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実家の雫(22)

 22

 22時15分、予定より45分早く終わった木雪と雪子と雫の話し合いの後、雫は行きに通った道を何となく思い出しながら控室に戻ってきた。

(念のためノックだけ。)

万が一のことを考えて雫はスリーノックをする。

(この建物、何となく出開けたら違う人の部屋だったってことがしょっちゅうだから。)

「どうぞ。」

(えっ!)

かなり疲れたコンディションで何とかポーカーフェースを保って廊下を歩き、やっと一息つけると思って部屋に入ろうとしていた雫の目が点になる。

(しまった、間違えたー。何も言わずに離れるわけにもいかないし。簡単に挨拶して事情を説明して退散しよう。)

雫がゆっくり扉を開ける。

「失礼いたします。」

「お疲れ様ー。」

(えっ!)

雫の開けた扉の向こうには、確かにさっき雫の使っていた部屋が広がっている。

雪子のオフィスの半分くらいの広さの室内には、この建物の中で統一されているシリーズ物の家具一式とそれなりに立派なカーテンが取り付けられた窓、応急処置用の医療用具から諸々が入った引き出し。

(もしかして私が間違えたんじゃない?だとしたら。)

「よく森崎が通しましたね。」

「今大慌てで飲み物準備してくれてるよ。でもこんなに早く終わるとは思ってなかった。森崎さんも一緒じゃないかな。それより何でそんなところに突っ立ってるのさ。君の部屋なんだから入っておいでよ。」

「そうですね、そうさせてもらいます。」

(もう、次から次へと何なのよー。)

雫は扉を閉める。

そしてそのまま扉にもたれかかった。

(だめ、疲れた。)

「大丈夫。」

部屋の中にいたのは雫と同い年くらいの男性。

かっちりとしたグレーのスーツを着ていて、耳にはオレンジ色の雫の形をしたイヤリングを付けている。

「大丈夫、ちょっと疲れただけだから。だからこっちに歩み寄ってこなくていいわよ。そこに座って待ってて。」

雫はさっきまでの敬語をやめて普通の話し言葉で相手と接する。

「さすがにだめでしょ。今にも倒れそうなくらいふらふらしてる女性を目の前にして何もしないっていうのは、木漏れ日の紳士として。」

「木漏れ日の紳士として女性の意向は十分に聞き入れるべきよ。それが幼馴染の頼みならなおさらね。」

雫がすかさず言葉をつづけた。

立ち上がっていた男性が溜息を一つついて座り直す。

(体調が悪いわけじゃない。精神的疲労が体に出てるだけだわ。春宮様との話し合いまではまだ時間があるし、どっちにしろ本邸に帰って休むつもりだったから、今はこれでいいとして、問題は。)

雫が少し体をドアに押し当てて、反動を起こして立ち上がる。

「それで何しに来たの?「椛」。そのイヤリング付けてるってことは、仕事帰りなんでしょ?」

雫がゆっくり歩いて椛の正面に座る。

(ちょっと熱っぽい?ストレスか。)

雫は右手に水のスパイラルを集め額に当てる。

実際に濡れることはないが、多少体温を下げることはできる。

「そうだよ。帰って直行したの。でも、そんなことされながら聞かれても気を使って答えられないんですけど。」

「気にしなくていいわ。どっちみち今を逃したらしばらく話聞けないわよ。久しぶりに私が帰って来てるからこんなところまで押し掛けたわけじゃないんでしょ?森崎がここに入れてることを踏まえても何かあったから私のところに来たんじゃないの?」

「そうだけど。」

「大したお構いもできませんが、お早くどうぞ。」

(あー力が抜ける。木雪さんとか雪子さんに比べたら椛は気楽に話せる相手だけど、ここまで脱力するのはやっぱり。)

「じゃあお言葉に甘えて。」

椛は、右手で命のスパイラルの象徴印を描いて雫に飛ばす。

雫なら簡単に防御できたがあえて交わさなかったのは、椛に対してそれなりの信頼を寄せているからだ。

「我こそは癒しの「天医」「リラクス」の加護を受ける者にして、ロイヤルブラットが一つ木漏れ日家の眷族なり。回復魔法精霊の労わり。」

雫の正面でくるくると回っていた命のスパイラルの象徴印が、雫の体に弾けてちっていく。

「また腕を上げたのね。」

「無理ばっかりする誰かさんみたいな人が、案外社会には大勢いるんでね。」

「そうね、私の周りにもたくさんいるわ。」

「君は周りじゃなくて自分を見ようか。」

「はーい。」

雫が右手を額から離して目を閉じる。

(精霊の労わり、身ではなく魔を癒すことで、派生的に身の回復にも繋がる治癒魔法の一つ。チコがもっともっと魔道士としての腕を上げたらこれくらいはたやすくできるようになるんだろうなあ。)

