実家の雫(18)
18
雫が白羽の応接室から出てくると廊下に控えていた使用人の一人が前に歩み出た。
無表情な女性だ。
「雫様、ご挨拶申し上げます。」
「ごきげんよう。」
(たしか春宮様付きの使用人。)
「この度、春宮様より伝言をお預かりし馳せ参じましてございます。」
「伝言ですか。足をお運びいただきありがとうございます。お伺いいたします。」
女性が姿勢を正す。
(これからしばらくの間、この人の発言はすべて春宮様のそれと同等の効力を持つ。)
雫も気を引き締める。
女性が右手を少し挙げた。
この右手が下がるまでが春宮からの伝言という意味だ。
「この後19時からユークレース館のパーティーに出席すると聞きました。実に良いことです。せっかくなら雫にはお忍びで用件だけ済ませに行くのではなく、たくさんの来賓の方々に普段のお礼をお伝えすることも兼ねて、ご挨拶をして回ってほしい。そこで、私から交換条件の提案をしましょう。19時から1時間ユークレース館のパーティーに正規のホストとして出席してくれるなら、たくまさんと一対一で話す時間を10分間保証します。どうですか。」
女性が右手を降ろした。
「以上でございます。」
雫はポーカーフェースを保ったまま数回瞬きをする。
(春宮様の話し方から要点だけ絞って語尾を変えてるのを笑ったら可哀そうだよね。)
「いくつかお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「はい、わたくしにお答えできることであれば何なりと。」
「なぜ10分なのですか?」
女性が首を横に振る。
「わたくしが春宮様からご提案をいただいた交換条件に応じると言えば教えていただけますか?」
女性が一度頷く。
(後出しじゃんけんもいいとこね。春宮様が私のことを聞きつけるのもやっぱり速い。でも正直この交換条件はかなりこちらにとってメリットが大きい。どちらにせよ1時間と言ってくれている辺りを見ると、私が20時からここねちゃんのところに行く予定であることも把握済みのようだし、いいかな。)
「ご提案慎んでお受けいたします。」
「恐れ入ります。それではこの後ですが、ユークレース館にお向かいください。入り口のところでたくま様がお待ちですので、合流したのち頃合いを見て会場にお入りください。」
(あーそういうことか。)
「分かりました。そのようにさせていただきます。」
使用人の女性は雫に深く一礼しその場を後にした。
(お兄様のこと引き継がないと。)
雫が入り口の近くに控えていた白羽付きの使用人の方を見る。
「食後白羽さんはお疲れになったようでそのままお休みになりました。後はお任せしますね。」
「畏まりました。」
雫は白羽付きの使用人に一度頷いて歩き出した。
(少し速足で行かないと、19時までにユークレース館に着けないわ。)
別荘を出たところに森崎が控えていた。
外は1時間前より確実に暗くなっている。
(森崎、ユークレース館に向かうわよ。たぶん入り口のところでたくまさんが待ってる。)
(畏まりました。)
少し驚いたような森崎の声を聞きながら雫が速足で歩いていく。
(何があったのですか?)
(私がパーティーに出席するって聞いた春宮様からの交換条件でね、私が公式のホストの一人としてパーティーに出席するなら、たくまさんと1対1で話せる時間を10分間くれるってお約束だったの。春宮様のご挨拶19時からなんでしょう。その間、私は会場に入れないから、私を入り口までたくまさんに迎えに来させて、春宮様のご挨拶が終わるまでの10分間お話しなさいってことだと思うわ。)
(それは、なかなかの策士でしたね。さすが春宮様。)
(ええ。)
別荘から真っすぐ道を進み、いくつか先の曲がり角を右に曲がると、ユークレース館に続く裏道がある。
道の両サイドには背の低い木が立ち並び目隠しのようになっている。
木の手前には街灯が等間隔に置かれ、夕方や夜に歩いても何の問題もないようになっている。
木漏れ日の関係者以外使えない本当の裏道なのだ。
(今日のパーティーって本当にただのパーティーなのよね?)
