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実家の雫(17)


  17

 催促されるかもしれないとは思っていたが、まさか今日連絡してくるとは思わなかった。

「雫様ご挨拶申し上げます。」

「ごきげんよう。」

ようやく自然に挨拶をして、違和感なく春宮邸の中を歩けるようになってきた。

(雫様先ほどのお電話のお相手はもしかして?)

(そうそう、水竜家が「本竜」のあげはさん。)

(まだ交流がおありだったのですね。)

(プライベートじゃ全くないけど、仕事の付き合いは続いてるし、これからしばらくは結構距離の近いパートナーになりそうよ。)

(あんなにはきはきとものを言う雫様は久しぶりに見ました。)

(木漏れ日の人たちにあんな物言いしてみなさい。森崎にもお母様にも秩序会にも怒られるわ。ポーカーフェースとは対角線の話し方なんだから。)

(案外あのテンションを貫く形のポーカーフェースの作り方はありかもしれませんが。)

(そう?)

1階の裏口の扉を森崎が開け、中庭に出ると、夕方の高い湿度を纏った空気が体に張り付いてくる。

少し視線を走らせれば、ユークレース館の方へ歩いていく人だかりも見える。

(ユークレース館のパーティーって何時から?)

(厳密な入場自国の指定はないようですが、春宮様がご挨拶をされるのが19時と把握しております。)

(だから木漏れ日サイドの人たちがこの時間でもあんなにのんびり歩いているのね。)

