東大陸編22『北方諸国同盟と皇国』
「我が夫である陽博を処刑せよ。などという要求は到底受け入れられませんが、戦時国債の早期支払いについては、交渉の余地はありませんか?」
戦費として借り受けた金銀も、今は復興や発展の為に使いたい。
それを今すぐに返済すれば、それだけ復興や発展が遅れる事になる。
今の段階で無理に返済する事に何の得も無い事を考えれば、受け入れられる訳が無い。
シャーナの提案する交渉というのも『約束の期限までに返せって事だろ? 今すぐ返せなんて面白い冗談だな、相棒!』という“確認”である。
間違っても『今すぐ返済しますので、どうか見逃してください』という話し合いを提案しているのではない。
「確認をしたところで、今すぐ償還せよという返答は変わらないでしょう。それに仮に、今すぐに全ての債務を償還したとしても、陽博殿下を処刑し、シャーナ陛下が退位なされないのであれば、彼等にとって要求が呑まれないのですから、同じ事です」
どちらかと言えば、金の問題より名誉の問題の方が大きいかもしれない。
得体の知れない女王が、もっと得体の知れない皇国人を夫に迎えるなど、幾らなんでも。という事だ。
シャーナの腹違いの妹で第二王女にあたるレニエ侯爵フィアナを新女王に即位させ、マルロー王国の第二王子か有力貴族あたりを新たな夫に迎えろという事だろう。
フィアナも得体の知れなさ加減ではシャーナと似たり寄ったりだが、まだ独身であるから、得体の知れる人物と結婚させれば良い。
「陛下は甘すぎます。陛下が譲歩しても、その分を相手も譲歩するとは限りませんぞ。むしろ、こちらが譲歩したのを良い事に、次から次へと譲歩を迫るでしょう」
国務卿の発言に、陽博がシャーナを見つめた。
「私は皇国で育った皇国人ですが、今はリンド人として、この命も女王陛下と共にあります。私が首を差し出す事で陛下やリンドの民が救われるのならば、喜んで致しましょう。しかし、この文書を見る限り、私が首を差し出したところで彼等が満足する事は無いでしょう。私一人が生贄になっても、皇国の影がある限り、最悪は陛下自身の首を要求してくる可能性も……」
大臣達も、陽博の言うとおりだという態度でシャーナを見る。
リンド王国という、現状において力の空白地帯を誰が治めるか。
誰が主導権を握るか。
マルロー王国は、それがユラ神国になるのも、皇国になるのも絶対に嫌なのは明白だ。
マルロー王国が直接的あるいは間接的に影響力を及ぼすか、それが無理なら最悪でもマルロー王国に友好的な国の影響下に、リンド王国は在らねばならない。
でなければ、大陸北方の勢力図が大きく描き換わり、修復出来なくなるかも知れないのだ。
大内洋への出入り口が、ユラ神国なり皇国なりを中心とする大同盟に完全に塞がれたら、絶体絶命である。
だからマルロー王国を中心とする諸国は、皇国という得体の知れない強者を相手に、引くに引けない。
ある意味、リンド王国としては到底呑めない要求を突きつけて、それが撥ね付けられた時、それを理由に何とかして、東大陸最大の王国を自分達の勢力下に治めるための行動を起す正当性の担保にするための、実質的な脅迫状がこの外交文書なのである。
「彼等が、リンド王国や王家が皇国に下ったと考えるならば、それを利用すれば良いでしょう。リンド王国を脅かす北方諸国を、皇国は躊躇い無く討つだろうと、返答したらいかがです?」
陽博の提案は、半分以上ブラフだ。
今の皇国軍はリンド王国の防衛に精一杯で、北方諸国方面に陸路遠征する力は無い。
純軍事的には遠征する力はあるが、議会が首を縦に振るかどうかが分からないという意味で、皇国軍が実際に使い物になるかが変わってくる。
だが、大陸最強を謳われたリンド王国軍を完膚なきまでに叩き潰した皇国軍が動くとなれば、北方諸国同盟も考えを改めざるを得なくなるかも知れない。
ここで、“人質としての皇国人”陽博の存在価値が生きて来る。
皇国はリンド王国のためだけではなく、王配である陽博を守るために軍を動かすのだという、誰にでも解り易く反論し難い理由が成り立つからだ。
「皇国軍による北方諸国への進攻は別としても、北方同盟軍がリンド領へ不当に進軍してくるなら、皇国軍は討つ覚悟ですよ」
皇国の皇族である陽博の言葉は、言質になる。
終戦時の協約にも安全保障の規定が盛り込まれているが、改めて“皇国人”たる王配の口から出る言葉の意味する所は重い。
実際に皇国の外交官、武官たる将兵共々、そういう覚悟で居るのは確かだ。
政府も、そういう方針に乗り気ではないにしろ“仕方なし”という考えでいる。
リンド王国としては、領土を借金の担保にした覚えはないが、彼等がそう主張するからには、軍を動かしてリンド王国の領土を占領して切り売りするという事だろう。
そこを、皇国軍が反撃するという確証が得られれば大きな抑止力になる。
海を渡ってきた一派遣軍で、リンド王国の全軍を容易く壊滅させた皇国軍は、現状過大評価されている。
神話に伝わる旧世界。神をも恐れぬ魔法文明というのは、実は皇国の事なのでは? とも実しやかに囁かれている。
だったら、幻想でも何でも利用すれば良いだろうという事だ。
だが、女王シャーナは戸惑う。
陽博に申し訳無さそうな態度で、目配せする。
「しかし、我が国のために皇国の血を見るのは……」
