11.動き出す罪人たち
玉燕の身体を払いのけながら、ジュデッカはまず彼女の思い違いを正した。
「俺は花を愛でてはいない」
「そうかえ? まるで恋した相手を見るような目つきであったが」
罪人の癖に、氷の地獄の主に対して揶揄うような目を向ける女はまったく不遜だ。とはいえ取り合うだけ時間の無駄だから、心を乱された苛立ちは表に出さず、端的に事実だけを告げる。
「新しい罪人の仕業だ。聖女の力で花を咲かせたらしい」
「ふむ? 聖なる力を持つ者でも地獄に堕ちることもあるのだな」
「外面が良い者ほど陰で何をしているかは分からない。お前だってそうだっただろう」
「ほほ、確かに」
軽やかな笑い声を響かせる玉燕は、生きていたころに犯した所業の数々をいっさい反省していないようだった。まったくコキュートスには似合いの罪人で、ジュデッカにとってはこういう手合いの方が例の小娘よりもよほどやりやすい。
「いずれ同じ罪人同士だ。いがみ合うなり馴れ合うなり好きにしろ。ただし俺に背くならまた氷漬けにしてやる」
「おお、怖い。せっかく目覚めることができたのだもの、氷の帝には近づかぬようにしておこう」
怖がっていないのは明らかな悪戯な笑顔で、玉燕は素早くジュデッカから距離を取った。
コキュートスに堕ちた当初、この女はしつこく強かに彼に纏わりついて力を見極めようとしていた。その経験から、氷の牢獄の王の機嫌を損ねない限り、気ままに過ごして良いものと都合よく解釈しているのだろう。凍り付く間際の、青褪めて震えるだけの姿を見ているジュデッカは、別に今さら不快に思うこともないが。
かつての自身の醜態など綺麗に忘れたかのように、玉燕は大仰な仕草で玉座の間を見渡すと、わざとらしく溜息を吐いた。
「起きたとはいえ、さても代わり映えのしない退屈な地獄よ。ここに堕ちれば、名高い寧妃やラオダメイアとも妍を競えるかと思うておったのに」
「その者たちはまた別の地獄にいるのだろうよ。色欲や強欲だけではコキュートスに堕ちる罪には足りない」
彼女自身と同じく悪名高い傾国の美女たちの名を挙げた玉燕を、ジュデッカは穏やかに嗤う。コキュートスに堕ちる時点で並みの人間には想像するのもおぞましい大罪を犯しているのだ。その罪人に退屈だ、などと言われたところで堪えるはずもない。この女だって、たまたま再び目覚めたのは幸運だったかもしれないが、どうせ、いずれまた己の罪を抱えて凍り付くのだ。
「ふむ。となるとその聖女とやらが気になるの。ひとつ挨拶でもしてやるか……?」
「好きにしろ。今は寝ているようだが、叩き起こしても良いだろう」
皮肉を言われたのに気付いていないのか、気付いた上で無視したのか。玉燕が毒々しい笑みを浮かべたのもどうでも良い。この女に限ってただ挨拶するだけ、などとあり得ないだろうが、罪人同士のやり合いにジュデッカは関知しないのだ。男の罪人同士の戦いの方が彼の退屈は紛れただろうが、女の姦しい喧嘩でも、我慢してやらないこともない。
むしろ、あの変わった娘が驚き慌てる様を見れば多少は気分が良いかもしれない。そうとさえ思って言ってみたのに、玉燕は意外そうに──もちろん演技だろうが──目を瞠った。
「おや、氷の帝は名に違わず冷たいこと。妾はてっきり、その聖女を思うて花を見つめていたのかと思ったのに」
「……馬鹿げたことを……!」
ジュデッカが花を見て思い浮かべたのは、遥かな楽園のこと。下世話な邪推が不快なのは当然として、罪人に彼の内心を覗かせてしまったことが許せない。
(黙らせてやる……!)
ジュデッカが鎖を握りしめた時──轟音が、彼の居城を揺らした。雷のごとく低く、けれど鋭い音が長く響き渡り、空気を震わせて氷の細かな欠片を宙に舞わせる。さらに、コキュートスの凍った大地そのものも揺らぐ。一度ならず、二度、三度と襲う揺れに、玉燕は堪らず床に倒れ伏す。地中から巨大な何ものかが這い出そうとしているかのような地震──いや、事実そうであるのを、ジュデッカは知っている。
「なんぞ、これは……!?」
「お前のほかにも罪人が目覚めたな」
玉燕がようやく狼狽えた顔を見せるのを愉快に思いながら、ジュデッカは玉座から立ち上がった。
「そういえばお前は知らなかったか。コキュートスに堕ちるのは人間とは限らないのだ」
美貌を引き攣らせた傾国の女を、ジュデッカは獰猛な笑みで見下ろす。その手にしっかりと鎖を握りしめて。姦しい罪人どものせいで溜まった鬱憤を晴らせる、絶好の機会が近づいているのが楽しみだった。