ユークレース館に行くのは、お兄様との夕食が終わってからだ。

 別荘の入り口で使用人に会釈をする。

「雫様ご挨拶申し上げます。」

「ごきげんよう、18時から白羽さんに夕食に招かれております。」

「どうぞお入りください。」

私は森崎を振り返る。

「待っててね。」

「お気をつけて行ってらっしゃいませ。」

使用人の人に案内されたのは、昨日お兄様におとぎ話を話した部屋、お兄様専用の応接室。

約束より5分くらい早く着いてしまったが、使用人の人は扉をノックする。

「白羽様、雫様が到着されました。」

「入ってもらって。」

使用人が一歩後ろに下がる。

少し待つかと思っていたからちょっとびっくりした。

私は扉の前に立って3回ノックする。

「失礼いたします、白羽さん。雫です。」

「どうぞ。」

扉を開けて中に入ると、お兄様が奥の机で、書類の山を両端に作ってペンを走らせていた。

「いらっしゃい。」

お兄様が一瞬顔を上げて私を見る。

まだ8月で外は暑いしむしむししているのに、お兄様は白い長そでシャツを着ている。

そして今にも消えそうな声は変わらない。

「お約束の時間より少し早く到着してしまいました。申し訳ございません。そのお仕事がひと段落着くまでお待ちしておりますので、お気になさらず。」

「気にしてないよ。これも急ぎの物ではないからね。大丈夫。それにどんな仕事よりも雫が優先だよ。」

「まあ。」

私は扉を閉めてお兄様の机の前まで行く。

「お手元を覗き込んでもよろしいですか?」

「面白い物じゃないよ。」

「普段お兄様がされていることを知りたいのです。」

「いいよ。」

お兄様がゆっくり頷く。

私は改めてお兄様の顔を見る。

今日は昨日より顔色がいい。

やっぱり昨日は忙しかったのだろう。

一晩休んでこの顔色まで戻ってくれているならいいんだけど。

と、あんまり長い間顔ばかり見ていてはいけない。

私はお兄様が何かを書き込んでいる書類に目を落とす。

「これは?」

「子供たちの成長報告だよ。目を通してアドバイスを一筆添えてるんだ。」

目を通して一筆添えると言うけれど、一つ一つの書類がきっと50枚以上ある。

ホッチキス止めをしているのだ。

子供たちの成長報告は、一人ひとりの子供が誕生日を迎えるたびにその子供の関係者が取りまとめてここに送られる書類。

普通ならパソコンやタブレットで目を通して書き込むんだろうけど、お兄様は目が弱くて長時間スクリーンを見ることができない。

「ここにある書類で全体の何パーセントぐらいですか?」

「3%くらいかな。」

「この量で!」

「驚いたかい?」

「はい。」

「ちょっと溜め込んでしまったんだよ。それにこれだけたくさん毎日送られてくるってことは、それだけ木漏れ日の家が繁栄しているってことだからね。いいことなんだよ。」

「それはそうですが、これは「未成年担当」のお仕事のほんの一部に過ぎないでしょう?」

「そうだね。」

「世代代表のお仕事も兼任されて。」

「それは雫も同じだろう。雫は魔道良担当の仕事と世代代表を兼任している。」

「それは。」

お兄様は話しながらも書き続けている。

今こうやって話しかけていることもお兄様の負担になっているとは分かっているけれど、私はやめられなかった。

胸が痛い。

お兄様の細い体に、不安定で覚束ない心に、お兄様の心身で受け入れられないほどの膨大な魔力に、これだけの重圧を背負わせているという実感がひしひしと湧いてくる。

昨日の夜と同じだ。

また気持ちが沈む。

お兄様の力になれていないという実感が、罪悪感になって溢れてくる。

「お兄様にご無理なさいませんようにと言っているくせに、結局わたくしは何のお力にもなれていないのですね。」

「そんなふうに考えなくていいよ。」

「ですが。」

高ぶった感情のままに気持ちを伝えようとしたら、お兄様が自分の唇の前で指を一本立てる。

(静かに。)

エスパー魔法で聞こえてきたお兄様の声に私は息をのむ。

窓の向こうから夕方の光が室内に入り込んで、お兄様を後ろから照らしている。

お兄様の体が陰になって、私から見えるのはお兄様の優しい表情とうっすらと澄んで輝く瞳。

お兄様が鉛筆を置いて私を真っすぐ見上げる。

「雫は、雫の過ごしたいように雫に与えられた時を過ごせばいいんだよ。昨日も伝えただろう。」

「それでお兄様にご負担をおかけしていては、雫が我慢ならないのです。」

どうしてお兄様のことになるとこんなにも感情を揺さぶられるのだろう。

私は両手を机に置いて、お兄様を真っすぐ見下ろす。

「お願いです、お兄様。どうか本当にどうかご無理はなさらないでくださいね。」

「あー、分かってるよ。」

お兄様が手を伸ばして私の瞼の下に少し溜まった涙を指で拭う。

「約束するから、そんなになるまで泣かないでくれるかい?」

「本当にお約束ですよ。」

私はにっこり笑って数歩後ろに下がった。

これ以上近くにいると余計に涙が流れてくる気がする。

それに時間はちょうど18時。

「ではお兄様夕食にいたしましょう?」

 お兄様の作業机から二人掛けのテーブル席に移動して、私とお兄様は向かい合う。

そういえばまだお兄様にご挨拶をしていない。

「お兄様、遅くなりましたが、ごきげんよう。」

「あー、ごきげんよう雫。今日は僕の招待に応じてくれてありがとう。」

「こちらこそありがとうございます。お兄様にご招待いただきましたら、できる限り時間を作って伺いますよ。むしろ、楽しいお食事の席に世代代表としての業務報告を持ち込んでしまい、申し訳ないくらいです。」

一品目が運ばれてくる。

お兄様に招待された二人きりの夕食の席で、コース料理が一般的な順番で出てきたことはほとんどない。

しかも出てくるメニューも夕食と言うにはあまりにカロリーが少なすぎるのが定番で、今回もお皿に乗ってきたのはいかにもなメニュー。

「お兄様、これが一品目ですか?」

「うん、僕の晩御飯の定番だよ。」

お皿の上に乗っているのは、エビのマヨネーズ和えと白米。

それぞれ5口ずつくらいで食べ終われそうな量だ。

本当はもっとしっかり食べてほしいとか、好き嫌いせずに食べてほしいとかいろいろ言いたいことはあるが、この席でそういうことを言うとお兄様が嫌そうな顔をするからやめておこう。

「いただきます。」

「いただきます。」

お兄様が一口食べてから私もスプーンを手に取る。

お兄様の表情を見ていると、もう少し本題に入るのは後の方がいい気がする。

「お兄様、昨晩はゆっくりお休みになりましたか?」

「あー、よく眠れたよ。雫の聞かせてくれたおとぎ話のおかげかな。」

「あの物語の言霊がお兄様に素敵な夢をお見せできたなら、嬉しいです。」

それからも他愛のない会話は続く。

「もうすぐ秋だねえ。外はあっという間に様変わりするのかな。」

「そうですね、紅葉が進めば、別荘の周りはみるみる姿を変えるでしょうね。衣更えの季節です。」

「雫のその衣装。」

「はい。」

「とてもよく似合っているよ。夏の最後の日曜日によく似合う淡い緑のロングドレス。夏の終わりを告げに現れた風と共に生きる妖精が、こんな風通しの悪いところまで訪ねてくれたみたいだ。」