(はい、晩餐会や社交会舞踏会、交流会などではなく、今日はたんなるパーティーです。)
(それって一番ややこしいやつじゃない。)
木漏れ日本邸では、ほぼ毎週末から毎日どこかの会場か屋敷か自宅で、表向きから私的なものまで数多くの社交的な席が設けられている。
表向きの主な行事としてたとえば、夜に開かれることが多いのは、舞踏会や晩餐会、社交会、午後に開かれることが多いのは、アフタヌーンティーパーティーや芸術・スポーツ関係の交流会などである。
いついかなる時もどこかで必ず華やかな席が設けられ、木漏れ日の人々は、それらに出席してはさまざまなタスクをこなしていく。
そして、雫がこれから出席する何の名目もつけられていない「ただのパーティー」とは、特にこういった目的はなくむしろこまごまとした所用をそれぞれが済ませる席である。
そして、そのこまごまとした所用の中にはかなりめんどくさいものもある。
(ただのパーティーならタイムテーブルはかなり緩いわよね。)
(はい。)
木漏れ日のそれぞれの席にはかなり細かなタイムテーブルがある。
しかし、このただのパーティーでは、このタイムテーブルがかなり大まかなのだ。
ただし「当主が挨拶をしている最中には、木漏れ日の関係者の入出は原則禁止。」というのは木漏れ日の家の社交的な席において絶対だ。
だから、雫が春宮の挨拶が始まる19時にユークレース館に行くことで、雫を迎えに来ていたたくまと二人、春宮の挨拶が終わるまで会場に入れず、話すしかないという筋書きなのだ。
雫の視界にユークレース館が見えてきた。
大きな8階建ての建物は、そのすべてが表の席のために建てられた超一級品の施設である。
あちこちの窓から溢れ出る光はどこか上品だ。
(あっ、いた。)
雫が入り口の前に立つたくまを見つける。
(雫様、たくま様がいらっしゃいます。)
(ええ見つけたわ。ちょっと待っててね。)
(畏まりました。)
雫がたくまに遠くから会釈をして近づいて行くころ、ユークレース館の壁に取り付けられた時計が19時のチャイムを鳴らす。
(ちょうど19時、完璧ね。)
入り口の周りには数名の使用人と警備員がいるが、基本木漏れ日の人同士の会話には介入しない。
雫はたくまの前で立ち止まり、丁寧に一礼した。
「ごきげんようたくまさん。」
「ごきげんよう雫さん。春宮様からあなたを迎えに行くようにと命じられて迎えに来たよ。」
「恐れ入ります。」
たくまはもう70歳を過ぎた木漏れ日の家の権力者の一人だ。
木漏れ日の家束において、「木漏れ日本邸の屋敷に複数人の木漏れ日の人間が住む場合は、その屋敷に住んでいる人間の中で当主候補比率保持者トータルランキングの最も上位にいる者の氏名を付けること。」と定められている。
つまり、たくまは木漏れ日本邸メイン4邸が1邸という、最高クラスの木漏れ日の人間が住む屋敷の一つのトップなのである。
顔つきは優しく全体的にグレーがかった黒髪はスマートにセットされている。
優しいお祖父さんといった風貌だ。
話し方も穏やかで言葉にも優しさが垣間見える。
しかし、雫は決して表情を緩めなかった。
「せっかくお越しいただいたところ残念だが、ちょうど春宮様がご挨拶を始められてしまったね。しばらく会場の中には入れないが、入り口の近くまで行っておくかい?」
(入り口の近くに行くと盗み聞かれる可能性が上がるかな。)
雫はゆっくり首を横に振る。
「実を申しますと、たくまさんと二人でお話したいことがありまして、会場の近くに行く前にここでお伝えをさせていただけませんか?」
たくまの表情は変わらない。
「使用人が大勢いるが構わないのかい?念のため言っておくが、ここは誰かのプライベートに関して話し合う場所ではないよ。」
(つまり私が何を話したいのかは既に想像済み。そもそも、春宮様が私を迎えに行くように命じた時点でたくまさんは分かってるか。)
「確かにそうですが、会場の近くの方が木漏れ日の関係者やご来賓の方が大勢いるでしょうし、ここは外ですから、誰かが盗み聞いていれば意識の流れで分かります。壁や柱の陰に隠れられるよりずっとましですわ。」
「なるほど、ではここで伺おう。」
「ありがとうございます。」
雫がもう一度軽く頭を下げる。
「それで何の話かね。」
「既にお察しのご様子とお見受けいたしますが、では念のため。本日たくまさんにお話をしたかったことは、馨さんの婚姻願いに関して出ございます。」
