番外編32『少年と皇国軍』
新暦1542年の初夏。
リンド王国北部の、とある村落。
「私、皇国軍に志願する!」
「えぇっ!?」
リィンの提案は、ファーグルを仰け反らせた。
少女リィンと少年ファーグルは冒険者……と言えば聞こえが良いが、要は何でも屋だ。
普段は郵便屋をやる事が多いのだが、軍人相手に物売りなどして、軍隊と付き合う事もあった。
軍隊といっても、それは勿論リンド王国軍。皇国軍など、噂に聞いた事はあっても見た事は無い。
皇国軍が“道案内や荷馬車運営の現地住民”を雇うと発布したのは、つい1週間前。
軍隊の道案内、先導役といえばいかにも“冒険者らしい”仕事だし、何より給金が良い。
皇国はリンド王国に比べて物価が高いが、それ以上に金を多く持っている。
リンド王国の国家予算を100、うち軍事費が30とすれば、皇国の国家予算は3500、軍事費は300といったところか。
軍事費自体は皇国が10倍だが、国家予算は35倍あるから、国家予算に占める軍事費の割合は十分の一に下がっている。
それだけ、皇国の国家規模と国富が大きいという事だ。
皇国の方が人口が多いが、1人当たり生産力でも十数倍違う。
陸軍の兵卒の俸給も、皇国とリンド王国で十数倍の差がある。
皇国軍の示した俸給は、1日あたり半銀貨1枚。
1ヶ月に30日働けば、15シアルの稼ぎになるのだ。
しかも、皇国軍に従っている間は食事と寝床は皇国が工面してくれる。
食事と寝床が皇国持ちという事は、3/4リルスを丸々貯蓄に回せるのだ。
これは美味しい。
2人が普段やっている郵便馬車の護衛では、1週間の仕事で2~3シアル程度。
旅人の護衛は、3日の距離の町から町へ行くのに1回あたり1~2シアル程度。
しかも毎日のように都合良く仕事が入って来る訳ではないから、
月の稼ぎは2人合わせても15シアルに届かない事が殆ど。
月収20シアル。
つまり正金貨1リルス相当の収入を得られるかどうかが、貧民か否かのボーダーラインと言われている。
1ヶ月働いても収入が1リルスに届かない民を、一般に貧民と呼んでいるのだ。
独身ならば月収1リルスでも貧困に喘ぐ事は無いが、世帯持ちで1リルスだと流石に生活が苦しいだろう。
だが普通は、独身で収入が月1リルスであっても、そのうちの16シアル
くらいは日々の生活費に消えるから、自由に使えるのは4シアルくらい。
月収が2リルスくらいになって初めて、手元に1リルス残しても普通の生活が成り立つようになる。
月収2リルスというのは、平民としてはかなり恵まれた収入だ。
上には上が居るし、富豪になれば月収20リルス以上も珍しくないが、そういう例外的な
層を除いた一般の平民を考えれば、月あたり1リルスを丸々貯蓄や遊行費に回せる人はなかなか居ない。
今回は1人あたり1日で半シアルだから、2人なら日当1シアルで、月に1リルス半も稼げる!
しかも、それは全て貯蓄や遊行費として利用可能な賃金である。
そういう条件を、皇国は提示してきたのだ。
勿論、採用条件はある。
満16歳以上で、犯罪歴が無く、文字(リンド文字)が読み書き出来、“日常的ではない文章”を理解し、健康で武器(長剣を必須とし、他に槍、斧、弓、弩、銃の何れかか全て)の扱いに長ける事。
ここでいう槍や斧とは、ジャベリン、スピア、パイク、バトルアックス、ハルバードである。
まず、文字が読み書き出来ても、あまり日常的でない文章を理解出来る人は、そう居ない。ここで平民の8割以上は脱落するだろう。
自分の名前なら書ける。日常よく使う単語や数字なら読める。という人も、改まった文章が読めるとは限らない。
実際、この皇国の出した“掲示”を読んで理解出来る人が、この村には片手で数えられる程しか居ない。
その中で、リィンは苦も無くすらすらと読みきった。
ファーグルはすらすらとではないが、2人とも自力で読めた事に嘘は無い。
ご丁寧に、本当に読み書き出来るかどうか改めて面接されるとも書いてある。
腕っぷしに自信があっても、代筆屋を雇って嘘をつくリスクは未知数だ。
残る条件は16歳以上で犯罪歴が無く、健康で武器の扱いにも長ける人。
リィンとファーグルは共に16歳。
犯罪歴は無く、幼い頃から近隣の町の教会で手習いをしていたために文字も読めるし四則計算も出来る。
剣術は本物の戦士と比べたら劣るが、同年代と比較すれば一歩抜きん出るくらいの実力はあった。
あとは、短弓の扱いも狩猟や戦闘でそれなりに心得ている。
現代の主力武器である小銃に比べれば威力や射程は劣るが、殆ど無音で使える弓は、上手く使えば依然頼れる武器だ。
射程距離も5シンク(≒10m)から20シンク(≒40m)くらいは見込める。槍よりは長い。
竜や象のような大型動物相手には厳しくても、人間は勿論、狼程度の中型動物相手ならまだまだ現役で使える武器なのが、弓なのである。
採用条件は全てクリアしているのだ。
「でも、何で皇国と? あそこと関わると酷い目に遭うって村の人が……」
「酷い目に遭わないための顔繋ぎ。挨拶に伺うのよ」
「今じゃなくても良いじゃないか。どうせいつか、この辺りにも皇国兵が大勢来るよ」
「こういうのはね、先に名乗り出たものが優遇されるのが世の常なの。村に篭って今までどおり過ごすより、未来の可能性が広がるわ。皇国は未来のお得意様なの。お得意様には挨拶からでしょ?」
リィンの冒険心とファーグルの安定志向で、この2人は丁度良い。
リィンだけでは突っ走り過ぎるし、ファーグルだけでは保守的過ぎる。
幼少の頃から殆ど同じ環境で育ったのだが、両者の違いは一目瞭然であった。
善は急げ。
リィンとファーグルは徒歩と駅馬車で、皇国の出張所が設けられているこの地域の中核都市、マシャール・ペイグまで1週間もかけずに到着した。
歩兵としては合格点の行軍速度である。
マシャール・ペイグは端から端まで徒歩でも20分以内に抜けられる程度の“都市”だが、端から端まで徒歩なら5分もかからず抜けられる“村”に比べれば、広大な場所だ。
もうとっくに昼過ぎなのだが、到着するや否やリィンは宿屋ではなく皇国の出張所を目指す。
荷物を抱えるファーグルは道中へとへとで、一刻も早く宿で休みたかったのだが、そんなの関係無い。
出張所の業務は午後3時の鐘が鳴るまで。今を逃すと、明日の午前9時の鐘までお預けになってしまうのだ。
「私達、皇国軍の先導役に志願します!」
年端も行かぬ少年少女の、それが皇国人との初遭遇であった。




