東大陸編21『北方諸国同盟とリンド王国』
「北方諸国内におけるリンド資産の凍結に、通商の無期限凍結、リンド人の入国関税を10倍にする。ですか……。今まで無茶苦茶をやっていた我々が言えた事ではないかも知れませんが、これは無茶苦茶だ」
「しかし我が国が無茶苦茶をしたからといって、他国も無茶苦茶をして良い道理は無いでしょう。諌めるとしても、もう少しやり方がある筈ですよ」
リンド王国の国務卿が、半ば諦めたように笑った。
シャーナ女王の横に座る王配の陽博も、内務卿、兵武卿も一様に表情が硬い。
北方諸国からの“最後通牒”が示されたのだ。
リンド王国は東大陸の北西に位置し、歴史的に北方諸国との結びつきが強い。
大陸北東の列強であるマルロー王国や、北の強国であるセソー大公国との関係を軸に、大小の国家や領邦との関係を築いてきた。
ユラ神国と皇国を相手にした今度の戦争でも、彼等はリンド王国の行動を支持し、少数の義勇兵と共に多額の資金や物資を援助した。
リア公爵領の“奪還”と、それに伴うユラ神国の威信の低下は、北方諸国の大陸西方や南方への影響力拡大の楔となると思われたからだ。
この“紛争”でのリンド王国の勝利は確実で、そうなれば北方諸国はリンド王国に貸しが出来る。
だが、リンド王国が戦争に負けるや否や、彼等は掌を返したように敵対的になった。
曰く『ユラ神国と皇国に下った偽りの女王に大義は無い』。
まず、4年から20年での償還を約束していた戦時国債を今すぐ完済せよと言い出した。
さらにユラ神国と皇国との新同盟の完全解消をし、女王は婚姻を破棄して王配を処刑せよと。
加えて、皇国の傀儡である新女王の正当性も認めないから、現女王は退位して別の国王を立てよと。
これらが成されなければ、マルロー王国その他の北方諸国同盟に存在するリンド王国や王家の資産を差し押さえ、リンド王国との国家間や民間の移動や貿易は全て凍結する。
さらには、リンド王国の領土そのものを担保として取り上げる。という事であった。
ただし要求を呑めば、北方諸国同盟は疲弊したリンド王国に食糧や資金、軍の再建その他の援助を惜しまないともある。鞭だけでなく、しっかりと飴も用意している辺りが、“列強国”から転落しつつあるリンド王国を悩ませる。
以前のリンド王国なら、それを撥ねつけるだけの力を持っていたが、今は違う。
金も無ければ兵も無い。
戦争で苦しめられ、漸くそれが終わったと思ったら前王の負の遺産に苦しめ続けられる事になろうとは。
北方諸国に緩い経済協力体制はあったが、強固な軍事同盟と言えるようなものは無かった。
北方諸国同士でも、当然のように様々な対立はあった。地理的、政治的に近いからこその対立も。
それが、今や『北方諸国同盟』として、一丸となってリンド王国を否定しに来ている。
リンド王国の経済全体の“貿易額”としては、実は敵国であったユラ神国や、ユラ神国を盟主とする大陸西方から南西諸国、大内洋諸国との結びつきの方が強い。
国内の主要通貨が北方諸国の基軸通貨である『ワール』ではなく、ユラ神国を中心とする西方から南方、大内洋諸国の『リルス』であるという事からも、貿易の主体がどちらを向いているか解るだろう。
だが、それでも北方諸国との関係が無視できぬ程度には存在する以上、貿易が途絶えればリンド王国の経済に少なからぬ悪影響を及ぼすだろう。
“貿易額”ではなく“貿易量”として見れば、尚更に北方諸国を軽視する事は不可能。
ソバやライ麦等の、下層階級の人々の日々の食糧になると、輸入量の殆どが北方諸国からの物だ。北洋の海産物や獣肉も、貴重な食料資源。
貿易がストップしてしまえば、貧民を中心に少なくない数の栄養失調者、それが原因の病死者や餓死者が出るだろう事は想像に難くない。
食糧面に関して、皇国は全く当てにならない……というより他国に養ってもらわねばならない国の筆頭が皇国である。