「はいこれどうぞ。」

雫がうっすら目を開ける。

「そんなのこの部屋にあるのね。」

「何でもあると思うよ。」

椛が雫に大きめのブランケットを掛ける。

「あとこれも。」

それからこれまた少し大きめのクッションを雫の右側に置く。

「はい寄りかかってウトウトしてな。」

「うん。」

雫がゆっくり呼吸をしながらクッションに体を預ける。

「やっぱり僕雫の専属使用人になろうかなあ?いつもこんな調子だと体持たないでしょう。」

雫が小さく笑って首を振る。

「だめ、私の使用人は森崎一人で十分よ。それに、椛には今の仕事続けてもらった方が私にとっては助かるの。」

「それって雫が助かるというよりもチコちゃんのことだろ。」

「うん。」

椛が自分の座っていたところに座り直す。

雫はうっすら目を開けて椛を見ている。

「寝なくていいの?」

「ええ、どっちにせよ23時から約束があってね。まだしばらくは眠れないし、椛の話聞いてない。」

「覚えてたか。今日はもういいよ。森崎さん帰ってきたら僕は帰るから。」

「それはだめでしょう。聞かせて、何があったの?」

雫がゆっくりクッションから体を起こす。

「分かった、分かった。話すからまだ横になってなよ。」

雫が椛の返事を聞いて言われた通りクッションに寄りかかる。

「チコちゃんから何か連絡来てる?」

「えっ。」

雫が目を見開いて慌ててカバンに手を伸ばす。

「バタバタ動かない。血の巡りが追い付かないよ。」

雫は無言で連絡専用のアプリを一通り確認していく。

「来てない。」

(何かあったら言ってくるはずなのに。)

雫の視線が定まらない。

「落ち着いて、心配しすぎだよ。」

椛がさっきとは違うスパイラルの象徴印を描いて雫に飛ばす。

「ヒーリング魔法、ドロップ。」

雫の周りでまたスパイラルの象徴印が弾けた。

「落ち着いたかな?」

「ええごめんなさい。」

(取り乱しやすくなってるな。やっぱりどこか調子が崩れると軒並み全部崩れるな。整えないと。)

雫が数回ゆっくり深呼吸をする。

「続けて。」

「だからこういう時の雫に話したくないのに。」

「時間がないの。お願い。」

雫の顔は全力で真剣だった。

 椛が話したのは、今日チコが緑王女と口論になって王城を出て行ったという内容だった。

話を最後まで聞いた雫は、途中で割り込むことはせず、ただ黙って聞いていた。

それに少し驚きながら、むしろ若干恐怖すら感じながら椛は話を終えた。

「こんな感じなんだけど。」

椛では今の雫の感情を読み取れなかったのだ。

「怒ってる?」

「何で、ありがとう椛。本当に助かったわ。」

(今までのチコなら王城を出た段階で私に連絡してきたと思う。でも今回は一切連絡がない。稲穂さんからもなかった。私が実家にいることに気を使って連絡をしなかったとかならまだいいんだけど、トニーさんとかチコリータ家の情報部が連絡を制限しているとかってなると少し大ごとになるわよ。何より今回のことを受けてチコの精神が穏やかなわけないだろうし、場合によっては。)

「言葉と表情が全然噛み合ってないんだけど。」

「考え事してるから、ごめんなさい。ねえ椛、椛の話だとチコは緑王女と口論になったというよりは、緑王女が一方的に取り乱したって感じよね?」

「そういう風に僕には見えたけど。チコちゃんと警備関係の偉い人が二人で会場に戻ったら、緑王女がすごい剣幕でチコちゃんのところに行ったんだ。それで3人で退席したよ。」

雫が椛を真っすぐ見る。

(この顔はまだこの先を調べてるな。私の様子を見ながら話すか話さないかの判断をしようとしてる。相変わらず優しいな。)

「それで?」

雫がさっきまでの張り詰めた空気を少し緩めて首をかしげる。

「えっ!」

椛が首をかしげる。

「えって、続きは?知ってるんでしょ?」

「さっきの「こんな感じ」だって終わりって意味だったんだけど。」

「うん、分かってる。第1部が終わったってことでしょ?そこから先調べてると思ったんだけど?」

雫は決して椛から視線を逸らさない。

(思ったよりしぶるなあ。)

「雫にこんなことを言うのは心苦しいんだけど、僕だって一応この界隈を生業にする仕事に就いて長いんだ。そうやすやすと伝えられないよ。」

椛が露骨な態度で肩をすくめる。

「そうそれは仕方ないわねえ。」

(そう、そんなに重い内容なのね。)

椛の答えから雫が推測する。

(退席した、そして3人で話したのね。それからチコは王城を出た。まだ今日の業務は残っていたのに。)

「椛。」

「何。」

「その警備関係の偉い人の名前だけ教えてくれない?」

「あー、そんなことでよければいいよ。フェルートガーノーさん。」

(フェルートガーノー、確かチコの緑王女の専属護衛に否定的な人だ。厳密に言うと、チコが魔道良勤務と緑王女の護衛を兼任していることに否定的な人だ。確か理由は、保身的な類じゃなくて。)

「依存関係への懸念ね。」

雫の呟きに椛がにやっと笑って答える。

「そこから派生して考えてごらんよ。最悪の一歩手前ってところだけど、チコちゃんの置かれてる状況は最悪だろうね。」

「なるほど。」

(最悪の一歩手前、チコにとっての最悪はいやそれを齎す可能性の高いチコリータ家にとっての最悪は、チコが緑王女の護衛から外されること。その一歩手前ということは、緑王女から一時的に距離を置かされたって辺りか。今後のことは予想団、ひとまず明日チコが魔道良に来れるかどうかがポイントね。私に報告するかどうかはこの際大した問題ではないか。むしろたぶんチコは言わない。)

