東大陸編11『皇国の綱渡り』
「収まった……」
エリルファゼイ号の副長は生き残り全員を甲板に集めると、檄を飛ばす。
「さて、私と諸君等は皇国の捕虜となるわけだが、その際は文明国を相手にしたリンド王国の将兵としての振る舞いを期待する」
甲板上には何故だ、野蛮人は野蛮人だ、皇国クソ食らえ、などと怒号が響く。拿捕するために近づいてきたところを不意打ちしてやれという声さえあった。
「無線は通じんし、信号旗も手旗もモールスも通じないとなると、文字にするしかあるまい。こんな時の為に文字表と単語帳も持っておくものだな。情報部はこの短期間によく調べてくれた」
「何と書きましょうか」
「これと、これと、これと……これだ。順番は今示したとおりだ。簡単な文だが、解かるだろう」
艦長がリンド語辞書を片手に指差した単語は、『全員』『抵抗』『許す』『ない』。
『全員の抵抗を許さない』。
少しぎこちないが、短い文章で威圧感も出るかもしれない。リンド語の辞書を手渡されて1週間の艦長に、流暢な文章など無理な話だった。
「水雷長。陸戦隊を組織して敵艦に移乗、降伏を確認し、合わせて武器類、艦長の軍刀と軍旗の没収を行え」
「了解しました」
「もうあの船は沈没寸前で航海はできんだろう。捕虜は江風で飛鳥丸に運ぶからそのようにな、水雷長」
「はい。捕虜は江風に移送させます」
「拡声器で敵に知らせろ。これからこちらの将校が乗艦して降伏を確認するから、くれぐれもおかしな真似はするなと。機銃は敵の乗員を、砲は敵艦の喫水線を狙っておけ。この距離なら外すまい」
水雷長の木村大尉を含めた25人の陸戦隊が乗り込んだエリルファゼイ号の最上甲板は、死体か呆然とした将兵しかなかった。
他の下士官や水兵が何の行動も起さない中、木村大尉の前に一人の将校が歩み出てきた。
「エリルファゼイ号副長の、リッドン准海佐です」
「私は木村大尉です。艦長は?」
「艦長は……戦死なされました」
言いながら、艦尾楼甲板の艦橋を見る。
「そうですか。では貴方がこの艦の指揮官という事ですね?」
「はい。副長の私が、臨時の艦長です」
「では軍刀をお渡し願います」
指揮官(今回の場合は副長)が軍刀を敵に渡すという光景を見せ付けられた下士官兵達は、やっと自分達が負けたのだという事を理解したようで、先程まで不意打ちしてやれなどと言っていたのが嘘のように、その場にへたり込んでしまう水兵もいた。
「これでこの艦は我々が名実共に制圧しました。艦の乗組員が変な真似を起さぬよう、徹底させて下さい」
「了解しています」
「宜しく頼みます。それで、この艦は航行可能ですか? 見た所、船体にかなり損傷があるようですが」
「貴艦が曳航して下さるのであれば……」
「自力では?」
「ほぼ無理です。艦搭載の全カッターでもって曳航する事は不可能ではありませんが、速度が出ません。それでも宜しければ」
「あまり宜しくありませんね。我が国の軍艦は航海の速度を重視していますから。では、乗組員で生きている将兵全ては、我々の艦に移乗して貰います。死者は、この場で水葬して貰います」
「解りました。部下への通達と戦死者の水葬に少々時間がかかりますが、ご容赦を」
死者を水葬し、助かる見込みが無い程の重傷者に止めを刺し終えると、エリルファゼイ号の将兵は江風へと乗り込んだ。
駆逐艦江風は平均16kt(≒7.4マーシュ)という速度でユラ沖に停泊する飛鳥丸へと急いだ。
飛鳥丸は臨時の捕虜収容所となっている客船で、詰め込めば最大で2500人以上の捕虜を収容可能な中型船である。
ユラ神国は、自国の領内に皇国軍の捕虜収容所を建設することを拒んだため、皇国は仮の捕虜収容所として客船、貨客船を派遣しているのだ。
