を宛てもなくさ迷わなければならないとしたら──絶望がすぐに心を凍らせてしまうことは間違いない。
(罪人に対しては良い罰になるのかもしれないけど……)
果てしない荒野を見渡すと、恐怖と同時にまた疑問も湧いてくる。罪人だけではなくどうしてコキュートスの番人であるジュデッカもこの酷寒に甘んじているのか、と。自分の居どころだけでも温かく居心地良く整えれば良さそうなものなのに、シェオルの口ぶりだとジュデッカはそんなことに興味ないようだ。
恐ろしい人(?)だとは思うし、姿を見るたびにティルダを怯えさせるようなことを言う人でもあるけれど。でも、気が遠くなるほどの長い年月を、シェオルとふたり(?)だけで過ごしていることを思うと──罪人には許されない考え方なのかもしれないけれど、可哀想だ、と思ってしまう。
「あの……ジュデッカ様にお花を届けたりしたら、ご迷惑でしょうか」
ちょうど城門に続く氷の段に足をかけたところで、ティルダはふと呟いた。彼女が使っている部屋は、寝て起きるごとに花が増えて明るく暖かくなっているのに、コキュートスの主たる魔王の玉座の間があんな寒々しいままだなんて。なんだか、申し訳ないような気がしたのだ。
「なんと、あの態度を見てそのようなお気遣いをしてくださるとは。やはり貴女は優しい方だ」
テンポよく四本の脚を踏み出しながら、シェオルは器用に垂直方向に跳ねた。ぴんと立った耳と尻尾とあわせて、驚きを表現したらしい。しかもただの思い付きに分不相応としか思えない称賛が返ってきてしまって居心地が悪い。
「そんな……あ、罪人が媚びているとか、思われてしまうかも……?」
「あの捻くれた方ならありそうなことです」
シェオルが反応しづらいことを言うのとほぼ同時に、城の門が例によってひとりでに開いた。ジュデッカの口ぶりからして、罪人にも自由に城の出入りをさせているようだから、無用心さが勝手に心配になるほどだ。多分、本来なら城の外だろうと中だろうとコキュートスの冷気の責め苦は容赦しないからなのだろうけど。
ティルダとシェオルが通った後で、門はまた勝手に閉じたけれど、壁に囲まれているからといって寒さが和らいだとはまったく感じないのだから。
城内に入ると、シェオルが少し前に出てティルダを先導する形になった。これから向かうという地下牢も、彼女が元々いた部屋も、彼女にはどこをどう曲がれば辿り着けるか分からないのだ。白い霜のヴェールをまとったような城の内部は、装飾もひと目では区別がつきづらい。シェオルの案内がなければ、ティルダはとうにどこかの片隅で氷の彫刻となっていただろう。というか、城内を飾っているように見える彫刻の幾らかは、罪人の成れの果てなのかもしれない。
(シェオルだって、最初は彫刻だと思っていたし……)
何気なく踏みつけて通り過ぎる床の氷も、罪人の涙が凍り付いたものなのかもしれない。そう思うと、鎖が立てる涼やかな音がいっそう冷たく感じられてティルダはぎゅっとシェオルの白い毛を掴んだ。非力なティルダがしがみついても、狼の足取りには何ら影響はないのだろう。シェオルは爪が氷を噛む音を響かせながら、ティルダが踏み入れたことがない──多分──道筋を選びながら、あっさりと続ける。
「でも、コキュートスで主が知らないことはないと言ったでしょう? 城の中のことならなおのこと、あの方はすべてご存じなのですよ」
「はい。あの……ええと、つまり、これも、すべて……?」
廊下の曲がり方とか、天井やらの意匠や装飾から、多分ティルダが初めて入る一角だろうと思うのだ。なのに、石の隙間や床と壁の境から瑞々しい茎が生え、中には蕾や花をつけているものもあるのを見て取ってティルダは頭を抱えたくなった。風のように駆けるシェオルの背で、氷の世界に不釣り合いな彩を見て。あれ、と思ったのは勘違いではなかったらしい。
(私、こんなになっているなんて知らなかったから……! 本当にジュデッカは怒ってないの……?)
不安に足取りが重くなったティルダを引っ張るように、シェオルは機嫌よく尻尾を振りながら歩いている。
「ええ。この花はよく根を伸ばすのですよ。主も感知しているでしょうし、何なら玉座の間にもひとつかふたつ、咲いているかもしれません」
「この花のことをご存じなのですか? そういえば、種はずっと眠っていたのかしら……?」
まるで花の生態を知っているようなシェオルの口ぶりに、ティルダは思わず首を捻る。思えば、芽が出て花が咲く以上は種があるはずで。でも、生命の気配がまったく感じられないコキュートスでは春になることもあり得ないはずで。
(ここは……最初からこんな冷たいところだったの? でも、氷が溶ければあんなに綺麗な水も流れるようになったし……?)
もしかしたら、氷と厳しすぎる冷気さえなければ、このコキュートスはとても豊かな土地なのかもしれない。そんな場所を罪人の牢獄にしてしまったのだとしたら──
(ううん……神様のご意思なのだろうから。おかしいはずはない、けど……)
ティルダの疑問に、シェオルは尻尾のひと振りだけで答えた。分からない、なのか答えられない、なのか。その仕草の意味するところは分からない。
「……だから、主もすでにティルダからの花を受け取っているようなもの。改めてのお気遣いは不要でしょう。──さあ、ここから降りますよ」
そして地下へと続く階段を鼻先で示されると、ティルダもそれ以上問い詰めることはできなかった。結局、彼女もコキュートスに堕ちた罪人なのだから。