雫の溜息に椛が溜息で返す。

「優しい僕に何か言うことはないのかな?」

「あー、ありがとう椛。あなたがそこに居合わせてくれたのは驚くべき偶然だけど、何よりそこから私を思い出して伝えに来てくれたことに心から感謝するわ。私は何もお返しをしていないから、私にできることがあったら何でも言って。」

椛の目がキラキラする。

(はいはい、いつもの下りが始まるのね。)

「ほんと?」

「ええ、本当。面倒事はごめんだけど。」

「じゃあ僕と婚約してよ。」

「お断りします。」

「何でさ、僕いい人材だと思うんだけどなあ。別に雫が魔道良で働き続けるのは大賛成だし、僕の仕事は王城と自宅の往復だけで済むからさ、ほとんどの家事は僕に任せられるよ。それに君が疲れて帰ってきたら、今日みたいにいくらでも魔法で癒してあげられる。何より、幼馴染として雫だって僕とは気兼ねなく話せるだろう。悪くないじゃないか。」

「自分の胸に手を当ててもう一回考えてごらん。」

「何を。」

「私と婚約したいのか、周りからの結婚しなさいという重圧に苦しんでいるのか。もしくはその他か。」

「分かり切ったこと聞くね。」

「でしょうね、毎回毎回会う度に言われたらそうなるわよ。だから返事はいいえなの。」

「そっかあ、やっぱり幼馴染ってポジション悪いよなあ。」

「あら、私と幼馴染は嫌だった?私は助かってるんだけど。」

「そこには損得感情しかないだろ。」

雫がくすくすっと笑ったタイミングで扉がノックされた。

「じゃあ私帰るわね。クッションと毛布あといくつかの魔法をありがとう。余計なお世話でしょうけど、椛の持ってる加護はとても希少でたくさんの人が欲しがる物よ。自分を大切にね。」

「雫には言われたくないよ。人に苦言を呈することができるのは、それを自分が実行できている人だけだ。僕にそれを言いたいなら、まずは雫が自分を大切にして見せな。」

雫が澄ました顔で声を出さずに微笑んでから扉の方へ歩いて行った。

(大きなお世話に大きなお世話で返されちゃった。)


 雫が扉を開けると目の前に森崎が控えていた。

(タイミング良すぎね。)

「今着いたって感じではないわね。タイミングを見計らっていたの?」

森崎は無言で首を横に振る。

(手元に少なくとも飲み物は無し、そして森崎の沈黙と目の動かし方からして。)

雫がゆっくり控室を振り返る。

(いない。)

窓に掛けられていたカーテンが若干開いている。

雫が長い溜息をついた。

「帰りましょうか。」

「何があったのですか?」

「帰ってからね。」

 森崎は車で雫を迎えに来ていた。

「本邸で着替えてそのまま別荘ね。」

「畏まりました。あの先ほどまで何を。」

「その前に聞きたいんだけど、さっきまでずっと別荘にいたの?」

「はい、雫様を雪子様のオフィスにお送りした後、春宮様付きの使用人と打ち合わせをして魔具の譲渡の諸手続きを行っておりました。」

「それで小一時間もかかる?いつももっと早いでしょう。」

「往復の時間や書類の準備等も行いますと、それくらいはかかる時もあるという程度でしょうか。わたくしといたしましては、雫様のお話合いが予定以上に早く終わったことに驚いているのですが。」

「それはね、開始も遅かったのにあんなに早く終わるとは思わなかったわ。」

「何分ほど控室でお待ちいただきましたか?」

雫が腕時計を見る。

「15分くらいかしら?」

「大変申し訳ありませんでした。」

「いいえ、それは全然構わないのだけれど。」

(そうなると、まんまと椛に一杯食わされたことになるわね。自力で私が予約した控室を見つけ出すところまではいいとして、受付を通過して、平然と私の控室に入って私の帰りを待ち、森崎の到着に私より先に気づいて私が帰るように誘導し、気づかれないように窓から現場を離脱。きっと森崎の動向は全部椛には見えていたのね。そして、窓からの撤退方法は、私が来る前に計算済みだったかな。まったく。)

「それで控室で何かあったのですか?」

森崎がさっきと同じ質問をする。

(黙っててもいいけど、どうせすぐにばれるな。)

「椛がね待ってたのよ。」

「あっ。」

(森崎の運転が一瞬荒くなったような気がする。)

「何もありませんでしたか?」

(あらー、声が震えていらっしゃる。)

雫は微笑んで首を横に振った。

「当然、何もなかったわよ。ただ、チコのことで気になったことがあったみたいでね、伝えに来てくれたみたい。」

「であれば、正規の手続きを取ってお越しいただかないと困ります。いつ誰がどこから見ているか分からないのですよ。雫様ももっと行動には気を付けてください。」

「森崎さん、それはとばっちりかなあ。私だってちょっと椛に騙されてたの。森崎は椛を控室に通してて、飲み物を準備してるって聞いたから。」

車内の空気が一気に凍り付いた。

「雫様は、わたくしが雫様の使う控室に客人を入れたまま、長時間退席するとお思いなのですか?」

森崎の声のトーンが四つほど下がる。

(あっ、地雷があった。言い訳は逆効果だったか。)

