17.地下牢へ
「地下牢……?」
不穏な単語を聞きとがめて、ティルダは鸚鵡返しにそれを繰り返した。
(お城だから、そんな場所もある、のかしら……?)
氷の地獄の魔王の居城なら、むしろ地下牢はあって当然だろう。ティルダが探索できたのはジュデッカの城のごく一部だけ、冷気がいっそう厳しそうな地下の部分にはまだ足を踏み入れていないことでもあるし。でも、シェオルが突然何を言い出したのかはよく分からない。
と、きょとんと首を傾げたティルダの耳に、盛大な水の音が届く。リヴァイアサンが、できたての川に飛び込んだ音だ。ティルダの祈りで我に返ったというか、冷静さを取り戻したというか──もとは水の怪物だけに、流れる水があるのは嬉しいのかもしれない。
霜と氷に覆われていたことで本来の色が見えなかったのは、リヴァイアサンもシェオルと同様らしかった。長大な身体をくねらせて泳ぐリヴァイアサンの、鋼のような色の鱗は水を通してみるとさっき見た時よりも艶々として銀色に近く、いっそ綺麗かもしれない。のびのびと自由に泳ぐことができて良かったのか、地獄に堕ちた怪物に喜びを与えてしまって良くなかったのか、ティルダにはまだよく分からない。
リヴァイアサンが跳ね上げる水飛沫を、身体を振るって払い落としてからシェオルは丁寧に語り始めた。
「罪人が目覚め始めたと言いましたでしょう」
「はい」
「コキュートスでどれほど凍らず目覚めていられるかは貴女次第、とも言いましたね?」
「はい」
記憶を確かめるように問われて、ひとつひとつ生真面目に頷きながら──ティルダの胸にじわりと黒い不安がよぎる。シェオルは、より正確にはティルダの心と魂の強さ次第だとシェオルは言っていたと思う。もしもその理屈が罪人が溶け出す(?)時にも通じるとしたら。
背中に冷や汗が流れるような気分で──実際はそんなことはない、死んでいるから──恐る恐る、ティルダはつぶらな瞳の白狼に尋ねた。
「あの……罪を悔い改めないような罪人の方が凍りにくい、って……」
「まさしく」
愛らしいもふもふとした姿とは裏腹に、シェオルの面持ちは思慮深く知性に満ちていた。だから──彼(彼女?)が語ることは非常に信憑性があった。
「楽園の花でいくらか寒さが緩んだとはいえ、罪人のことごとくが直ちに目覚める訳ではありません。逆巻く渦の大水蛇がいち早く動き出したことからも分かる通り、大罪を犯した者ほど目覚めやすいのだと思います」
「あ、あの……私のせい、ですよね……」
うなだれて、また謝罪の言葉を口にしようとしたティルダに、シェオルは優しく首を振った。たてがみを思わせる首周りのふっさりとした毛が、空気をはらんで一瞬だけ狼の姿を膨らませる。
「主や私が脅かされることなどありませんからご心配なく。──ただ、貴女の身が心配ですから」
「地下牢に篭るのですか……?」
「いいえ」
シェオルはまた首を振った。鼻先を少し上向けて、何かの臭いを嗅ぐ仕草をする。コキュートスの寒風に何が混ざっていたのか──三角の耳をぴんと立てて、シェオルは大きく頷いた。
「先ほど、頼りになりそうな罪人の臭いがしましたので。氷の荒野で好きに過ごせと言われたのに頷かず、自らに相応しい場所だと勝手に地下牢に居座った男の臭いです」
「まあ……」
ティルダの溜息には、さまざまな感情がこもっていた。コキュートスに堕ちた罪人でもそんなに潔い人がいるのか、という驚き。罪を悔いない者のほうが目覚めやすかったのでは、というちらりとした疑問。シェオルの鋭い嗅覚を称賛する思いもあるし──何より、その罪人はどういう人なのか、という好奇心が、恐怖や不安を押しのけて頭をもたげてきている。
「その方は、私が知っていそうな人でしょうか」
天の玉燕──ジュデッカが漏らした名前は、ティルダさえも知っている傾国の美女の名前だった。
幾人もの王を手玉に取って贅沢の限りを尽くし、最後は実の息子に討たれたという女性。そのほかにも、時代や場所を問わず悪名ゆえによく知られている人物は多いもので。大方は悲惨なことになる彼ら彼女らの末路を例に引いて、教師や聖職者は説教をするものだ。だからティルダにとってもある意味馴染みのある人たちなのかもしれない。
(男の人なら……大盗賊のルクマーンとか、虐殺者イグナーツとか……)
その人たちと対峙するなんて、想像するだけでも震えあがりそうになるのだけど。でも、名前を先に知っておけば心構えもできるかもしれない。期待を込めて尋ねたティルダに、シェオルは小さく首を傾げた。
「さて、地上で何がどのように語られているのか、私や主には罪人を通してしか知る術がないのですが──」
その相手の臭いをまた確かめたのだろうか、シェオルはすん、と軽く鼻を鳴らしてからティルダに答える。
「その男は、主には《背信者》のシルヴェリオと名乗っていましたね」
「うーん……残念……なのかは分からないのですけど、知らない方のようです」
「そうですか。まあ、とりあえず挨拶がてら会ってみるのが良いでしょう」
「そうですね」
立ち上がったシェオルと並んで、ティルダは凍った荒野を歩き始めた。ジュデッカの城は、氷で白く覆われていてもなお美しく壮麗な建築なのが、外から見ると改めて分かる。その中に、歴史に名を遺した罪人たちが蠢いているのだと思うと帰るのが少し怖くもあるけれど。それに、ティルダの胸にはまだ疑問が引っかかっている。
(シルヴェリオといえば長く続いた戦争を止めた名将だけど……)
調停者シルヴェリオ、なら彼女だって知っていた。でも、同じ名前は長い歴史を通せばいくらでも出てくるもので、これから会うのはきっとまた違う人なのだろう。