リンド王国の将兵は駆逐艦よりもさらに巨大な客船に目を回していたが、ユラの住民はもう見慣れたようで、ユラ神国各地からの見物客は未だに現れるが、ユラ住民は平穏を取り戻しつつあった。
そのための客船の数は、週に4隻の割合で増えている。
現在、ユラ沖に投錨している貨客船は全部で12隻。
何れも国内、国際航路で使われていた5000総トン以上の優良船であるが、皇国が持つ客船、貨客船、貨物船の総トン数から見れば、合計7万総トン程度の客船の派遣など本来であればどうという事は無い。
だが、今は燃料事情が逼迫している最中である。
石炭専焼船だから石油の負担は無いとはいえ、石炭は石炭で国内の発電や製鉄、船舶や鉄道の運行等に不可欠な燃料であって、無駄にして良いものではない。
問題はどの客船を派遣するかではなく、いつ捕虜が返還出来るかだ。
通常は、捕虜交換というものでお互いの捕虜を戻すわけだが、皇国軍将兵は誰一人リンド王国に捕虜を出していないので、“交換”が出来ない。
リンド王国が金銀と交換に捕虜返還を要求してくる事もなかった。
皇国は大量の捕虜の“在庫”を抱えながら、東大陸でも四苦八苦していた。
西大陸では、最近やっとライランス王国の全ての捕虜の返還が終わり、身代金の500万リルスが支払われたばかりだ。
ライランス王国軍の捕虜の数は将兵合わせて約7万人。平均すると1人あたりの身代金は71.5リルス。
1人あたりの1日平均では24シアルという数字だが、皇国が捕虜収容所を運営するのに要した金額が、1日あたり約1リルスであった。つまり1日で1人あたり4シアルの“儲け”が出た。
1人あたり平均2ヶ月の運営で最終的な“黒字”は84万リルスに上った。
84万リルス。
小麦なら1kgが約4ルーブなので約42万トン分の価値、ライ麦ならその倍近い約80万トン分の価値だ。
現状で皇国が国交を持つ国のうち最大の農業国であるユラ神国の年間小麦生産量が約800万トンだから、42万トンならその5%強である。
1人が1日あたり小麦のパンを300g消費すると考えれば、8000万人でも約半月分の食糧になる。
ユラ神国から40万トン、その他に東大陸の5ヶ国から20万トンずつ輸入して合計140万トンの目途が付けば、西大陸の3ヶ国から輸入された60万トンと合わせて200万トンになり、約2~3ヶ月分のパンが確保出来る。
それに今年生産された米900万トンを合わせれば、何とか今年を乗り切れる計算になる。
ただし、必要カロリーを満たすには米やパン以外に多くの肉や魚を食べる必要があり、さらに米を原料とする日本酒の生産が大幅に圧縮される事になるが。
皮算用ではあるが、とにかく計算上は皇国民は餓えずに済むのである。
しかも、ユラ神国からの小麦の購入金額は実質タダでだ。
リンド王国の捕虜からこの半分の40万リルスの“黒字”が出るとすれば、さらに西大陸のイルフェス王国からの購入分がチャラになる。
だが、戦争に敗北しない限り、リンド王国は捕虜の身代金は払わないつもりだろう。
とにかく、今はリンド王国を降伏させ、ユラ神国との結束を固める事だ。
捕虜の身代金は、言わばおまけのようなものと考えても良いだろう。
ライランス王国からの賠償金2億5000万リルスと1億デュカのうち、今年度分の500万リルスと200万デュカが手に入れば、東西両大陸から輸入される食糧分の購入資金を補ってまだ余りあるのだ。
それでも戦費が嵩んだので今年度分の収支は実質マイナスになるが、50年間滞りなく賠償金が払われると仮定すれば、毎年各国から250万トンの食糧を輸入しても十分に黒字の計算になる。
その頃には、神賜島での農業生産が軌道に乗って、毎年500万トン以上の米を生産しているはずだから、本土生産分と合わせれば主食としての穀物の輸入は必要なくなるので、それ以外の物品輸入に充てられる。