「言い過ぎですよ。」

ついはにかんでしまった。

「僕のためだけにそれだけ着飾ってくれたと思い込みたいところだけど、きっと違うよね。」

「すみません、その通りです。この後ユークレース館に行って、しばらくしてからここねちゃんのところに。」

「あー、彼女のところ行ってくれるんだね。」

「春宮様から力強く頼まれていますので。それになかなか楽しい子ですし。」

「そうかなあ、小さい時の雫とは全然似てないと思うけど。」

「私に似ていない子供が面白くない子供と言うのは少し曲がった理屈ですよ。」

「そうかなあ。どっちにしても彼女はやんちゃだから、別荘になかなか馴染まないよ。」

「それは否定のしようがないですね。」

私もお兄様も食べながら会話を続ける。

それにしてもこのエビは本当に美味しい。

マヨネーズとよく合う。

世の中にはエビマヨのおにぎりや軍艦巻きだってあるから、それを解体しておしゃれに盛り付けた感じか。

「ユークレース館にはどうして?」

「馨ちゃんの件でたくまさんに会うために、伺うことにしました。」

「雫が表の会に出るのなんてずいぶん久しぶりだから、たくまさんのところにたどり着く前にみんなに取り囲まれちゃうと思うよ。」

「それは困りますね。お忙しいたくまさんに今日中に会おうと思ったら、この時間しかありませんのに。」

「今日の夜中に押し掛けたっていいんじゃないかい?」

「それでは都合が悪いとお顔を見る前に追い返されてしまいそうですから、絶対に悪い対応のできない表の席でお話だけでもしたいのです。」

「なるほど、相変わらず策士だね。」

「とんでもありません。提案してくれたのは森崎でしたし。」

「なるほど、彼女は頭が切れるからね。うまく行くといいね。」

「はい。」

 二品目が運ばれてくる。

そろそろ本題に入っていいだろうか。

二品目のお皿の上には、ポテトサラダとオムレツが3切れ。

「お兄様、そろそろ本題へ入りましょうか。」

「いいよ。」

「それでは子月ちゃんのことから。」

「昨日馨に会ったんじゃないのかい?」

「会いましたが、それは最後にお話しさせていただいても構いませんか?たくまさんのこともありますし。」

「いいよ。」

「ありがとうございます。」

私は一度箸を置く。

「まずは14時から会ってきた子月ちゃんについて。既に何か連絡が入っているかと思いますが、どのように聞かれていますか?」

「あー、木漏れ日の病院に搬送されたけど、重症で外部の病院に転院したって。」

そうだったのか、木漏れ日の病院に運ばれたことしか聞いていなかった。

「そうでしたか。そんなに容体が悪かったのですね。」

「雫と会った時はどうだったんだい?」

「心身共に不安定でした。1か月前から体内にセルフスパイラルを無理やりとどめていたようで。応急処置としてセルフスパイラルは全部体外に放出させました。」

「そうだったのか。子月の詳細な病状は知ってる?」

「いえ、もしご存じならお教えいただけますか?」

「セルフスパイラルの器がかなり脆くなってるんだ。」

思わず息を飲んでしまった。

おそらく老化やストレスが原因ではない。

「何かの病気ということですね。」

「おそらくね。」

「魔道士としての今後は。」

「期待するのは酷だと思うよ。」

「そんな。」

もちろんこういうケースが全くないわけではない。

人にはいつ何が起こるか分からないから。

でもこれはあまりに急だった。

子月ちゃんの恐れていた事態が起ころうとしている。

「子月ちゃんが最も恐れていたのは、魔道が使えなくなったことで仕事も木漏れ日の中の立場も失うことでした。そして今それが現実になろうとしています。全力で彼女の心のケアに当たらないと、また逃亡しかねません。」