たくまの口元が少し吊り上がる。
「やはりそうか。」
「はい。」
雫は決して動じない。
「伺いましたところ、たくまさんは馨さんの結婚に難色を示されておいでとか。普段のたくまさんは、婚姻願いにとても寛容でいらっしゃいますでしょう。ですからわたくしとても不思議でした。やはりお相手に問題があるのでしょうか。」
「そうだな、私としても馨さんにはぜひとも幸せな家庭を築いてほしいと思っている。だが、相手が悪いと思っている。」
「馨さんかなり追い詰められていましたよ。昨晩も私の部屋でその思いをめいいっぱい聞かせてくれました。あそこまで追い詰める必要はおありでしたか?」
雫は感情の一切を殺して、高く穏やかな声で尋ねる。
「あれは彼女の暴走だ。まったく、愛というのは人から冷静さと理性を奪っていくものだな。私は彼女に対して極端な精神的負荷は掛けていない。」
たくまも全く感情を見せない。
「精神的苦痛を受けていると判断するのは、苦痛を与える側ではなく、与えられる側ですよ。」
「言いたいことははっきり言いたまえ。」
「よろしいのですか?」
「あー。」
(やっぱり回りくどいのは嫌いか。)
「ではお言葉に甘えまして。」
雫が姿勢を正す。
「馨さんとお相手の婚姻願いを受理していただけますでしょうか。血筋は、人の人格に直接的な影響を与えるものではありません。そのケースに関しては、これまでの統計は全く意味を持ちませんよ。」
「実体験かな?」
「実体験と言うのには少しずれますね。私は二人の実子ではありませんから。彼らは私の育ての親です。」
「そうだったな。お母上は元気だったかい?」
「はい、代わらずでした。」
「そうか。」
たくまが黙る。
雫が口を開こうとしたらたくまはまた話し始めた。
「あんな男に惚れ込まなければ、彼女は今あれほどまでに苦しまずに済んだだろうに。」
「それは結果論ですね。母にとって父に惚れ込んだことは、一定期間心に安寧を齎したわけですし、どの夫婦にもどの家族にも平等に、将来何が起こるか分からないという現実があります。母が離婚したことも、それによって母が心身魔の調子を崩していることも、そのすべてが父のせいというわけではありません。」
(ただ話しているだけなのに、お母様が被害者だという側面を強調することで、緋偉螺疑の家の悪さを強調しようとしている言い回しが怖い。気を抜いたらあっと言う間に流されそうだ。)
「固いな。」
「お互い様だと思いますよ。」
「確かに。」
「一つの家を極端に軽蔑して、否定し、遠ざけるのは木漏れ日の家の改革に真っ向から相反する行いですよ。それを木漏れ日本邸メイン4邸が1邸の主がなさるとは、考えにくいことですね。」
「私もいつもいつもというわけではない。あなたもお分かりのはずだ。」
「もちろん、よく存じ上げております。ですが、緋偉螺疑の家に対してたくまさんがなさっていることは、紛れもないそれですよ。」
二人の間に沈黙が流れる。
(今日はこれくらいにしておく方がいいわね。これ以上は価値観の総意と衝突になるわ。)
「たくまさん、今すぐにとは申しません。もう一度考え直していただけませんか。馨さん、結婚できないのなら、木漏れ日の家から出ていくとまで言っています。それは世代代表として認めるわけにはまいりません。馨さんには長期的に余裕をもって考えるように何度も言って聞かせました。お相手の方にもそれだけの覚悟が必要であるということを彼女から伝えるように言ってあります。今すぐにとは申しませんから、お願いいたします。」
「つまりあなたの考えを尊重し、私に折れろということかね。」
「そうなりますね。私は馨さんの所属する世代の代表の一人ですので。」
「なら私は、彼女が住むたくま邸の亭主だ。そのメンツとプライドと誇りがある。」
「ええ、お互いに譲れないものがあるのです。ですからこれから時間をかけて私はたくまさんと交渉を続けてまいりたいと思っております。本日はこれだけ。」
「一つ尋ねてもいいだろうか?」
「何でしょう。」
「なぜわざわざ私を説得しに来た。控え婚姻願いが提出されたのなら、彼女の親や私の了承をわざわざ得ずとも受理すれば良かっただろう。」
(本気で言ってるのだとしたらかなりいけずね。)