皇国は、このような計画で東西大陸と貿易を行おうとしていたが、現状では今年度で輸入したい食糧のうち2万トン程しか輸入されていないし、ライランス王国からの賠償金も入ってきていない。
特に食糧の輸入が滞っているのは、相手国の港の荷役能力の限界のためであった。
皇国が1万総トンの貨物船で乗り付けても、イルフェス王国最大の港で捌ける量は1日で500トン程度なのだ。
皇国船以外のイルフェス船やその他の国の船も多数利用する港であるから、皇国船だけに限って見れば、1日で全体の半分にあたる250トンも積めれば良い方である。
港の浚渫も、喫水の深い皇国船にとっては不十分なので、母船は沖合いに待機し、短艇でえっちらおっちら物資を搬入せねばならない。
気の遠くなるような作業で、皇国の首脳も全く考えもしていなかった重大な穴である。
元世界でアメリカやイギリスと貿易していた時には、2万総トンの商船でさえ輸送力に不足を感じる事があったのに、この世界では大きすぎて小回りが利かない。
皇国の首脳陣は、イルフェス王国等この世界“列強”の港に、皇国の一般的な貿易港と同等の能力を期待していた。
“列強”という言葉に惑わされたとも言えよう。
“列強”とは言っても、元世界の18世紀程度の“列強”なのである。決して20世紀のそれではない。
何故、こんな単純な事に誰も気が付かなかったのかを問うても今更仕方が無い。
皇国は、帳簿の上ではイルフェス王国から40万トンの食糧を輸入している。
実際、イルフェス王国の玄関口であるシュテーフ港には、各地から集められた皇国向けの食糧が山と積まれている。
その量は、およそ5万トン。
イルフェス各港、その他2国の貿易港8ヶ所合わせれば、30万トン近い食糧が既に港に到着していた。
だが、その8ヶ所の荷役作業では、合計しても1日1500トン程度しか物資を積み込めていない。
1日平均1500トンでは、購入した60万トンの食糧を積み込むだけで1年以上かかってしまう。
食糧は今必要なのに、この分だと今年度分の輸入が完了するのが来年度以降になってしまう!
皇国は大慌てで、多数の港湾作業船をシュテーフ港他4港に派遣して港を工事して母船を接岸させ、そのクレーンで直接荷物を積み込めるように港を“改造”したいとイルフェス王国に問い合わせた。
返答は『作業期間中、港の使用料を規定量の倍払うならば可』である。
曰く、『改造工事は他国の船舶の邪魔になるから、その分港の使用料を多く払って貰わねば困る』と。
「この際、カレーン島を拠点にイルフェスも叩くか?」
そんな意見も出たほどである。
だが、当然ながらイルフェス王国と一戦交えるより、規定量の倍額の使用料を払う方が安上がりだった。
しかし、いつもいつも言いなりになっていては足元を見られるばかりである。
実際、初期の交渉では完全に足元を見られていたのだから。
『皇国が自費で行うシュテーフ港他の改良工事により得られる貴国の利益は、港の使用料の倍以上であるから、改良工事に関して港の使用料を求めるのは、四重にも五重にも使用料を負担せよと言うのと同じであって、遺憾である』
下手な頓知のような言い訳であるが、皇国はこのような強引な理論で改造工事中、作業船の港の使用料をタダにしろと突っ撥ねた。
また何か言ってくるかと考えていた皇国だが、意外にもイルフェス王国は引き下がった。
『改良工事に関して、王国に金銭の負担を求めない皇国に感謝する』とまで言ってきたのだ。
かくして、イルフェス王国の主要貿易港4港の“改造”が、皇国によって“無償”で行われる事になる。
また他2国の4港についても、同様に皇国の“無償協力”という形で港の“改造”が行われる事になった。
そして東大陸では、ユラ神国に対して同様の“無償協力”をするという約束を取り付けていた。