「同感だ。近々お見舞いに行ってあげてくれ。」

「分かりました。」

次は夢君の話。

「次に夢君についてですが。」

「うん。」

「いたって穏やかな精神状態でした。最低限の生活習慣はもちろん来賓邸のサービスフル活用で満喫していましたよ。」

「彼らしいね。」

「はい拍子抜けしました。」

「じゃあ、どうしてそんなに精神状態の穏やかな彼が、突然勘当願を出して逃亡しようなんて思い至ったんだと思う?」

「本人曰く、お酒の勢いで勘当願を書いて逃亡したそうです。」

「へえ、どう思った?」

お兄様の目が笑っていない。

私は首を横に振って伝える。

「違うと思います。お酒に酔っていたかどうかが重要なのではなく、お酒に酔った程度で勘当願を書き、逃亡するような環境に何らかの原因で置かれていることが問題だと考えています。できるならば、誰かの影響を受けたのか、何か心境の変化があったのか、そういったところまで聞き出したかったのですが、わたくしの力では及ばずでした。申し訳ありません。」

「いいよ、彼は勘も鋭いし、僕らの仕事の中身にも詳しいからね。あれこれ詮索しようとしても悟られそうだったからやめたんだろ。」

「はい。」

「それで正解だよ。押すところは押して、引くところは引いてのバランスが大切だからね。それで構わない。」

「ありがとうございます。今後ですが、夢君の身辺調査を行っていただけますでしょうか?」

「分かった、担当の局に申請を出しておくよ。」

「はい、大きな波にならないよう、不穏の芽は早めに摘んでおかなければいけませんね。」

私は一度箸を置いてカップに入ったお茶を飲む。

さっきからずっと話しっぱなしで喉が渇きやすい。

「お兄様お疲れではありませんか?」

「平気だよ。もうあと何人かいるだろう。」

「はい、それでは続けさせていただきますね。」

場合によってはこれをすべてタイピングして提出しなければいけなかったのだから、少し口が疲れるくらいは我慢しないといけないだろう。

「朝音さんについてですが、翼君も同様に安定しているようでした。今後1か月間は、生活環境を現在から大幅に変更せず、翼君の臨時の魔道指導官と朝音さんや翼君の関係性構築に重きを置こうと思っています。」

「かなり嫌がると思っていたんだけど、朝音さんから了承が得られたんだね。さすが。」

私は小さく首を横に振る。

「最初は難色を示していましたから、ゆっくりご説明をして必要性をご理解いただいたうえで、何人か候補を提示して選んでいただきました。簡易の身辺調査で対人トラブルが検出されなかった人材ですので、うまく行けば朝音さんの新しい話し相手にもなるかと期待しております。」

「なるほど、分かった。じゃあこちらから特別動かないといけないことはないね。」

「はい、経過報告をまとめてデータベースに追加します。ただ一点お聞きしたいことがありまして。」

「何だい?」

「朝音さんの夫の所在についての情報提供ですが、あちらの世代から何も連絡は来ていませんよね。」

「あーこちらには何も来てないよ。最後に中間報告を受けたのが2か月前でそれからこの件についてはぱったりだ。」

「わたくしが何か申し上げたところで何も変わらないことはよく理解しているのですが、少し違和感を感じておりまして。」

「何か無効が隠しているんじゃないかってことだね。」

「はい。」

お兄様は何も言わない。

やはりだ。

「お兄様、何かお心当たりがおありなのではありませんか?」

お兄様は答えない。

その目の中には私ではない誰かが映っている気がする。

「雫は朝音さんに近いからね。」

「教えることはできないということですか?」

お兄様がまた黙る。

沈黙だって一つの答えだ。

でもこれ以上話を続けるのは逆効果だろう。

「分かりました。朝音さんには何も聞いていないと伝え続けます。ですが、朝音さんにも心は合って、いろいろなことに思いを巡らせ一人苦しまれている時もあるということは、お察しくださいね。お兄様。」

「あー分かっているよ。木漏れ日の内部事情に振り回されている朝音さんは被害者だ。その点は十分に配慮したうえで行動すると約束しよう。」

「よろしくお願いいたします。」

さあ、最後は馨ちゃんの話だ。

「では最後に馨ちゃんに関してお伝えいたします。」

「あー。」

さすがにお兄様が疲れてきている。

ずっと喋っている私も疲れてきてるけど、聞いているお兄様だって当然疲れてくる。

「昨夜世代代表者会議の後本邸に戻ろうと中庭を通った際、ベンチに座り込む馨ちゃんを見つけ私の部屋に連れ帰りました。」

お兄様が突然くすくす笑い出す。

「お兄様?どうかなさいましたか?」

今のところにおかしい部分はなかったはずなのだが。

「これは風の噂で聞いたことなんだけどね。」

「はい。」

「その時雫が馨をお姫様抱っこしたっていうのは本当かい?」

「えっ。」

どこから漏れた噂なのだろうか。

「確かになかなか落ち着かない馨ちゃんをお姫様抱っこして私の部屋まで連れて行きましたが、噂になるようなことでしたか?」

「噂になるに決まってる。だって昨日の雫はドレス姿で帰っただろう。イメージ的にはドレスを着た雫はお姫様抱っこされてる側だろうに、その雫が馨をお姫様抱っこして連れて行ったんだ。ギャップというか意外性があったんだろうね。みんな噂するに決まってる。」