「確かに制度の上ではそれは可能なことですが、実際に私たち世代代表が、たくまさんのご意向を無視して彼女の控え婚姻願いを受理したとなれば、周りから批判を受けかねません。わたくしたちは、それだけたくまさんのご意向は、最大限配慮するべきものだと認識しております。たくまさんだってご自分のお立場は正確に把握されていますでしょう。それなのに、そんなことをおっしゃるなんて。」
「なるほど、彼女に木漏れ日の家を出られては困る。しかし、私の意向を無視して彼女の控え婚姻願いを受理すれば、他派閥や他の有力者から批判される。その間を取って私の説得に出たということか。あくまで、彼女に結婚を諦めさせたうえで木漏れ日の家にとどめる策を練ることはしなかったのだな。」
「それはわたくしのするべきことではありません。わたくしは、世代代表です。自分の世代に属する人の願いこそ最大限に叶えるべき人間です。」
雫が口を閉じたころ、建物の中の人の流れが活発になったことが、二人の視界に入った。
「春宮様のご挨拶、終わったようですね。参りましょうか。」
雫がにっこり微笑むとたくまが一度頷いた。
「いいだろう。やれるものならやってみればいい。では完璧なエスコートでお連れしよう。」
ユークレース館は、地下3階から地下1階がバックヤードや調理場、1階がエントランスとゲストの控室、2階と3階が木漏れ日の人たちの控室、4階から6階が吹き抜けのホール「ユークレースの間」になっていて、7階と8階は少人数で話せるスペースやカウンター、ガーデンテラスなどなどになっている。
雫とたくまは1階の裏口から入って4階のユークレースの間北入り口の前にいた。
ユークレースの間は南側に大きな扉があり、そこからゲストや関係者が出入りをする。
また西側と東側にも少し奥まったスペースと廊下に出るための扉がいくつか設けられている。
北側の扉は複数枚あり、基本的に閉じていて、ホストが入場する時だけ開けられる。
雫とたくまがいるのは北の扉の一番左端の前だ。
「雫様、たくま様、ご挨拶申し上げます。」
「ごきげんよう。」
雫だけが応えた。
扉の前には安定の警備員と分厚い冊子を持った使用人がいる。
「お待ちしておりました。」
この使用人は扉の開閉専門の使用人で、この本にはその日の細かなスケジュールがすべて記載されている。
「雫様、念のため確認をさせていただきますが、本日は20時までの出席で間違いありませんでしょうか?」
「はいその通りです。今日の私の出席はサプライズゲスト扱いですか?」
「はい、ホストの一部の方々は把握されておりますが、ゲスト側はほとんど知りません。」
「ということは動線の確保が困難になりますね。会場の様子を見せていただけますか?」
雫が使用人の持っていたスマートフォンを受け取って、会場の映像を確認する。
(立食スタイルの席なのね。人数はやっぱり多いし、春宮様は。)
雫が一度頷いて使用人にスマートフォンを返した。
「把握しました。ありがとうございます。今日私はたくまさんの後ろをついて行けばよろしいのですね?」
「あー春宮様の近くまで案内した後は自由に動いてくれて構わない。」
「分かりました。」
雫が後ろを振り返る。
「森崎、適宜ついてきてください。」
「畏まりました。」
「それでは開閉いたします。」
使用人が扉の近くに取り付けられた青いボタンを押す。
木造で豪華な扉だから雰囲気的には手動だと思ってしまうが、実は最先端技術が施された自動扉だ。
(こういう席に来るのって1年以上ぶりだよね。久しぶりでちょっと慣れない。でもまあ何とかなるでしょう。)
雫が姿勢を正し表情を改める。
よそ行きの優しい表情と品のある佇まいは、小さい時から徹底して叩き込まれた雫の当たり前だ。
たくまが雫の隣まで近づいて扉の向こうに視線を向ける。
少しずつ開く扉はまだ完全に開ききっていない。
「いつぶりかい?」
「少なくとも1年は経っているかと。」
「ほう、所作は覚えているものかね?」
「そうですねえ、体が覚えていれば何とかなると思います。」
「君ほど表の席に出席していてもその程度なのか。」
「しょっちゅう出ていたのは中学生までの話です。高校生のころからめっきり出られなくなりましたから、私と同い年の本邸育ちの子の方が、トータルでは私より出席していると思いますよ。」
「それで春宮様があそこまで君を出席させたかったのか。」
(うん?)
