14.聖女の本領
「小娘風情が……何ができるか、見せてみろ」
「は、はい。ありがとうございます……!」
ジュデッカは、驚いたことにティルダの申し出に頷いてくれた。夜の色の目に、ちらりと好奇心が煌めいた気がした。ほんの一瞬だけ、彼女の失敗を待ち望むかのような嘲りの色に、すぐに塗り潰されてしまったけれど。
ジュデッカの目に促されて、ティルダは一歩、二歩と拘束されたリヴァイアサンへ歩を進めた。ただひとり、武器も防具もなく怪物に近付くのは、怖かった。彼女の姿を認めて、鋭い牙が噛み鳴らされ、顎の奥から響く唸り声がティルダの肌をびりびりと震わせる。怯えに足が鈍くなると、背後でジュデッカが促すように鎖をじゃらりと鳴らした。言ったからにはやり遂げろ、と。彼の立場なら言いたくなって当然だろう。
(私……どうしてあんなこと言っちゃったんだろう……?)
一歩ずつ確実に怪物に近付きながら、ティルダは自分の心の中を覗こうとした。
リヴァイアサンを哀れんだのは、本当だ。氷に閉じ込められる刑の怖さを知っているからこそ、目覚めたばかりでまた封じられるのが可哀想、なんて思ってしまったのだ。
(同じ罪人同士だから? 魔王様ともシェオルとも違う、仲間だと思った?)
酷寒の嘆きの氷原で寄り添える相手が欲しい、と浅ましく思ってしまったのかもしれない。たとえ相手が人の形をしていなくて、言葉が通じない相手だとしても。氷の大地に縫い留められたリヴァイアサンの目は、ティルダが首が痛くなるくらい見上げれば目が合うかも、くらいのところにある。もともと血のように赤い目は、怒りによってますます激しい色に燃え上がり、意思が通じる余地などないのでは、と思ってしまうけれど。
でも──それでも、とティルダは思うのだ。
(コキュートスでも花が咲いたんだから……何かが変わるのかもしれない。私にも、変えられるのかも……?)
生きていたころのティルダは、その場限りの癒しや祝福を与えるだけで、人の世の争いや貧しさを拭い去ることはできなかった……と、思う。なのに聖女と崇められることへの虚しさや申し訳なさは、もしかしたらコキュートスの寒さよりも強く鋭く彼女の心を蝕んでいたのかもしれない。
コキュートスに咲いた花は、美しくて可憐で温かかった。新たな争いの種とはならず、ただそこにあるだけの、ティルダの力のごくささやかな成果は愛しく誇らしかった。大罪を負った身だとしても、ティルダは堕ちてからの方が心安らかに過ごすことができていた。だから──ほかの罪人にもそうであって欲しいとでも思ってしまった?
(なんて傲慢で恥知らずな考えかしら……!)
罪人の癖に、罪の償い方や罰の在り方を決めようとするなんて。
でも、ティルダは骨の髄まで聖女であるように教え込まれてきた。平和を望み、人々を癒し、支えとなり、大地の恵みを汲み上げるために全てを捧げるのだ、と。地獄に堕ちたからといって簡単に性根は変わりそうにない。国や立場の違いを考えなくて良い分、今はいっそ身軽でさえあるかもしれない。それなら──誰のためであっても、力を尽くしたかった。
「逆巻く渦の大水蛇……貴方は、怪物というより災害のようなものなのね」
リヴァイアサンの鼻息がかかる位置にまで近づいて、ティルダは心を平らかにするためにあえて口に出して呟いた。聖女の技というよりは医療に属する術で、傷の痛みや戦いの記憶に興奮して暴れる者を宥めるものがあるのだけど。でも、間近に感じたリヴァイアサンの巨大さと力強さは、また違う祈りを思い出させる。激しい嵐や氾濫する水、苛烈な太陽──か弱い人に対してあまりに過酷な自然に慈悲を乞うための祈りも彼女は知っていた。
(魔力を込めて歌う……人よりも大きな存在に語りかける……)
リヴァイアサンの目と鼻の先で、ティルダは氷の大地に跪いた。死んだ身でもまだ魔力を操れるのが分かる。見えない手を差し伸べるつもりで──縛られた大蛇に魔力を触れさせる。
「Tyst, tyst, Var tyst...var inte arg, istället för snälla skydda oss....」
今、ジュデッカが鎖を解き放ったらどうなるのだろう、と。目を閉じて祈りの言葉を唱えながら、恐怖がふとティルダの胸を刺した。目障りな囚人をリヴァイアサンに襲わせて、その上でもろ共に封印するのは合理的な考えかもしれない。
(いいえ……コキュートスの王である方を信じるの。疑いは、祈りに相応しくない……!)
恐怖は、ティルダの魔力を一瞬淀ませてしまった。リヴァイアサンが機嫌を損ねたように軽く唸る。彼女の語りかけに、興味を持ってくれたようだったのに。今度こそ心が乱れることがないように、ティルダはひたすら歌と魔力で巨大な怪物に訴えかけた。シェオルの毛を梳くように、彼女の全身全霊で慰撫するつもりで。
「Tyst, tyst, Var tyst...」
唱え続けてどれだけ経ったのか──不意に、ティルダの肩がぐいと掴まれた。
「──おい。もう良い。止めろ」
「え? で、でも──」
慌てて目を開くと、顔を顰めたジュデッカが彼女を見下ろしていた。歌が耳障りだったのか、時間の無駄だと判断されたのか。もう少し猶予を、と乞おうとする彼女に、美しい魔王は顎をしゃくってリヴァイアサンの方を示した。
「もう十分だ」
「あ……!」
リヴァイアサンは、巨体を完全に地につけて脱力していた。蛇がどう寛ぐのか、そもそもこれを蛇と同じにして良いかは分からないけど。燃えるようだった真紅の目も今はどこかとろりと緩んで穏やかな色を浮かべている。
「あの……?」
恐る恐る呼びかけると、大蛇はほんの少しだけティルダに向けて首を伸ばした。まるで挨拶をするかのように。彼(彼女?)に暴れる気がないのは、もう明らかだった。