「そうでしたかあ。」

あの時間帯は使用人とはほとんどすれ違っていなかったし、周りに木漏れ日の人がいないかにはかなり気を付けていた。

それでも噂になったのだから、やはり木漏れ日の家の仲は怖い。

「馨ちゃんに悪いことをしてしまいましたね。」

「悪いこと?お姫様抱っこのことかい?」

「お姫様抱っこがというよりは、馨ちゃんが噂になったことです。ただでさえ、緋偉螺疑さんとのことであることないこと噂され続けているのに、余計な噂を一つ増やしてしまいました。」

「いいんじゃないかい。緋偉螺疑さんとの噂が薄まったと思えばいい。」

お兄様は何も気にしていないようだ。

「ですが。」

「雫はお姫様抱っこされるよりする方が好みってわけじゃないだろ?」

「はい。」

「馨ちゃんを魅了したかったわけじゃないのなら、問題ないさ。それは彼女だって分かっているし、気にしていないと思うよ。」

「だといいのですが。」

お兄様がふっと表情を変える。

「僕には?」

「えっ。」

「僕にはお姫様抱っこしてほしい?」

してほしい?か。

本題からかなり逸れて脱線しているがまだ戻るつもりはないらしいし、別に嫌な話題ではないから続けよう。

「そうですねえ、機会がありましたらぜひお姫様抱っこしていただきたく存じます。」

言っていて少し照れてしまった。

なんてことないことなのに、改めて言おうとするとやっぱり少し恥ずかしい。

お兄様が私の顔を見て満足そうに頷く。

「いいよ、いつか僕にそれだけの体力がついたら、素敵な階段の前で雫を華麗に抱き上げるんだ。その時は、今日よりももっとずっとおめかししてね。」

「はい、もちろんです、お兄様。楽しみにしております。」

お兄様は体が弱い。

私個人は、お兄様の育ってきた環境のせいで、お兄様の体力は十分に発達しなかっただけで、その気になればもう少し丈夫な体になるんじゃないかと思っているが、現在のお兄様は体が弱い。

これまでは、私がお兄様をお姫様抱っこしてばかりで、今まで一度だってお兄様にお姫様抱っこされたことはない。

それでもお兄様が私をいつかお姫様抱っこしたいと言っているのは、きっとそれがお兄様の一つの目標だからだろう。

いつか体が丈夫になったらやりたいという目標だろう。

「話が逸れたね。すまない。」

お兄様が話を本題に戻すらしい。

どこまで話していたっけ。

「えっと、馨ちゃんを私の部屋に連れてきたところまでお話ししましたよね?」

「そうだよ。」

「その後一晩事実確認を行い、私からたくまさんへ交渉に伺うという約束をしました。今朝私が目を覚ました時には、私の部屋から帰宅していたので、一応落ち着けたのではないかと判断しております。今日お兄様のところに馨ちゃんは?」