「いえすみません。私の行動が軽率でした。以後十分に気を付けます。」

(椛めえ。)

雫が心の中で椛を全力で睨んでいることには大して気にも留めず、森崎は質問を続ける。

車内の空気が少し暖かくなった。

「いつお帰りになったのですか?」

(こうなったら何でもありでしょう。)

「森崎が来たタイミングで帰ったわよ。」

「わたくしは廊下でお会いしておりませんが。」

「だって廊下から帰ってないもの。窓から出て行ったから。」

「7階ですよ!」

「空飛べる魔道士にとっての地上7階の高さは、大したことないでしょう。それも椛よ、木漏れ日家王室関係局情報収集・統括管理部門第5中枢が第3中枢よ。裏方も表の仕事も大体できる人だもの。誰にも気づかれずにターゲットと接触して、誰にも気づかれずに現場を離脱するくらいなんてことないでしょうね。本当的に回ってなくて助かるわ。持つべきものは幼馴染ね。」

「気を付けてくださいよ。」

「分かってる。でも持ってきてくれた情報は本当に得難かったから、くれぐれも失礼のないようにね。」

「畏まりました。その件についてわたくしにできることはありますでしょうか?」

「うーん、しばらくは待機ね。何かあったらこちらからお願いするわ。」

「承知いたしました。」

 本邸に着いた雫はおそらく本日最後になるであろう正装に着替える。

「今日何回目の着替え?」

「ご自分で記憶していないことを私に聞かないでください。」

「はーい。」

(後は春宮様と話せば終わる。)

「そういえば雫様、体調の方はいかがですか?普段であれば、既に倒れ掛かっておられる時間帯ですが。」

「あー大丈夫、椛にいろいろ整えてもらったから。」

森崎の顔が引きつる。

「ただ精霊の労わりと何かしてもらっただけ。それ以上はなにもありません。」

「分かりました。」

(まあ森崎が心配するのはごもっともなんだけどさ。)

雫が籠カバンの中を確認して頷く。

「これで最後よ、さっさと終わらせて寝るわ。」

「はい。」


 23時少し前、雫はまたまた春宮邸別荘を訪れていた。

「23時以降春宮様とお約束をしております。」

「畏まりました。」

(この警備の人、お兄様との夕食に来た時からずっといるから私と会うの3回目だ。また来たって思ってるんだろうなあ。)

雫は森崎を振り返る。

「ではまた待っていてください。」

「行ってらっしゃいませ。」

森崎は丁寧に雫に頭を下げる。

それを見て雫は別荘に入っていった。

(森崎って眠そうな顔しないよね。たぶん仮眠なんて取ってないだろうし、今からだって私が帰る前にお風呂沸かしたり明日の予定をまとめたりしてくれるはず。私より早く起きて私より遅く寝てるのに、私の睡眠時間が6時間弱ってなったら、森崎っていったいいつ寝てるのかしら。)

雫は階段で2階に上がり、廊下を奥へと進んでいく。

「こちらで少々お待ちください。」

使用人に促されたソファーに座った雫は、そっと籠カバンの中のスマホを見る。

(22時58分。さてと、少し待つかなあ。)

「雫様、よろしければご覧ください。」

雫の前に小さいがしっかりとしたテーブルが用意され、そこに雑誌や小説が5冊ほど積まれている。

「お飲み物や軽食のご用意も可能ですが、いかがなさいますか?」

(あーこれは待つやつだ。))

「ではホットのストレートティーと、常温の菓子をいただけますか?」

「畏まりました。」

「あともう少し手元を明るくしたいのですが。」

「準備いたします。」

(ここの廊下は本を読むには少し暗いのよねえ。読めなくはないけど目が疲れる。それに、ここの使用人はお願いしたことは99%叶えてくれる。)

雫の予想通り、テーブルとその反対側に簡易の照明器具が置かれ、雫の周りはかなり明るくなった。

「ありがとうございます。」

「こちらに紅茶と軽食を。」

「はい。」

(違う部屋に通さなかったということは、私の前に複数人先客がいるってわけではないんだろうけど、ここまで持て成されるということは、今春宮様と会ってる人が長くなるってことよね。明日の朝のご挨拶に回せれば良かったんだけど、そうすると魔道良に遅刻するしなあ。やっぱりこれが最善化。突然の申し込みだったから仕方ないわね。)

雫が籠カバンを自分の隣に置いてテーブルに置かれた本を1冊手に取る。

(紙媒体の本って久しぶりかな。最近はずっと電子データだったもんなあ。あっ、これって前彩都が読んでたやつだ。とその前に。)

雫は本を膝の上に置いて紅茶をゆっくり飲み使用人を見る。

別荘の使用人はよく教育されていて、目が合っただけで相手に用件があるかが分かる。

「いかがなさいましたか?」

「一つお尋ねしたいことがありまして。」

「何なりと。」

「先ほどこちらのスモールドームを一ついただきましたから、わたくしの持っていた同じ魔具を別荘にお渡しいたしました。使用人に手続きを任せたのですが、滞りなく済んでいますか?」