雫は口を開こうとして慌てて閉じた。
(だめだ、これ以上は話していることが向こうから見える。)
扉が完全に開ききると、それまでざわざわと響いていた話し声や食器の当たる音、たくさんの人の足音がぴたりとやんで、ホールが静まり返った。
本来春宮の挨拶の後に入ってくる木漏れ日のホストが、北側の扉を完全に開けて入ってくることはない。
イレギュラーな時間に完全に扉を開いたことだけでも異例なのに、その扉の前には、最近ほとんど表の席に顔を見せなかった雫がいるのだ。
木漏れ日の内政を少しでも知っている人なら誰だって驚く。
「皆様ごきげんよう。」
「ごきげんよう。」
雫の挨拶に、この会場にいるほとんどのゲストが応えた。
サプライズホストの登場に、たくさんの写真が撮られる。
雫は10秒ほどその場にいて、シャッターの量が少し減ったタイミングでたくまが雫の少し前に出て歩き始めた。
雫はたくまの少し後ろをついて行く。
ゆっくり歩きながら流れるように少しずつ視線と首を動かして、雫を見る一人一人と一瞬でも目が合うようにしている。
(やっぱりこういう歩き方とか視線の動かし方って体が覚えているものね。)
拾い会場の比較的中央を大きく回るルートをたくまにエスコートされて、雫が春宮の前に到着した。
春宮の周りには、彼女を囲むようにたくさんの人が輪を作っていて、雫にその輪の中心の人たちが場所を譲ったのだ。
雫と春宮が向かい合う姿もまた写真に収められる。
たくまは輪の中の一部に溶け込み、雫は姿勢を正し春宮を見る。
(やっと着いたー。この短い距離をゆっくり歩いて時々立ち止まったら3分もかかるなんて。あっ、今日春宮様に会うの初めてだ。黄色い袖無しロングドレスに「サフィネス」をふんだんにあしらったネックレス、それ以外のアクセサリーは一切身に付けないあたり、春宮様だ。)
雫が丁寧に深々と一礼した。
普段から春宮に対して最大の経緯を払う雫だが、公的な表の席においてはいつも以上に気を付ける。
「春宮様ご挨拶申し上げます。」
「ごきげんよう雫。今日はゆっくりしてってな。いろんな人に感謝を伝えながら限られた時間を最大限利用して、有意義に過ごすんよ。」
「畏まりました。」
(それって全然ゆっくりできないじゃん。)
雫はもう一度春宮に一礼してその輪の中を抜けた。
(たくまさんともここでさよならね。)
雫が一瞬後ろを振り返ると、たくまと目が合った。
(これでオッケー。)
雫が正面に向き直って歩き始める。
(それにしても今日は全くと言っていいほどたくまさんの表情を変えられなかったなあ。これじゃあいつまでたっても馨ちゃんのこと承諾させられない。もう少し策を練らないと。)
(雫様。)
(はいはーい。)
(ここからはわたくしがご案内いたします。)
(そうねよろしく、森崎。)
森崎は雫の少し後ろをついて行きながら、雫に誰のところへ声を掛けに行けばいいかを指示する。
「ごきげんよう。本日はお越しいただき誠にありがとうございます。「ツイレイン」様。」
「ごきげんよう雫さん、お会いするのはいつぶりかしら?いつもMiraがお世話になっています。」
「とんでもありません。わたくしの方こそいつもMiraには支えてもらっています。」
今雫が挨拶をしているのは、Miraの母親だ。
さらさらで艶のある金色の長髪や柔らかくも凛とした目の形が、Miraそっくりだ。
「それにしても驚きましたわ。まさか雫さんにこんなところでお会いできるなんて思っていませんでした。」
「わたくしもぎりぎりまで出席できるか分からず、公表を控えていたのです。ツイ様はお変わりございませんか?」
「ええ元気にやらせてもらっています。ところでMiraは元気にしていますか?あの子ったらほとんど連絡をしてこないものだから。」
「はい元気にしていますよ。昨日もMiraの部屋でカレーパーティーをしました。後輩のこともいつも気にかけてくれる頼れる同期です。」
「まあ嬉しい。でも、雫さんからも言っておいてくださいね。たまにはきちんと実家に帰って来なさいって。雫さんだってこうやってお休みの日には帰ってきているのですから、Miraにも帰ってきてもらわないと困ります。」
「分かりました。必ず伝えるとお約束いたします。」
ツイは常時笑顔を絶やさず、Miraのことを言う時も表情こそオーバーに困っている風に装っていたが、それがお芝居であることくらい雫は分かっている。
「ではわたくしはそろそろ。引き続きお楽しみください。」
「はい失礼します。」
雫は丁寧に一礼してその輪の中を抜けた。
(次はさくさく行くわよ。)
会場を回りに回ること約45分、19時50分になったころ、雫は20組目のゲストへの挨拶を終えていた。
(次は?)
