ノーエルへの訪問(7)
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チコたちが医療院に着くと、入り口の近くに座っていた人が2人に気づいて声をかけた。
「おはようございます。」
「おはようございます。よろしくお願いします。」
糸奈が頭を下げて、その後ろでチコがにこにこしている。
(さっきまであんなにむくれてたのに。すごいなあ。)
「今担当者を呼んできますね。」
「お願いします。」
女性が部屋の中へ入った後、糸奈がチコの変わりように驚きながらチコを見ていた。
チコが糸奈をみてぷいっとそっぽを向く。
「まだ怒ってるの。」
「怒ってないよ。悲しいの。」
「じゃあなんであんなににこにこできるの。」
「お仕事だからだよ。雫にね、どんなに怒っていても悲しくてもお仕事の時はそれを全部頭の箱に一回片付けてお仕事にふさわしい表情と気持ちになるようにって言われてるの。」
「そっか。」
糸奈が何度か頷く。
部屋から出てきた別の女性がチコを見て微笑んだ。
「おはようチコちゃん。」
「おはようございます。「サラサ」さん。」
「今日もふわふわな髪が絶好調にふわふわね。」
「はい。」
「糸奈さんもおはようございます。」
「おはようございます。よろしくお願いします。」
「それはこちらのセリフですよ。チコちゃんは病棟に来てもらって、糸奈さんには薬剤部に行ってもらっていいですか。」
「わかりました。」
「場所は。」
「大丈夫です。覚えていますよ。」
「わかりました。ならチコちゃん行こうか。」
「はい、糸奈またねえ。」
「またね。」
チコの笑顔にまだ戸惑いを隠せないまま糸奈は薬剤部に向かった。
薬剤部はノーエルで使われる薬剤すべてを管理、保管する場所で、医療院の建物の裏に別館として建てられている。
糸奈が建物に入ると、薬剤師資格を取得しているノーエルの人たちや病棟の看護師さん、薬剤帳簿を付ける事務員さんなどがいた。
「おはようございます。魔道良2205室からまいりました。松葉糸奈と申します。」
「おはようございます。」
入り口の方を見ていろんな人たちが糸奈に挨拶をした。
「魔道薬剤保管課へ入りたいのですが。」
「かまいませんよ。こちらにサインだけお願いします。」
事務員の人が渡した紙に日付と名前を書いてエレベーターの方へ向かった。
(元気にしてるといいけど。)
エレベーターで15階に上がり、エレベーターを降りてすぐのところにある鉄製の扉をノックした。
「おはようございます。」
扉を内側から開けたのは糸奈より少し年上といった感じの男性だった。
「「レルク」さん、おはようございます。」
「あー糸奈さん、おはようございます。わざわざありがとうございます。」
レルクが糸奈を中へ通して扉を閉めた。
「その後お変わりありませんか。」
「はい、もらっている在庫の管理は問題なくできています。今発注表を持ってきますね。」
「はい。」
レルクが大きな本棚の方へ歩いて行き、糸奈はそれを見ながらパイプ椅子に座った。
大きな棚の中にラベリングされた瓶や密閉された袋がぎっしり並んでいて、大きな冷蔵庫や報恩器などが並んでいる。
「お待たせしました。」
糸奈が発注表を受け取って目を通す。
「いつもより薬の減りが早いですね。何かありましたか。」
「ご存じありませんか。先週瑠璃湖にモンスターが現れて負傷者が結構出たんです。一般薬剤では治らない患者さんも多くて。」
「そんなことがあったんですか。知りませんでした。ですが、これだけの魔道薬剤を1週間で使うのは少し異常です。この地域は特に魔道薬剤の納品が遅れるんですから下限をして使わないといざという時に足りなくなりますよ。」
「はい。」
レルクが頭をかいた。
「勉強の方はどうですか。」
「結構難しいですね。ノーマルまでは何とか取得できましたが、サードとなると少し。」
「手持ちの免許のグレードが上がれば上がるほど勉強の中身も濃くなりますからね。」
「はい。」
「ですが、その分より強い魔道薬剤も使えるようになりますよ。」
「それはそうなんですけどね。松葉さんはどうですか。」
「相変わらずですね。仕事の片手間で勉強中です。」
「既にシルバー免許は取得積みでしたよね。」
「はい。」
「すごいなあ。次はゴールドですか。」
「はい、レルクさんもきちんと勉強を続ければ、シルバー免許だって取れますよ。」
「いやー。」
「レルクさんが立派な薬剤師になることを期待しているノーエルの人たちのためにも。」
「松葉さんは平気な顔をしてそういうことを言いますよね。結構プレッシャーなんですよ。」
「そうなんですか。」
「僕自身が薬学に興味を持っていたので、勉強をしに行ったのであって、魔道薬学に精通することになるとは思いませんでしたよ。普通の薬学より難しいですし。」
「それは否定しませんが。」
レルクがため息をついた。
「僕も松葉さんのように早く杯ランクの資格が取りたいです。」