「来てないね。中庭にも入ってきてないはずだから、やっぱり雫に頼んで良かったよ。僕では力足らずだったんだね。」

「相手によって話せることと話せないことの線引きが変わるのは、誰にだってあることですよ。」

「雫にも?」

「そうですね、お兄様だっておありのはずですよ?」

「まあね。」

「お相子です。」

仕掛けてきたのはお兄様なのに、お兄様の方が私より困った顔をしている。

「世代の子たちの話はこれで全部かな?」

わざとらしく話題を本題に戻すらしい。

「はい、長時間をいただきありがとうございました。」

「いやこれからも何かあったら気にせず連絡をしてきてね。」

「はい。」

 それからまもなく三品目が運ばれてきた。

スープの入ったマグカップとデザートだ。

「コーンスープにショートケーキですね。」

「最後のスープとデザートだよ。」

お兄様は満足そうに食事を続けている。

話さないといけないことは全部話せただろうか。

何か忘れているという気はしないのだが。

私がぼんやり室内を見ながら食事を続けていると、目の隅で何かが落ちた。

「お兄様。」

お兄様がスプーンを落としたのだ。

「大丈夫だから食事を続けて。」

「はい。」

立ちかけた私を制してお兄様が首を横に振る。

この部屋には使用人がいないから落ちたスプーンはそのままだ。

お兄様には落とした食器を自分で拾うという習慣は当然ない。

テーブルの中央に予備として置かれていた新しいスプーンを手に取って食事を続けている。

「そういえば雫。」

「はい。」

「昨日の叔母様とのプライベートなお話は何だったんだい?」

「あー大したことではありませんでした。少し愚痴を。」

「具体的には?」

「お兄様、お兄様のお願いですから何でもお話したいと思っておりますが、このお話は女性同士のプライベートなものですからお答えいたしかねますわ。」

「本当に愚痴かい?」

お兄様が疑わしそうに私を見てくる。

お兄様の勘はとても鋭い。

「はい本当ですよ。」

昨日の夜に春宮様とお話したことはお兄様にはまだ話さない約束になっている。

一方的に私が破るわけにはいかない。

「お兄様は本日は何をなさっていたのですか?ずっと先ほどの書類に目を通されていたのですか?」

少し強引に話題をずらしたけど、お兄様はやはりこれ以上深入りしてこなかった。

薄々勘付いているからこそ、私が絶対に話さないと覚悟を決めていると察したら、それ以上は聞いてこない。

「僕かい、今日は雫の言う通り1日デスクワークに勤しんでいたよ。お昼近くまで眠っていてね、外に出る気にもならなかったし、今日は表の席への出席の予定もなかったからさ。だから雫を夕食に誘えたんだけどね。」

「そうでしたか。やはり昨日はお疲れになったのですね。もう平気なのですか?」

「あー、雫と話しているとどんなに疲れていても元気になるんだ。」

「そう言っていただけるととても嬉しいですわ。」

お兄様は昔からこう言ってくれる。

私と話していると、私の傍にいると、私の声を聞いていると元気になるのだと。

「雫。」

「はい。」

「今日の魔道良関係者会議はどうだったんだい?」

「大きな問題はありませんでした。久しぶりに華原秩序会会員をお見かけしたのですが、お母様の執事をしてくれている華原と本当にそっくりで。いくつになっても双子というのは似続けるのでしょうね。」

「華原秩序会会員が来たのかい?」

「はい、秩序会筆頭として。」

笑い話で済ませようと思ったんだけど、お兄様は真面目な顔をしている。

「お兄様?」

魔道良研究所のトラブルについては知っていると思うけど、お兄様があの程度のことでこんな深刻な顔をするとは思えない。

「何か気がかりなことでも。」

「一十さんを魔道良研究所担当から外さなかったそうだね。」

「あっはい。急ぎ解任する必要はないと判断いたしました。」

「解任してしまったら、四永君が担当になってしまうしね、そうなると未成年は担当の役職に就けないという叔母様の立てた方針に相反することにもなるし、最善だったとは思うけど。」

「はい。」

お兄様がここで黙った。

「反対勢力がどう出るかということが気がかりですか?」

「それもあるし、四永君は遅かれ早かれ成人になる前に担当の役職に就かざるを得なくなると思うよ。」

「それはつまり。」

「一十さんは次こそやめさせられる。彼がよほどの変化を遂げなければね。」

「根拠をお聞かせいただけますか?」

「一十さんへの支持率の急激な低下と彼自身のカリスマ性の低下だよ。統率も取れなくなっているしリーダーシップも鈍っている。彼をあのまま担当の役職に就かせていては、魔道良研究所担当という組織そのものが機能不全を起こす。それは木漏れ日の家として阻止しなければならないからね。」

「それは。」

「僕だってこんなこと考えたくないけど、第2次申請を出すという結論にしないといけなかったくらいには追い詰められていたということだろ。人の世は完全じゃない。華やいでいる時期があれば、低迷する時期もある。だから、一十さんをそこまで庇い立てする必要はないんだよ。」

お兄様の言っていることは合っている。

ただそれだと。

「お兄様のおっしゃることはすべて筋が通っております。ですが。」

お兄様がまた口の前に指を持っていく。

(静かに。)

私は慌てて口を閉じる。

(なるほど、雫の口から聞くより、雫の記憶に尋ねた方が良さそうだ。断片的で構わないから想起してくれないかな?)