「はいその件に関しましては、滞りなく済んでおります。お気遣い恐れ入ります。」

雫がゆっくり頷いて本に視線を落とした。

(さて、元々興味はあったから読むか、本を読むふりだけして仮眠を取るか。でもここでウトウトすると、わざわざ照明つけてもらったのに悪いかなあ。そもそもここで寝るのはまずいな。私が春宮様との面談に慣れ切ってるというだけで、本当はもっと背筋を伸ばさないといけない類のことなわけだし。)

こうして雫は彩都が以前読んでいた小説を本格的に読み始めた。

雫は文字を読むことに慣れている。

速く読むことにも慣れている。

要点を抑えながら読むことにも慣れている。

すべては、世代代表の仕事をこなすようになってから読まないといけない文章の量が圧倒的に増え、使用されている語彙のレベルも一気に抽象度を増したから。

普通の小説1冊なら2時間くらいで読める。

(確か彩都がこれを読んでたのって2か月くらい前よね。読書の趣味が高じて世界が広がってるようだし、明日話題にしようっと。それにしても、彩都の読書仲間が早く見つかればいいんだけどなあ。)

 雫が本を読み始めて30分が経った。

すらすらと本を読みながら時折その手を止めて紅茶やお菓子を食べる光景は、様になっている。

絵に描いても写真に撮っても映像に収めても品があり美しい。

衣装の効果も相まって、ただ待ち合わせのために人を待っているようには見えないのだ。

ただ、内心では雫がどう思っているかは伝わらない。

(長いなあ。分かってたけど、長いなあ。日付変わっちゃうじゃん。もう30分は経ってるし伺ってみるかな。)

雫が本を膝の上に置いて顔を上げる。

おのずと入り口の近くに控えている使用人たちと目が合う。

「大変長らくお待たせしており、申し訳ございません。」

「いえ問題ありません。突然お願いしたのはわたくしですから、お会いできれば十分です。ただ春宮様になにかあったのではないかと思いまして。表の席への出席などでご気分が優れないのであれば、わたくしが日を改めてもいいのですよ。」

遠回しに中の様子を教えろと言っているのだ。

「いえ雫様にそのようなことをしていただく必要はございません。雫様とのお約束の前にどうしても春宮様と面会をしたいとおっしゃる方がおられまして、その方とのお話合いが長引いているのです。」

「そうですか、よほど大変なお話なのでしょうね。わたくしはこのままもうしばらく待たせていただきますから、お気になさらず。」

使用人が雫に一礼する。

雫は本を開いた。

(これで先客がいることは確定。たぶん目の前の部屋にいると思うけど、場合によっては下のフロアーにいるかもね。それにしても少なくとも30分かかってる突発的な面会による話し合い。長いわねえ。)

と雫が考え事をしていると、使用人が動いた。

慌ててスマホを取り出し耳に当てる。

「畏まりました。」

この声は雫にもばっちり届いている。

(困ってる時の人のトーンだ。何かあったのね。場合によっては今日帰らないといけなくなるかも。)

「雫様。」

「はい。」

知らんふりして本を読み進めていた雫の前に使用人が来た。

雫は返事をして本を閉じる。

「お待たせいたしました。どうぞお入りください。」

「分かりました。紅茶と軽食美味しかったです。ありがとうございました。」

雫は本をテーブルに戻してゆっくり立ち上がる。

籠カバンを左手に取りながら軽く動いてドレスの形を直す。

(この空気と使用人の反応からして、芳しくないのね。たぶんだけど、廊下を開けて春宮様を通したいのか、既に春宮様と来賓がいて、そこに私が入って行くのかの2択。)

雫は扉の前で立ち止まりスリーノックをする。

「失礼いたします、雫です。」

「入りー。」

帰ってきたのは春宮の声だった。

(あまりにできすぎている。30分きっかりっていうのも人為的だし、春宮様狙ってたかな。)

雫は扉を開けて室内に入る。

「高六」の間、春宮が人と会う時に使う比較的スタンダードな部屋だ。

雫は扉を閉めて改めて深々と一礼する。

そこには春宮と面会に訪れていた男性が向かい合って座っていた。

少し独特なのは、春宮の座っているソファーと男性の座っているソファーの間にかなり距離があり、春宮の座っている場所のフローリングが10cmほど高いこと。

室内の入り口から入って手前3分の2のスペースよりも春宮のいる奥3分の1のスペースの方が高いのだ。

(春宮様の機嫌が悪い。)

これでも小さい時から春宮との交流のある雫が直感で察する。

「春宮様ご挨拶申し上げます。」

(私の役割はたぶん。)

雫の声を聞いた男性が慌てて雫を振り返る。

(誰だろう。春宮様を不快にさせてるのはこの人で間違いないと思うけど。)

雫は男性の顔をほとんど見ず春宮を真っすぐに見る。

その振舞に男性の表情が険しくなる。

(たぶん木漏れ日の血縁じゃない。使用人でもない。外部の人間がここまで入って来てるなんて。面倒事なんですね。特に名前のないパーティーにわざわざ足を運んだ人なんだし。若いなあ。私より年下だ。)