皇国は、リンド王国との通商が開始されれば、早速幾らかの食糧――小麦や馬鈴薯――を購入する予定であった。
人口がリンド王国の倍あるにも関わらず、農地の少ない皇国の食糧に対する貪欲さは底知れずである。
「我が国の総理大臣、農林水産大臣、運輸大臣等には、今年度内のリンド王国からの食糧輸入は困難と、お伝えした方が良いでしょうね」
皇国の全権大使や駐在の外交官、また軍の高官達は、ほぼ死に体の状態のリンド王国から、大量の食糧を持ち出す事は不可能と判断していた。
どんな大金を積んだところで、今すぐ、無理矢理にでもそんな事をしたら、燻っているリンド国内の、リンド王家や皇国への不満が爆発する恐れがある。
皇国が今すぐ、喉から手が出るほど欲しい食糧を調達するためには、貿易相手国の内政基盤が安定的でなければならないだろう。
順番を間違えれば、皇国も一緒に泥沼に飲み込まれてしまう。
現状、リンド女王たるシャーナにそれ程の人望は無い。
貴族ではない騎士階級の娘という、王に対するには格の低い側室からの女子という理由も大きいが、それだけが原因でもない。
前王は“賤しい女の子供”がリンド王国の第一王女(実質的に王位継承権第一位)だという事を隠したがっていた程だから、シャーナは前王の在位中も、社交界では国内や他国の王侯達と最低限の顔繋ぎ程度の関係しかなく、王女として成人を迎えて以降も何か政治的、文化的な活動を公にしていた訳ではない。
突然即位した実態不明の女王を、リンド国内の貴族達はどう扱って良いやらなのだ。
前王は、その前の王。シャーナの祖父や曽祖父に当たる人物の遺産があったから、内政も戦争も好き勝手出来た。
しかし過去の遺産を殆ど食い潰して得た物は無く、負債だけが残った今、女王が駄目だといよいよ国が滅ぶ。
だから貴族達は、事態の推移を見守りつつも警戒している。
表向きは、亡国の危機に要らぬ内憂を持たないよう、女王に協力するという態度だが、女王の政治手腕に疑問を持たれれば、いつ態度を変えて不信任を突きつけられるか解らない。
シャーナに近しい人程、彼女は王ではなく、聖職者か学者、あるいは慈善家が向いていると考えていた。
親の七光りで身の程を弁えずに己を過大評価していた前王よりは、身の程を弁えて一歩引いた態度の現女王の方が良いかもしれないが、あまり卑屈過ぎれば他国から舐められる。
そういう教育を受けていないからなのだが、権謀術中に長けているとも言えない。
王としての器が無い、というより未知数なのだ。
王としての自覚はあるのだろうが、あまり行動が伴っていない。
女王がまだ王女だった頃、自分の城館で下級使用人と口を聞いた事があった。
ある日、庭を手入れしていた使用人が怪我をしていたのだが、王女はそれに気が付くと、近寄って声をかけ、侍女に手当てするよう言いつけたのだ。
幾ら妾腹とはいえ、貴人たる王女が使用人と同じ目線で話すなど、あってはならない事。
王や上級貴族にとって、下級使用人など、そこに存在しないものとして扱うのが当然で、緊急避難的な状況でもなければ、会話などありえない。
賤しい身分の者から王に目を合わせたり、声をかけるなどはタブー。
場合によっては、それだけで鞭打ちの罰が与えられる事もありえる程の無礼だ。
逆に、王の方から下級の使用人に何か言伝や命令があるならば、侍従や上級使用人を通して行うのが普通だ。
直接命令は、越権行為なのである。
シャーナは女王となった今でも、公の場ではさすがにしないが、宮殿内の使用人達や、かつての自分の城を切り盛りしている使用人達に微笑みかけたりする事はよくある。
王侯貴族の社会礼節からすると、浮世離れしているのだ。
しかしシャーナという女性にとって、父王から離れて生活し、次代の王としての“帝王教育”があまり熱心に行われなかった事は、良い影響もあったのではないかと、王配の陽博は思っている。
