東大陸編19『秘密協議』
ユラ神国に滞在中の全権大使に“それ”が届いたのは、国王がセグーニュへと“保養”に出かけた2週間後であった。
「リンド貴族からの手紙?」
「はい。ポゼイユ侯爵と申す者からです。早馬にて前線の師団長を経由し、宛先は閣下へとなっておりました」
「ポゼイユ侯爵?」
全権大使は手紙の封を開けながら訊ねた。
「リンド王国東部の、元は辺境伯の家柄だそうで」
「つまり、武家という事かな?」
「現代では、軍事的には何の権限も無いようです。精々、領地から将兵を国王に供出するくらいでしょう。むしろ、今は学者のパトロンとして有名なようです。それより重要なのは、侯爵は宮中にも顔の利く東部貴族の中心的存在という事です」
「そうか……」
全権大使は、宮中貴族や南部貴族を中心に交流をしていたため、東部貴族については殆ど手が回っていなかったのだ。
視線を落とし、リンド語辞書を片手に、全権大使は手紙を読み始めた。
ユラ神国の文字や文法とリンド王国の文字や文法はかなり似通っているので、文字はもう見慣れて文法も殆ど頭に入っていたが、全権大使は今でも辞書を手放さない。
辞書といっても、現代の英和辞書のように完成度の高いものではない。
情報部が今でも毎日のように更新しては新しい単語情報等を印刷して持ってくる。
一般名詞やよく使う動詞等は殆ど訳し終えているが、少し難しい単語や専門用語、あまり使われない単語等はまだまだ訳し切れていないので、辞書は手放せない。
「ほう……確かに、本人も学者のようだ。直接見聞きした訳でも無い我が国に対して、かなり鋭い考察を行っている」
「と、仰りますと?」
「我が国の軍艦は動力機関で駆動するものだと書いてある。飛行機が時速400km以上で飛ぶ事についても、飛竜と対比しながら数式まで書いて、リンド王国では少なくとも10年以内には不可能だが、理論的にはあり得ると。我が国の工業力の水準まで書いてある。相当大規模な製鉄所や兵器工房があるのだろうと」
「それはまた……」
「王国軍が既に壊滅し、王都が砲火に晒されている事も冷静に受け止めている。王都から距離的にも精神的にも遠いからだろうな」
「精神的にはどうか解りませんが、距離的には確かに」
全権大使は、こいつは面白いというような顔で読み進める。
「リアにて、リンド王国の今後を話し合いたいそうだ」
「リンド貴族が、敵地で自国の今後をですか!」
「敗戦後処理をどうするかと書いてある。侯爵には、リンドの負けは確定事項らしいな」
「……危険ですね」
「危険だが、ユラと違って敵国リンドにはコネクションが無い。ここらでリンド貴族と場を設けるのは、悪い話ではない」
皇国は、つい数ヶ月前に突然この世界に現れた“新参者”だ。
最初に接触したリロ王国の大商人を手始めに、東西大陸の商人や有力者、王侯貴族等と接触してきたが、上手く話が進んだのは10発中の2発か3発程度だ。勿論、その2、3発の中にイルフェス王国やユラ神国 といった有力な列強国があったのだが、残りの7発か8発にも列強国や大国、大商人がある。
リンド王国に限れば、これは交渉失敗というか、ユラ神国との関係をまず構築する必要性から、あえて敵対という道を選ばざるを得なかった。
両国と良好な関係を保ちつつ局外中立が通用するほど、この世界は甘くない。
本国と全権大使は、今までベルグのリンド国王宛に親書を送り続けていたが、国王が事実上逃亡し、また降伏勧告も無視され続けている現在、皇国はリンド王国との外交の窓口が無いに等しい。
元世界のローマ教皇やスイスのように、中立で、多くの国に顔が利く国は残念ながら無いのだ。
その中立国の位置に一番近いのが外ならぬ一方の当事者であるユラ神国。
現状は、既に詰んでいるのに投了を宣言しない相手と将棋を指しているかのようなもの。
侯爵と言えば、上級貴族である。
リンド王国の上級貴族と関係が結べれば、それを窓口に何かしらの突破口が見えてくるかもしれない。
「会おうじゃないか、侯爵閣下と」