お兄様の相手の記憶に干渉して、干渉した相手の記憶と感情をまとめて自分の中に取り込む魔法は、私がいちいち考えていることを言語化する手間を省いてくれるが、一歩間違えば知られたくないことまで知られてしまう。

(僕に記憶の扉を開くのは嫌かな。)

私は両手を膝の上に置く。

嫌と言えば嫌だが、嫌と言うわけにはいかない。

今嫌と言ってはお兄様が傷つく。

「わたくしは記憶を部分的に切り取って渡すことが不得手ですので、お兄様にご不快な思いをさせてしまうかもしれません。それでもよければお見せいたしますが。」

お兄様がふっと笑う。

「なんだそんなことか。これまでだって何度か雫の記憶を覗いているし、そのたびに余計なおまけというかオプションみたいなものは受け取っているから平気だよ。何も問題ない。」

こう言われたら私はもう従うしかない。

「分かりました。ではわたくしの記憶から断片的にではありますが、お受け取りください、お兄様。」

私は目を閉じて会議の時のことを思い出す。

できれば会議の後の四永君との会話は聞かせたくないけれど、たぶんばれてしまうだろう。

(いい感じだね。じゃあその記憶、掻い摘んで受け取るよ。)

「エスパー魔法エンパシー。」

頭の中に一瞬スキャニングが掛けられたように駆け巡る感覚があった。

それはほんの一瞬ですぐに元の感覚に戻る。

「なるほど。」

お兄様はそれだけ言ってしばらく黙っていた。

「お兄様。」

顔色は悪くないし、表情も穏やかなままだ。

けれど、私を見る目がとても冷たくて寂しそうで。

そもそもどうしてこの話になってしまったんだろうと後悔する。

「四永君にずいぶん感情を当てられたようだけど、気分を害さなかったかい?」

お兄様の声はとても冷静だ。

「はい、四永君の本心に触れ、彼の抱える孤独に僅かでも寄り添えていれば、十分です。」

「そうか。」

お兄様がグラスに入った水をすべて飲み切る。

これで食事は終わりだ。

 私もケーキの最後の一口を食べ終えてお兄様を改めて見つめる。

まだ時間は大丈夫そうだ。

「ごちそうさまでした。」

「ごちそうさまでした。」

お兄様の挨拶の後に私も続く。

「さて。」

その一瞬が私にはとてもゆっくりに感じた。

席から立ちあがって歩こうとしたお兄様は体のバランスを崩して前に倒れていく。

受け止めなければと思った私は、フェザードをめいいっぱいに広げて、お兄様の元へ走っているのか飛んでいるのか分からないような感覚で近づいた。

お兄様はこけ方がいつも下手だ。

間違って顔から床にぶつかったらまた大怪我になってしまう。

「お兄様。」

気づいた時には私はお兄様を後ろから支えていた。

自分のドレスの裾が広く広がっている。

お兄様よりも低い位置に足と腰を持って行って両腕でお兄様を支える。

このまま抱き上げればお姫様抱っこになりそうな体制だ。

私の広げたフェザードはまだ開いたままで、半円状を描いたフェザードが部屋いっぱいに広がっている。

私は慌ててお兄様の顔を見る。

「お兄様、お兄様。」

しばらく閉じていた目がゆっくり開いて、お兄様の瞳が私を真っすぐに見上げてくる。

「雫が支えてくれたんだね。」

良かった、意識を失っているわけではない。

「どこか痛いところはございませんか?」

「そうだね、すこし痛いかな。」

「どこがですか?」

お兄様が自分の右手で心臓の辺りを覆った。

「ここが痛いんだ。力ない自分を恨むよ。」

「そのようなことありません。少しのお疲れになっただけですよ。このままお兄様の楽なところまでお連れいたします。どこにご案内いたしましょう。」

私はお兄様をゆっくり抱き上げた。

「ねえ、夏の終わりを告げるために僕のところに現れた愛しく可愛い妖精さん。」

今のはお兄様がさっき言っていた私の比喩だ。

力なく脱力したお兄様には、話題を続けてお返しした方がいい。

今から私は夏の終わりを告げにやってきた妖精だ。

「どうされましたか?」

私は優しく微笑みながら首をかしげる。

「僕はもうここにとどまることに疲れてしまってね。君がここを飛び立つ時、一緒に連れ出してもらえないだろうか。君はまた新しい土地に夏の終わりを告げに行くのだろう。ここは僕を捕らえる籠の仲だ。季節の変化を告げる風は、まるでこの空間なんてないかのように吹き過ぎていくし、日常を彩る自然の恵みは、僕の元へは齎されない。僕はこの決して変化することのない籠の中で一生を過ごしたくはないんだ。君と一緒に変化のある色鮮やかで広大で果てのない世界を巡りたい。」