「まずはサードですね。」
糸奈がそう言いながら鞄を開け、茶色い封筒を渡した。
「どうぞ。」
「失礼します。」
「はい。」
レルクが目を通していく。
「新しい薬剤ですか。」
「そうです。今回はレルクさんでも使用できるものを中心にまとめてきました。」
「ありがとうございます。」
「低レベルの薬剤師か使えないから、薬剤の減りがどうしても早くなるんです。」
「そうですねえ。」
魔道の力を使って作った薬剤を魔道薬剤と呼び、一般的な薬剤とは取り扱い方法が大きく異なるため、魔道薬剤師という別の資格が設けられ、一般の薬剤師と区別されている。
魔道薬剤師は4段階に分かれていて、下から順にノーマル、サード、シルバー、ゴールドとなっている。
取得している資格のランクが上がるほど、取り扱うことのできる魔道薬剤が増えていく仕組みで大学で勉強したり、実習に行ったり、通信教育を受けたりという条件を満たすことで取得できる。
糸奈は魔道薬剤師シルバー免許を持っていて、レルクはノーエルでたった1人の魔道薬剤師だ。
魔道薬剤師の資格は簡単に取れるものではない。
レルクは2年前にようやくノーマル免許を取得し今サード免許の取得のために勉強中だ。
「レルクさんなら魔道適性検査はゴールドまで問題なく通過できるでしょうから、やはり問題は学習面ですかね。」
「はい。」
「サードならまだ配合論や薬剤政策論は試験範囲ではありませんよね。薬剤使用方法論や薬剤座学の問題ばかりで、しかもマーク問題ばかりでしょう。」
「その薬剤座学がややこしいじゃないですか。スパイラル成分の計算方法とか一つ一つの薬ごとにある利点と問題点とか。」
「覚えれば終わりですよ。」
「その覚えるのが大変なんです。」
それからしばらく糸奈とレルクは魔道薬学に関する話で盛り上がった。
一方チコはサラサと一緒に医療院の病棟に入っていた。
「なんで患者さんが多いの。」
病棟にあるベットのほとんどに患者が横になっている光景を見てチコがサラサを見上げた。
「先週瑠璃湖でモンスターが現れて、負傷者がたくさん出たの。魔道薬剤と一般薬剤の併用投与と一般治療を続けているけど、なかなか容体の安定しない患者さんが多くて。」
「すぐに治療するね。」
「お願い。」
病棟の中でも特に容体の重い患者さんが集められた治療室にチコが入り、患者を見る。
「何人ぐらいいる。」
「150人ぐらいかしら。」
「他のお部屋にもいるよね。」
「ええ、でもこっちの人たちを優先して。」
「わかった。」
チコが早速女性の肩に触れた。
「呼吸が荒いし、少し熱もあるね。何かの病気。」
「いいえ、先週の騒動でけがをしてそこから黴菌が体に入ってしまったみたいなの。お腹に赤ちゃんがいて強い薬が使えないけど、早く細菌を倒さないと赤ちゃんにも影響が出るかもしれなくて。」
「わかった。」
チコが肩に手を当てたまま目を閉じた。
「サーチ魔法アムストラクレートリッヒホルテシオ。」
チコの頭の中に女性の体の状態が図式化されて浮かび上がっていく。
体の悪い部分が赤く光るのだ。
「ほんとだ。足をひどく切ったんだね。そこから黴菌が入ってきてる。」
チコが肩に当てた手をそっと動かした。
「ヒーリング魔法。ステーフィル、アクアネル、スキーね。」
チコの手から暖かい光が現れて女性を覆った。
女性の顔から苦痛の色が消えていく。
「これで大丈夫だよ。お腹の赤ちゃんも問題なさそう。」
「ありがとう。次の患者さんは隣のベットよ。」
それからチコはベットに横になる患者を次から次へと治していった。
「この患者さんは肺炎がひどいの。」
「この患者さんは先週骨折したの。」
「この患者さんは貧血が良くならなくて。」
「この患者さんは出産の疲労でかぜが悪化してしまって。」
お昼前に病棟に来たチコは15時ぐらいまでずっと魔法を使い続けた。
疲れないわけがない。
それでもチコはひたすら患者さんの回復のために自分の魔力を当てた。
捉え方によっては女神にすら見える。
「次の部屋に行こう。」
「チコちゃん大丈夫。今日はいつもより患者さんの治療をしてもらっているわ。」
「大丈夫だよ。」
病室を出た時、チコのお腹が鳴った。
サラサが微笑んで立ち止まる。
「少し休憩にしよう。美味しいお菓子があるの。食べる。」
「うん食べる。」
病棟の廊下でソファーに座り、チコが袋に入ったマカロンをパクパクと頬張っている。
その横でサラサがチコを見ていた。
「サラサ先生どうしたの。」
「うーん、チコちゃん凄いなあって思って。」
「そんなことないよ。チコより治癒魔法の上手な人はいっぱいいるよ。」
「たとえば。」
「雫とか。」
「そっか雫さんは何でもできるのね。」
「うん、雫は凄いよ。何でもできるの。」
「松葉先生も凄いわよねえ。」
「糸奈。」
「そうあんなにたくさんの魔道薬剤を使いこなすことができて、それに教え方も上手じゃない。」
「ふーん。」