皇国の全権大使とポゼイユ侯爵との間に会談の場が設けられたのは、ポゼイユ侯爵に全権大使からの返答の手紙が届いてからさらに2週間後の事だった。
「リアン=シャニィ・セレシア・ラグナ・ニュールモンと申します」
「木下正徳と申します。本日は――」
全権大使は黒のモーニングで、対するポゼイユ侯爵はこの世界の女性の服装としては動きやすそうな群青色を基調としたドレスに、髪飾りや首飾りなどで装飾している。
自己紹介と簡単な社交辞令が終わると、2人は早速“本題”へと話を進める。
「皇国軍、ご活躍されているようですね」
そう、笑顔で言ってのけたポゼイユ侯爵は危機感が有るのか無いのか、全権大使は一瞬掴みかねた。
「皇国軍は、我が国の誇りの一つです。リンド王国軍も、誇り高く戦っていると聞き及んでいます」
「軍が誇り高くとも、王がそうでなければ、国は道を誤ります。皇国の国王陛下は、誇り高くあられますか?」
侯爵は、リンド王が誇り高くないと言い放った。
「我が国で国王に相当する御方は“天皇”と申しますが、陛下は徳の高い、心の広い御方です」
だが、激怒すると手が付けられないほどの威圧感も同時にある。
「徳が高く心の広い事は、君主にとって必要な事です。皇国は恵まれていますね。それで閣下は、天皇陛下の代理人としてこの地にいらっしゃるのですね?」
「はい。リンド王国との交渉に対しても、全権を委任されています」
「では閣下は、今まで私以外のリンド貴族との交渉の場を持たれましたか?」
もう二度と手に入らないかもしれないインド産の紅茶を一口、口に付けながら、侯爵は美味しいお茶ですね。と微笑みかけた。
「手紙であれば幾人かと遣り取りしましたが、侯爵閣下のように直接会談するのは、初めてです」
「手紙とは、具体的にはどなたと?」
侯爵は直球、直球で攻めてくるタイプなのだな、と全権大使は思った。
「秘密の遣り取りもありましたので、具体的に名前を申せない方も居りますが……そうですね、名前を明かしても大丈夫な方であれば、例えばルキィ伯爵とか」
「伯爵とは、どのような遣り取りを?」
「リンド王国の降伏に関する件を打診しましたが、『国王陛下に直接掛け合うべき事項で、自分には何らの力も無い』と。それ以来、こちらからの手紙に返事がありません」
困ったものです。と苦笑する全権大使に、侯爵は一切表情を変えずに返した。
「端的に申しますと、我が国の大多数の貴族は、王国の滅亡に巻き込まれたくないのです」
「滅亡!? 我が国は、リンド王国を滅ぼすために戦ってはいません!」
「ですが事実上、我が国の威信は無いも同然になります」
侯爵はさらりと言ってのけたが、重大な事である。
皇国は、武威により条約を結ばせて、リンド王国と国交を結び通商を行う予定だったのだから。
「何故です?」
「歴史的大敗を喫し、威信が保てるとお思いで? 軍が壊滅した今、仮に威信は保てても、国の防衛が成り立たなくなります」
「それは、確かにそのとおりかも知れませんが、滅亡というのは少し行き過ぎではありませんか」
侯爵は、紅茶を飲みながら少し考え込み、全権大使に向き直る。
「皇国は、“異世界”から来たそうですね。そちらの世界ではどうかわかりませんが、こちらの世界では、軍事力の無くなった大国には、ハゲタカが死肉に群がるが如しです」
「つまり、リンド王国は他の列強国、大国に好き放題される可能性があると?」
「そうです。現国王が退位なされるとすれば、国王は妾腹の王女。しかも軍備は無い。これでは威厳も何もあったものではありません」
確かに、元世界でも欧米列強国を中心に“弱肉強食”という言葉がぴったりの外交が行われていた。
少しでも隙を見せれば、他の列強国がハゲタカの如く群がり、富を掻っ攫う。
「時に、皇国の天皇陛下の御子息に、王太子殿下はいらっしゃいますか?」
「その地位には、皇太子殿下がいらっしゃいますが……」
まだ10歳にならないが、皇太子と第二皇子は順調に成長している。
「では、皇国の皇太子殿下と我がリンドの第一王女殿下が婚姻する事は可能でしょうか?」




