15.溶け出す氷
「まったく、何なんだ、お前は……!」
ジュデッカが鎖を緩めても、リヴァイアサンは大人しく大地に寝そべったままだった。嘆きの氷原の囚人には変わりないということなのだろう、長大な胴には鎖がぐるぐると絡みついたままだったけれど。
いったいどういう仕組みなのか、ジュデッカが軽く溜息を吐くと鎖は元の状態に戻っていた。果てしなく伸びて自在に動き、リヴァイアサンの攻撃をごく軽くいなしていたとは思えない。軍服めいた彼の出で立ちに映える少し変わった装飾にしか、もう見えない。
「今の術は、本来は地脈や水脈に干渉するものだな? 膨大な魔力があれば不可能ではないが、人が使うには不遜な技だ」
「か弱き人間の創意工夫は、称賛すべきかと思いますが」
リヴァイアサンとティルダとを交互に見て眉を顰めるジュデッカと対照的に、シェオルはちょこんと座った姿勢のままで主を見上げ、さらりと述べた。それぞれ黒と白の色彩を纏うことといい、この主従は何もかも対照的に思える。
「別に咎めようということではない。ただの感想だ。それに……今の技でどのような罪を犯したのか、と思っただけだ」
「…………」
シェオルに対しては砕けた口調と態度のジュデッカも、ティルダに対してはやはり容赦ない。それに──ティルダは、自分が地獄に堕ちた理由をまだ思い出せていない。切れ切れ浮かぶ声や表情はあるけれど、それらがどういう意味を持つのかは上手く結びつかないままだ。
──君は素晴らしい、ティルダ!
──これだけの魔力があれば、机上の仮説に過ぎなかった術式も──
──すぐにでも聖女としてお披露目しよう。
──これで我が国の歴史が変わる……!
幼い彼女を覗き込む人々はみな笑顔で、ティルダの胸は喜びと誇らしさで満たされたいたような気がする。彼女が呼び起こせる記憶の限りでも、聖女の力を私利私欲のために使ったことはない……と、思う。でも、人に非ざる存在らしいジュデッカが眉を顰めるなら、それこそが彼女の罪なのだろうか。
「傲慢は……地獄に堕ちる理由になるでしょうか」
「大罪ではあるが、コキュートスに相応しい最悪の罪ではないな」
俯いたティルダの視界を、ジュデッカの影が通り過ぎた。彼女の呟きには取り合わず、ごろごろと寛ぎ始めた(?)リヴァイアサンの横を抜けて──しばらく歩いたところで、彼は足を止めたようだった。
「地上での過ぎたことより、コキュートスに穴を開けてくれたことをどうしてくれようかな」
「穴……?」
「あるいは川を通してくれた、か? 氷の地獄に流れる水とはまったくどういうことか……!」
リヴァイアサンの岩のような鱗を間近に見て、あらためてその巨大さに足が震える思いをしながら、ティルダはジュデッカの背を追った。
ジュデッカが言うところの穴、はすぐに分かった。落ち着いてみれば、コキュートスは見渡す限り平らな氷の平原だった。囚人が寒さから逃れようとさ迷ったとしても、どこにも隠れ家がないのがひと目で分かる。それも責め苦の一環なのだろう。……だから、暴れてのたうつリヴァイアサンが穿ったであろう大地の亀裂は、新雪の上の無粋な足跡のように、白い世界を損なう傷跡のように見えてしまう。
そして川、の方はと言うと──
「これは……あの、私のせい、でしょうか……?」
ジュデッカに並び、亀裂の底を覗き込んでティルダは喘いだ。砕けた氷が刺々しく剥き出しになっているだろうと予想していたのに、眼下に広がる光景はまったく違った。清らかな水が湧き出し、裂け目を満たしていたのだ。リヴァイアサンの巨体と怪力ゆえにか、亀裂は氷原に対して細長く、確かに川のようでもある。氷の亀裂を満たす水は、飛び込めば一瞬で心臓が止まりそうな──ティルダの心臓はもう止まっているけど──冷たさだろうと見るだけで分かる。でも、水は氷よりも温いものだろう。コキュートスにあるまじき暖かそうな光景なのだ。
「花が咲いたことで氷が緩み、リヴァイアサンが目覚めた。地中から這い出る時の身震いで地が割れ、溶けた氷が流れ込んで──これだ。まあお前のせいだろうな」
「あの……わ、私……」
こんな有り様、ジュデッカは怒るに決まっている。氷漬けにされることを予感してティルダが舌を凍らせる──と、彼女の足にぽふ、と柔らかい感触が触れた。シェオルが、身体を擦りつけてきたのだ。彼女を守るように温めるように寄り添いながら、白い狼は取り成すように主に首を傾げてみせた。
「とはいえ、嘆きの氷原が不毛の荒野であることには変わりないでしょう。多少の変化は、主も楽しんでいらっしゃるのでは?」
「ふん。まあ、な。どうせ一時溶けたところで、すぐにまた凍り付くだろう。俺の役目は治水ではないのでな」
ジュデッカの言葉は、シェオルへの皮肉だったのかもしれない。以前、花の手入れは役目ではないだろう、と言われたことへの。言おうとしていたことを先回りされたシェオルは意外そうに尻尾を振って氷の地面を掃いた。ふさふさとした尻尾が触れるくすぐったさに、ティルダはやっと我に返る。罰せられるとばかり思ったのに──ジュデッカは、驚くべき厚意を彼女に、罪人に示してくれた。
「……ありがとうございます……!」
「喜ぶのはまだ早いだろうな」
両手を胸の前で組んで、ティルダは声を弾ませた。さらに跪いて謝意を述べようとした彼女を、ジュデッカの冷ややかな目と笑みが止める。
「のんびりと花を眺めるだけ、という訳にはいかなくなったぞ。俺は、お前により多くの苦しみを与えようとしているのだぞ?」