「よう来たな。雫こっちおいで。」

「はい。」

雫は春宮にのみ華やかに笑って前に進む。

(ここで演出するべきは、この来賓の人出はなく春宮様を贔屓する私の顔。この人に疎外感を与えるための振舞。)

雫は大きな段差の前で立ち止まった。

来賓から見て春宮の左側に立ち改めて春宮に一礼する。

その所作は誰にするよりも丁寧で優雅で上品で美しい。

(状況が全然分らん。アドリブで何とかやり過ごせとおっしゃいますか。まったく。)

「本日はいかがなさいましたか?春宮様。」

「雫ご挨拶し。」

春宮が久しぶりに男性を見た。

雫が入ってから春宮と雫の間で世界が作られたかのように男性は輪の外だった。

(やっぱり狙ってるな。これは。)

「はい春宮様。」

雫はゆっくりと男性に向き直る。

「ごきげんよう、ご挨拶申し上げます。わたくし当主候補比率保持者トータルランキング第8位、魔道良担当及び雫白羽の世代世代代表を勤めております、木漏れ日雫と申します。以後お見知りおきいただきますよう、何卒よろしくお願いいたします。」

雫は型に嵌った自己紹介を述べ丁寧に一礼した。

(それで?)

雫は白々しく振り返るのを必死に我慢して春宮からの指示を待った。

「雫、正面に掛けてお話してくれるか?」

「畏まりました、春宮様。」

(この来賓の人の相手をしろということか。うん?たぶんこれ春宮様ここから先何も話す気がないぞ。えっ、私この人が何のためにここに来てるのかなんて知らないんですけど。)

雫は男性の正面にあるソファーに座る。

男性の視界には手前に雫、奥に春宮が見えている。

しかし雫には春宮の表情が見えない。

 (さてと。)

雫は余裕たっぷりな笑みを浮かべている。

ただし内心は焦りまくっている。

(こういうのは「百合」の仕事でしょう。私の専門じゃないし。ひとまず分析。)

「申し訳ございません。お待たせをしてしまいましたか?」

「いえいえ、まさかこのような美しい場所で春宮様のみならずかの有名な雫さんにもお会いできるとは思っておりませんでしたので、大変光栄に存じます。」

(焦ってる。言葉の量で押し切ろうとしている。少なくともこれまでに魔力の使用は見られない。)

「そのようなことは決して。ところで大変失礼かとは存じますが、あなた様のお名前と本日のご用向きをわたくしにもお聞かせいただけますでしょうか?」

「あー、大変失礼いたしました。わたくし「中都」と申します。この度ロイヤルブラット木漏れ日の年次中間報告に伺いました。」

「中都様、お話はかねがね。すぐに気づけず大変失礼いたしました。」

(中都、民間のロイヤルブラット取りまとめ会社の偉い人だ。でも春宮様は目には見えないタイプのぞんざいな態度を取ってる。私も顔は知らなかった。中都って名前は知ってるのに、この人は知らない。やっぱり駆け出しなんだ。となると。)

「年次中間報告であれば、定期的にこちらから使者を派遣し、ご報告に伺っていると思うのですが、こちらに何か不備がありましたでしょうか?」

「いえ、不備というわけではないのですが、ご報告をいただいていない内容があるのではないかと社内で議論になり、その事実確認に伺いました。」

「さようでしたか。具体的にはどのような内容でしょうか?重ね重ねご説明の重複となりお手数をお掛けいたします。」

「あーいえ問題ありません。その。」

中都が雫の後ろでソファーにゆったりと腰掛け、退屈そうにこちらを見ている春宮の顔色を伺う。

(まあ、もう十分春宮様と話してるだろうから疲れてるだろうなあ。それに、春宮様と対峙するにはこの人は少し浅すぎる。)

「中都様いかがなさいましたか?お顔の色が優れないご様子ですけれど、また日を改めてお越しいただいても構いませんよ。」

雫がゆっくり首をかしげて尋ねる。

「いえ大丈夫です。」

(こちらの空気に飲まれてるようじゃたぶんそっちが切り出したい私たちにとって都合の悪い案件は答えてもらえないよ。)

春宮様が長い溜息をついた。

「雫。」

「はい。」

雫がすらりと立ち上がり男性の座るソファーの隣に行って姿勢を正す。

男性が慌てて雫を見た。

(あなたに背中を向けるわけにはいかないでしょ。)

雫が中都のソファーの隣に行ったのに深い意図はなかった。

ただ所作としてこっちの方が綺麗だったからだ。

しかし中都にはそれが怖くてたまらない。

「中都さん、お話は端的にかつ明白になさるべきですよー。これでは埒が明きませんさかいまたお越しいただけますか?もうこんな時間ですし、そちらもお疲れのようですし。」

「しかし。」

(あっ切れる。)

一瞬の春宮の瞳の動きから察した雫が割って入る。

「中都様、恐れながら差し出口をお許しくださいませ。」

雫がソファーに回って中都の左に立つと、中都は反射的に雫と向かい合う。

しっかりと正装をしどんな華やかな席に出席しても決して引けを取らない雫が中都だけを見つめて話し始める。

「物事にはどんなものにも押し時と引き時がございますね?」

「はい。」

中都は雫に圧倒される。

(うわ、これじゃ無理だよ。何で春宮様に直談判なんかしに来たの。)