雫の顔は常時穏やかだし、言葉遣いも丁寧なままだし、表の席のマナーや話し方を何の苦も無くこなしているように見えているが、実際のところかなり疲れている。
ただでさえ、今日は気の抜けない会議や面談を立て続けにこなしていて、それだけでも精神的に疲労が溜まっているのに、1年以上ぶりにこんなに大きな表の席に突然出席することになり、決してゲストに対して失礼の許されない環境で、代わる代わるほとんど会っていなかった人たちに丁寧に挨拶をしなければならないのだから、当然だ。
しかしそれだけ疲弊していてもそれを少なくともゲストに悟らせないあたり、やはり木漏れ日の家の徹底した英才教育を受けてきただけのことはある。
(それがこの後なのですが、会場を出て行ってほしいところがあると春宮様付きの使用人から支持が来ておりまして。いかがなさいますか?)
(春宮様付きの使用人から?それって私たちに行かないっていう選択権が最初からないじゃない。どこ?)
(5階の東廊下奥の小スペースです。)
(7階や8階じゃないのね。何かしら。名前のないパーティーは、こういうことが平気で起こるから嫌なのよ。)
雫はすっとユークレースの間を出て5階に上がる。
この時に誰にも気づかれないように、徹底して空気に溶け込んで抜け出すというスキルは、表の席がそこまで好きではない雫がかなり早い段階で身に着けたスキルである。
4階から6階まで吹き抜けになっているユークレースの間だが、5階や6階には4階のホールを見下ろせるようなスペースと移動するための廊下や小さな個室が作られている。
エレベーターを下りた雫はユークレースの間の東側の廊下を進み、6か所目の角を右に曲がる。
(ここで合ってるのよね?)
(はい。)
雫が角を曲がりきると大きい窓と窓に取り付けられた小さなカウンター、そして
「ごきげんよう雫。」
「えっ。」
小さなグラスを右手に持ってゆらゆらさせながら雫の方を向いて満面の笑顔を浮かべる水竜あげはがいた。
(えっとどっちで話せばいいんだ。えーっと。)
「ごきげんよう水竜あげは様、本日はようこそお越しくださいました。心よりお礼申し上げます。」
雫は、今日会ったゲストたちにしたのと同じように丁寧に一礼した。
「うわー、お姫様雫がいる。お姫様だねえ、キラキラだねえ、お淑やかだねえ、そんな顔もできるんだねえ。あげはと魔道良で会った時もそんな風にしてよー。」
(お姫さまって言うな。さっき電話切ったみたいにできないんだから。そもそもさっき電話で話したじゃん。あれ以上何話すって言うのよ。)
「お姫様だなんてとんでもありませんわ。」
雫が声も表情も変えずに首を振る。
「わたくしはいつもこのように振舞っておりますよ。それが木漏れ日本邸に住み、ユークレースの間で開催される表の席に出席するに相応しい振舞と心得ておりますので。今のわたくしの置かれた立場と状況から考えて、最も最適と思われる行動と言動と所作をとっているにすぎません。」
「へえ。」
あげはが珍しいおもちゃを見るような目で雫をじーっと見る。
森崎は雫の後ろに控えてこれまでと変わらず沈黙を貫いている。
(あっ、さっき電話で言ってた用事ってこれか。じゃああの時間は車移動の間だったのかしら。)
「まあいいや。」
「ところであげは様、只今わたくしをお呼びになられた理由を伺ってもよろしいでしょうか?まさかこの場において、魔道良の機密事項に関するお話を持ち出すおつもりではないでしょう。」
雫の話を最後まで聞き終えたあげはが盛大に笑う。
「当たり前だよ。ビジネスの話はさっき電話でしたでしょう。ただお姫様奈雫を一目見たかった、いいやひと時独り占めしたかったんだよ。ひそひそ話が聞こえてきたんだ。この会場に雫が出席するってね。それでご当主様に我儘言ったら許してくれたんだあ。ここのご当主様あげはに優しいよね。本当に大好き。」
「さようでしたか。」