「陛下。皇国とて、何も善意だけで軍を動かしはしません。国交が樹立された今、皇国とリンド王国は持ちつ持たれつです。リンド王国が皇国を利用すれば、皇国もリンド王国を利用します」
「利用価値があるからという……打算ですか?」
「国や民を生かすために必要なあらゆる物が天から降って来るわけではない以上、利益の追求や打算は必要です。しかし、それだけでもいけないのは陛下もご存知のはずです。簡単に利益が得られるからといって、騙したり奪ったりするのは、人の道に背きます。皇国はリンド王国から人命や物品を奪いました。その償いもあります」
「しかし、それは正当な手続きの上の戦争での事。確かに死んで仕方のない命は無いでしょうが、皇国も我が国も、お互いに理解して矛を交わしました。それについては終わった事です」
それは法的には勿論そうなのだが、人間の心はそう簡単に割り切れるものではない。
戦死者に対し、この世界の文明国の典礼に則った弔いをしても、殺し方があまりにも残虐だった。
ソ連軍と正面衝突する事を考えれば生温い戦争だと皇国軍は考えても、この世界にソ連など存在しない。
良くも悪くも、“皇国(元世界)の常識は新世界の非常識”なのだ。
表向き勝った勝ったの皇国軍兵士だって、殆ど一方的に敵兵を撃ち殺した事に良心の呵責を感じる者が居るのだ。
自分が撃ったのは人間ではなく、標的に見立てた人形だ。と自分に言い聞かせないと平常心を保てないような危険な精神状態の者も居て、軍医によって病院船への後送か本国への送還が行われている。
リンド王国の民達も、手放しで皇国人を歓迎している者は貿易商人や労働者等の少数で、大半の都市民や村民等は疑いの目を持ちつつ、その振る舞いを注視して観察している。
“悪魔の皇国軍”の素性が知れるまで、そう簡単に心は開かれないだろう。
「では、もう少し下世話な内容を申しますと、皇国の天皇陛下は、リンド女王陛下の人柄に興味をお持ちです。天皇陛下は、人を観る目に定評があります。陛下自身もそうですが、陛下がこれと思われた人物も、人格者ばかりです。その天皇陛下に認められたシャーナ陛下に、是非協力したいという皇国人は多いのです」
シャーナの謙虚で生真面目な性格は、皇国人に受けが良い。
王女時代、苦労して育ってきたという境遇も、皇国人の感情に訴える。
本国の皇国人には新聞記事の写真でしか見たことのない異国の女王ではあるが、力になりたいと思う者が実際に居るのだ。
シャーナの暖かい眼差しと柔らかな声で、陽博は救われた気持ちになる。
陽博は、妻となる新しい女王に会うまでは自分は人身御供で、リンド王国で皇国人が単身どんな扱いを受けるかという不安からは逃れられなかった。
天皇陛下や御国の為でなければ、イギリスやブラジルよりも遠い異世界の王族との婚姻など、願い下げだと。
断片的ではあるが伝え聞くところから判断して、前リンド王であるエイガムもそうだが、皇国と関係のある西大陸イルフェス王国の国王ボードワンや王女エレーナなど、この世界の王族は人間的に親しく付き合いたいような者ではないだろうと。
しかし、実際に会って言葉を交わすと、この新しいリンド女王はとても人間が出来ている。
良い意味で“鬼子”だった。
『異世界、異国の地で苦労もありましょうが大丈夫です。私が女王として妻として、陽博様の事はお守り致します』
婚前、そう言って優しく微笑みかけられて、救われたのだ。
そして、それで救われるのは自分だけではなく、皇国とリンド王国もそうなのだと。
さらに言えば、自分もこの女王を愛し、女王の助けになりたい。
女王を守り、女王の救いになりたいと心から思ったのだ。
女王を利用するとか、皇国を、リンド王国を利用するとか、そういう話は抜きにして、一人の男性として、この女性と生涯を共に歩もうと決めたのだ。
とはいっても、俺が愛する妻なのだから大丈夫だ。皇国人も協力するだろう。
などと言うつもりは無い。二人きりなら別だが、ここは公の場だ。
ここで皇国の天皇を持ち出すのは、不敬かもしれない。
という思いも少しあったが、陽博はこれが一番解りやすい説明だろうと考えた。
大陸に派遣されている外交官や陽博を通じて、女王の事はある程度以上は天皇に伝わっており、それに興味を示しているというのは、事実だったから。
それをもって、皇国がリンド王国に協力的だ。というのは些か飛躍もあるだろうが、国民感情は定量化出来ないから、臣民に慕われている天皇をもって代表としてまあ間違いあるまい。
「そうですね。ここは、皇国に甘えましょう」
少し困ったような表情をして考えてから、シャーナは陽博に、天皇を信頼するという目配せをした。
天皇から新女王となったシャーナへの公的な祝電と私的な文書も、リンド文字に翻訳されて伝えられている。
文章の内容も勿論だが、女王シャーナが心惹かれたのは翻訳前の手紙である。
皇国文字はまだ読めないが、高品質な紙に毛筆で書かれた直筆の文書から、天皇が信頼に足る誠実な人物だという“女の直感”を得たのだ。
それでシャーナ自身も、皇国の天皇という人物を少しは理解していたから、決断において“悪魔の末裔たる皇国”という巷の評価に左右される事は無かった。
「リンド女王たる私は、此度の北方諸国の要求一切を拒否します。この事で、北方諸国が我が国や臣民を不当に扱い、また領土領民に危害を加えるならば、王国軍及び同盟国たる皇国軍による報復があると、伝えなさい」
シャーナは、毅然として檄を飛ばした。