いつか正室から王太子たる長男が産まれる事を夢見て、女の子供に(加えて側室の子供に)王としての教育など要らぬと常々言っていた前リンド国王の方針で、王女たるシャーナに対する教育は良くも悪くも放任されていた。
シャーナの教師として仕えていた人物には、前ポゼイユ侯爵と関係の深い人物も居たくらいだから、学問方面でも芸術方面でも、シャーナの家庭教師には“変人”が紛れ込む余地があった訳だ。
陽博がシャーナと話してみて好感を持ったのが、“おかげ様”とか“お互い様”という思想だ。
本人は無自覚でも“『基本的人権』は万人に平等である”という考えにかなり近い。
この世界の王や貴族の多くは、平民や奴隷は貴人に奉仕するのが当然という思想で、自分達の食べるパンを作るのは平民達であるという事実を忘れているか、見ないようにしている。
自分達が貧民に施しを与えてやっているから、彼等は生きていけるのだという傲慢な考えの者も居るくらいだ。
シャーナの場合、多くの平民達の血と汗がなければ、王侯貴族達の優雅な生活は成り立たないという社会の仕組みを下手な貴族より理解している。
そして、王は国や民に尽くす責務がある。という自覚はある。
王の為に国や民があるのではなく、国や民の為に王があるのだ。
『君主は国家の絶対的な主人ではなく、第一の臣下』という意味では、王であるが故に民が背負うものより重いものを背負わねばならない。
民が、その血と汗で王と国を支えてくれるのだから、それに応えて民を守るのが王たる者の責務だと。
私が王で居られるのも支えてくれる臣や民の皆さんのおかげとか、貴族も平民も奴隷も、この国で共に生きるならばお互い様とか、本当にあの父親の子供かと思うほどだった。
平民や奴隷だって貴族と同じ、命ある一個の人間だ。という皇国では当たり前の思想を持つ、奇特な女王。
そんな女王に、皇国人である陽博はこの国の将来を任せて大丈夫だろうと考えている。
全能の王が国政に関して何から何まで結果を出すというのは現実的ではない。
王が、自身の権限で王を補佐する大臣や官僚と協力して上手く国を動かせば良い。
その時、王が人格者である事は、平民も含めた国民全員にとって不幸な事ではない。
そしてシャーナは、現実を無視した夢想的な理想主義者ではない。
表向きには社会の理想を唱えるが、その実は暴力を伴う革命をも肯定する共産主義者などとは違い、穏当で地に足の付いた政策は期待出来る。
細部を詰めるのは大臣や官僚達であって、王は大まかな方針を示し、臣下と議論する事で方策を具体化して命ずれば良いのだから、王の国政への考え方が地に足が付いていてしっかりしていれば、国内は混乱しない。
一方的に命令するのでなく、臣下や近しい者達の意見を聞いて判断する謙虚さもある。
これは“帝王教育が不十分”だという自覚に基いての行動だろうが、これがかえって周囲の者達の行動力を高める結果に繋がっている。
『女王陛下に何かを訊ねられた時、あるいは何かについて議論するように指示された時、下手な受け答えは出来ないから、日頃から情報収集や人間関係の構築を疎かに出来ない』
という訳だ。
王女だったシャーナにとって、会った事も無い皇国人との婚姻も、内心では相当な葛藤があったはずだ。
結果論から言えば、異界の王族との婚姻が“性急”で“無礼”という批判を、付け入る隙を与えた事になってしまったが、新たな国王たるシャーナの決意を示すのには、最も解りやすく目に見えるものである。
先王たる“正統な父”とは明確に違う国王だという事を、良くも悪くも内外に決定付けさせた。
王統に血統を否定するのは乱暴にしても、王たるものの本質は血“だけ”では決まらない。と。
自分自身が、殆ど半分平民の母親から産まれた。という事実は異界の王族との婚姻への精神的な壁を大分引き下げただろう。