お兄様は比喩を使って世界観を大きくして、非日常を演出することで私に深読みをさせまいとしているけれど分かる。

ここから出ていきたいのだ。

この閉鎖的でほとんどを屋敷に隠した春宮邸の別荘から、すべてが敷地内で完結し、外へ出て行かずとも事足りる木漏れ日本邸から、人の一生をあっという間に完結させてしまいそうなほどの財と力と組織を持ち、それらをもって自分を縛り付ける木漏れ日から。

すべてから解放されて生きたいと思っているんだ。

真逆のことも思っているだろうけど。

これだけのことを汲み取ったうえで言うべき回答は。

「あなたはこの籠の中で窮屈さを感じているのですね。あなたのおっしゃる通り、世界は広く色鮮やかでこの籠の仲よりずっときらめきに溢れています。わたくしもここを離れて新たな場所へ夏の終わりを告げに行かねばなりません。一人で世界を巡るというのは、時に自由ではありますが、時にとても切なく孤独に襲われるものです。あなたとならとても楽しい旅になりそうですし、このままあなたをこの籠から連れ出せたら、どんなに幸せなことか。私も一人でこの地を去りたくはありません。ですが、一人の旅と同じくらいに孤独なことがもう一つ。何かお分かりになりますか?」

私はずっとお兄様をお姫様抱っこしたまま尋ねる。

「何だろう。」

これはあくまでごっこ遊びだ。

もっともそんなふうに周りから言われたら我慢ならないけれど、それでもやっていることはそれだ。

しかも夏の終わりを告げに現れた妖精ということしか二人の仲で共通の認識になっていないから、それぞれの頭の中で描いている夏の終わりを告げに来た妖精はきっとかなり違う。

お兄様が私の質問に答えられないのは当然だ。

「再びこの地に戻ってきた時、私を知る人が誰もいないということです。私の知る場所が一つもないということです。だからあなたにはぜひこの地で私の帰りを待っていていただきたいのですよ。」

そういえばまだフェザードを広げたままだった。

私はゆっくりフェザードを閉じる。

周りに残ったフェザードの欠片やスパイラルの結晶がキラキラとオレンジの輝きを放っている。

「そっか、妖精さんは僕にここで待っていてほしいんだ。」

「はい。」

「僕がここで待ち続けていたら、あなたはまた僕に会いに来てくれるかい?」

「ええもちろん。ここへ舞い戻ってくることを楽しみに旅を続けます。」

お兄様が目を閉じて長く息を吐く。

「このままベットまで運んでくれるかい。雫。」

「畏まりました。」

これでこのごっこ遊びは終わりらしい。

私はお兄様を抱きかかえなおしてベットの方へ歩いていく。

「体調にお変わりはありませんか?」

「あー平気だよ。」

私は左手で重力捜査の魔法などなどを使ってシーツを少し足元にやって、お兄様を横にする。

それから今度は自分の手でお兄様にシーツを掛ける。

「暑さや寒さ、シーツの量や枕の高さはいかがですか?」

「問題ないよ。ありがとう。」

さてこのまま失礼するか、寝付くまで近くにいた方がいいのか。

「雫。」

「はい。」

「そこに椅子があるだろう。こちらに持っておいで。」

「分かりました。」

時間の許す限り近くにいてほしいということだ。

私は言われた通り椅子をお兄様の頭の近くに持ってきて座る。

「このまま少しお休みになられますか?」

「そうだね、もう少し仕事をしたかったんだけど、今日はこれ以上無理ができないらしい。」

「ではゆっくりお休みください。今日の休息が明日の活力になりますからね。」

私はお兄様をただぼんやりと見ていた。

お兄様は私の視線を感じながら目を閉じているはずだ。

「雫。」

「はい。」

「おやすみ。」

「おやすみなさいませ、お兄様。」

それから5分くらい、無音の室内で私はお兄様を見つめ続けた。

お兄様の体内を循環するスパイラルの量を感じ取りながら、お兄様が深い眠りに入るまで見守り続けた。

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