雫が中都の同意に嬉しそうに頷いて答える。

「そして、今は中都様にとっての押し時ではないのです。薄々お察しになっておられるでしょう?」

雫の諭すような声質に中都がどんどん小さくなっていく。

「中都様が気にかけていらっしゃることは既に春宮様が把握されました。そちらから後日改めて足をお運びいただいても構いませんし、こちらから文書や音声メッセージなどの媒体を使って回答をお伝えすることも可能です。」

雫が少し間を置いた。

(最後の一押しはやっぱり組織かな。)

「そうした方が本日無理をするよりずっとお互いにとって有効的な結果になるかとわたくしは考えますが、いかがでしょう。」

ここまでされて中都に反骨精神は欠片も残っていなかった。

(後は、何でこの人がここまで今回に固執したのか事情聴取かな。)

「中都様エントランスまでお送りいたします。もう夜も遅いですし、せっかくお越しいただいたのですから、これくらいはさせてください。」

雫が春宮の方に視線を向ける。

春宮は満足げに頷いた。

「それでは春宮様これで失礼いたします。」

雫の挨拶に合わせて中都も一礼する。


 高六の間に戻ってきた雫は、丁寧に一礼してソファーに座る。

さっきまで置かれていた春宮に背中を向ける位置のソファーは撤去されている。

「おおきになあ。助かったわ。人を叱るっちゅうんはエネルギー使うからなあ。」

(もういい、もう日付も変わってるけどもういい。)

「春宮様ご説明いただけますか?」

「あー、顔を立てたっていうんかな。」

「中都のご子息のですか?」

「せやね、無下にするわけにもいかんやろ?」

春宮はさっき座っていたソファーに寝そべって寛いでいる。

「つまり追い返す口実に私は使われたわけですね。」

「しゃーないやん、30分付き合ってあげたけどあんな感じやってんもん。あれじゃ埒明かんやろ。」

「恐れながらわたくしの仕事ではなかったと思うのですが、もっと適任がいくらでもいたはずです。」

「例えば?」

「百合とか。」

「残念、今百合ちゃんは絶賛別務で海外や。」

「そうですか。」

「あの坊や伸びると思う?」

唐突な質問に雫がしばらく黙る。

(論理的な答えは求めてないな。)

「伸びると思いますよ。彼は、春宮様と1対1で対峙し、その絶対的強者が放つ空気を知りました。そして、その空気に乗っ取って作り上げられる決して自分が踏み込むことのできない世界においてのみ感じる疎外感や「自信」の喪失も経験しました。お墨付きは、強大な力の前において差し伸べられる優しさという甘さを身をもって理解したのです。飴と鞭のバランスは、環境とその人の能力によって大きく左右されるものです。これらすべてを体験したのですから、後は努力とセンスの問題ですよ。春宮様が彼のお父上の顔を立てて、彼に作ってあげた環境は、十分すぎるくらいに十分なものだと思います。」

春宮が満足げに頷いた。

「ただし、それに私を巻き込むのは今後やめてくださいね。」

「まあええやないの。これでしばらく中都もおとなしゅうなるやろし。」

(意味を聞き返したいところだけど、やめとこ。話が長くなる。)

 飛び込みで入ったアドリブ劇を何とか終わらせ雫は本題に入る。

「それでは春宮様、そろそろ私のお話したかった内容に入ってもよろしいでしょうか?」

「ええ、もう眠いし寝ようやあ。雫かて朝早いんやろ?」

「早いですよ。早いから朝のご挨拶に来てお話しできないんですよ。だから今聞いてください。」

「当主の扱いが雑いなあ。悲しいわあ。」

「十分敬意を払っているではありませんか。感謝もしております。そもそも絶対的信頼を寄せているからここまでするんですよー。」

雫の正面には水の入ったグラスが置かれている。

夜のお酒を楽しんでいる春宮に紅茶はやめろと言われてお水になったのだ。

「せやな、で何?叱られに来たん?報告に来たん?」

(もういい、もうこうなったら機械的に淡々と終わらせてさっさと帰って寝る。)

「報告です。」

「ここねに宣言魔法使わせた話か?」

「その言い方だと少し内容に齟齬があるように思います。宣言魔法は一人で使わせたわけではありません。一緒に使いました。」

「使わせたことに変わりないやん。」

「その事情をお話したいのですが。」

「ティムズか?」

「はい。」

春宮もそれなりに察しているし、何より二人とも早く寝たい。

だから必要最低限の言葉と労力で会話が進む。

「まだここねには器としての能力はないやろ?どうやって話したん?」

「霞の教会に無理やり連れ込まれました。」

「あれま。」

「そこでここねちゃんに器としての能力を発揮できるだけの知識と技術を伝えるようにと再度通告されました。今回ここねちゃんは魔法宣言を夢で聞いてかっこいいと思ったから覚えていたそうです。」

「そうなると雫がやったみたいに1回使わせた方が話は早いわなあ。」

「はい。」

春宮が長い溜息をついて仰向けになる。

「春宮様のお名前をお借りしてティムズの命令への返答はし兼ねると言ってあります。ただ向こうがこちらの事情をかなり詳細に把握していましたので、回答の先延ばしはあまりお勧めいたしません。」

「せやなあ、近々神殿行って会って来るわ。」

「はい。」

「他にはなんかなかったか?」

「そうですね、いつものようにティムズ節が炸裂していたくらいでしょうか。ここねちゃんの暴走加減や魔法の才能は変わらずでしたし、やはり外で生活できる環境づくりは直近の課題ですね。」

「上がなあ。」

「春宮様がうちの当主ですよ。」

「大派閥がなあ。」

雫も答えない。

(それはよく分かってるけど。あっ!)