(よく言うわ。春宮様はあげはに優しくしてなんてない。交換条件の一つや二つくらいないと春宮様は私と二人きりになる時間なんて基本的には他人に与えない。春宮様はギブアンドテイクの法則に基づいて、私をあげはのところに行かせただけ。分かってる。分かってる。分かってる。なら今私があげはに向けるべき態度は、認識は、接待用のそれだ。)
「ではわたくしはもうしばらくあげは様のお近くにいさせていただきますね。」
雫はあげはの隣まで行ってカウンターにそっと手をかける。
「森崎下がっていてください。」
「畏まりました。」
森崎は一切の感情を殺してその場を離れる。
「今は何をお飲みに?」
二人きりになった空間で雫があげはの方を見る。
「ただのオレンジジュースだよ。アルコールは受け付けなくてね。知ってるでしょ?」
「はい。」
あげははずっと機嫌がいい。
「ねえねえ見て見て、この衣装。今日のためにオーダーメイドで作った特注品なんだ。あげはの美しさを余すことなく見せるための衣装。似合ってるでしょ?」
「はいとてもよくお似合いです。すらっと長いあげは様の足を美しく見せるパンツに、下に降りれば降りるほどそのシルエットが大きくなるジャケット。お美しいです。」
「でしょ。」
(だめだ、やっぱりこういう席に出ると何かに飲み込まれそうになる。黒い沼みたいな何かに。考えたらいけない。今のあげはは春宮様にとって利益のある交換条件を持ちかけてくれた来賓。)
「そろそろいいかな。」
あげはがちらっと腕時計を見て雫に左手を伸ばす。
その手は雫の頭にそっと触れて、数回撫でた。
(なになになに。)
「あげは様?」
さっきまでとは打って変わって、あげはの顔は真剣そのものだ。
「ごめんね。今決壊の魔法が完成したから。」
(あっ。)
雫が慌ててあげはの右手に目をやる。
さっきまで持っていたグラスはカウンターに置いて、カウンターの裏側に右手を当てている。
(誰もいない時を見計らって決壊を張ってた?それまでは来賓水竜あげはを演じてた?つまり、水竜家が本竜の一人っ子であるあげはを演じてた?)
「ごめんね、雫を春宮様から買ったみたいな形になっちゃって。言いたくもないサービストークをさせちゃって。ごめん。」
(あーだからあげはのこと嫌いになれないんだよね。まったく。)
雫が長い息を吐く。
さっきまで顔に張り付けていた笑みは消して目を閉じる。
「まったく余計な気を遣わせないでよね。」
「ごめんって。」
「何かあったの?」
「まあね。あげはだっていつも我慢できるわけじゃないんだよねえ。あんまりいらいらしたから雫に会いたくなっちゃって。」
「私はあげはの愚痴聞き役じゃない。」
「知ってるよ、そんな役割押し付ける気もないし。けど、あげはのおかげで最後の10分、いろんな人を持て成さなくてよくなったでしょ。それでお相子にしてよー。」
雫がぷいっと窓の方に顔を向ける。
「そうね、お相子にしてあげる。私もあげはもお互いの家のために付けたくもない仮面を付けてたわけなんだから。」
「良かった。」
あげはが雫の頭に置いていた左手を自分の方に寄せて腕時計を見る。
「はいそろそろ帰っていいころ合いだよ。お疲れ様。」
「うん。」
雫が軽くあげはに手を振って後ろを向いてぴたりと立ち止まる。
「そうだあげは。」
雫があげはの方を向き直る。
「なに?早く行きなよ。森崎さんだっけ?待ってるよ。」
「ちゃんと言いたいことがあって。」
「うん?」
「その衣装すっごくよく似合ってるよ。あげはの美しさをとっても上手に引き出してる
あげはがさっきまでのオーバーな笑顔ではないもっと自然に溢れ出るような笑顔になる。
「ありがとう。」
「またね。」
雫は今度こそ歩き出した。
(私に会いたかったのと同じくらいに、私をお姫様だって揶揄ったのは本当のことだと思うけど、今日は大目に見てあげる。)