「あっ、春宮様一つお願いが。」

「お願い。」

「先ほど中都さんの対応をしたことを貸しにして交換条件ということにしていただいても構いませんが。」

「内容によるな。言ってみ?」

「はい。」

ゆったりソファーにもたれかかっていた雫が姿勢を正す。

「今日私とここねちゃんとでスパイラルの結晶を作ったのですが、スモールドームにしまったところそれを没収されまして。」

「うちに?」

「はい。」

春宮がめんどくさそうな顔をする。

「お察しいただけましたか?」

「取り返してほしいんやろ?」

「はい。」

「何で?」

「あそこに預けていると潰されかねないので。」

「信頼ないなあ。」

「春宮様は信頼されているのですか?」

「いいや。」

「一緒ですよ。」

「確かに。」

春宮がしばらく考え込む。

「一応言うとくけど、ここねのスパイラルを狙ろとる輩は多い。うちの中にもごろごろおるし、外に出ればもっとや。」

「はい。」

「それをうちの中で保管した方がいろいろもめごとはおきんで済む。それでも雫が保管したいん。」

「さまざまな陰謀によって、不慮のトラブルを装った破壊工作が起きないという信頼がおけるなら、わたくしも喜んでここに預けます。」

「せやなあ。ならうちが預かるわ。うちの私物にすればうっかり間違って壊しましたや済まへんくなる。雫もうちやったら信頼できるんと違う?」

「そうですね分かりました。よろしくお願いいたします。」

「おおきにな。分かった。もう眠そうやし帰り。」

「はい失礼いたします。」

(あー寝られる。早く寝られる。)

「そうや待って。」

「何でしょう?」

立ち上がった雫が姿勢良く春宮を見る。

「こっちおーいで。」

(えっ?)

「はい。」

雫は春宮の横になるソファーの段差の手前で止まった。

「しゃがーんで。」

「はい。」

雫は言われた通りフローリングの上に正座する。

春宮はゆっくり体を起こして段差のギリギリ手前まで顔を寄せた。

「白羽にな。」

春宮の囁きはそこで止まった。

極力近くで顔を見まいと目を閉じていた雫が春宮を見る。

「白羽さんがいかがなさいましたか?」

「いやええわ。」

春宮がソファーに横になり直す。

「今日忙しかったんやろう。マメに帰って来てなあ。そうしたら今日みたいに一日中あっちやこっちや行かんで済むよー。」

「隠し事ですか?」

「うちには隠し事しかないよー。」

「白羽さんに関することで隠し事をされると純粋に心配になるのですが。」

「兄重いな妹やねえ。」

雫が春宮を見つめ続ける。

「堪忍。白羽のな調子があんまりようないんよ。」

「それは昨日もお話しいただきましたが。」

「なんて言うんかなあ、突発的とか一時的とかやのうて、ずーっとなずーっと下ってる気がするんよ。」

「それは。」

「今すぐどうこういう話やないんやけど、なんかあっても今まで通り支えてあげてな。」

「はい、できうる限りのことはすべてさせていただきます。わたくしが白羽さんや春宮様、自分と交わした約束の範囲内において精いっぱいに。」

雫は立ち上がって深々と一礼し、高六の間を出て行った。

「できうる限りか。」

春宮が溜息をついて寝返りを打った。


 別荘を出てきた雫の足取りは重かった。

時刻は既に0時40分である。

「ここで結構です。お送りいただきありがとうございました。」

雫はエントランスの扉まで見送りに来た使用人に一礼して森崎と合流した。

(帰るわよ。)

(はい。)

雫はゆっくりと中庭を歩いて行く。

真夜中の中庭は静まり返っている。

(想定以上に長引きましたね。)

(思いがけない対応を任されてね。)

(ですから一度別荘から出て来られたのですね。お疲れさまでした。)

(眠い、眠いわ。)

(存じております。)

(さっさと帰って寝るわよ。)

(畏まりました。)

雫がしばしばする目で空を見上げる。

(長かったなあ。こうやって取り留めもなくすごい勢いで毎日過ぎていくから怖いのよねえ。)

森崎の空けた扉から本邸の中に入る。

(そうだ森崎。)

(はい。)

(明日って時間ある?)

(作れとご命令いただければいくらでも作りますよ。ですが明日は一日魔道良にいらっしゃるのですよね?)

(それはそうなんだけど、子月ちゃんのお見舞いに行きたくて。)

(なるほど、畏まりました。何時ごろにお迎えに伺いましょうか?)

(明日伝えるわ。まだ分らないから。)

自室に入った雫がふらふらとベットに倒れ込む。

「お休みになる前に歯を磨いてくださいね。」

「はーい。」

こうして雫の長い長い一日は雫のエネルギーをすべて奪って終わったのだった。

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