実家の雫(15)
15
子月ちゃんの部屋を出て次に向かうは夢君のいる部屋。
夢君は子月ちゃんよりワンフロアー下にいるみたいだから、子月ちゃんほど荒れていないということだろう。
夢君と言えば、当主候補比率保持者世代内ランキング男性9位に就ける魔道適性を持った社会人だ。
ただ仕事内容は、魔道は全く使わなくていい公共施設の窓口業務だったと思う。
基本的にはとても静かで口数は少なく、私たちとも最低限の関りしか持とうとしない。
考えられるのは、夢君が勘当したがる人に多い自由探求主義の志向を持っていて、収入も安定してきたことから勘当願を出したという線。
もう少し早く出してくれていれば受理できたかもしれないが、私たちくらいの年齢になってからだと、勘当願はなかなか受理しづらい。
それも重要なポストに就いてしばらく時間が経っていればなおのこと。
これは夢君もよく分かっているはずなのに、どうしてこんな極端な行動に出たのだろう。
かなり理性的な人のはずなのに。
(雫様こちらです。)
(はーい。)
考えていても仕方がない。
私は3回ノックする。
「夢さんこんにちは、雫です。よければ少しお話できませんか?」
「はい。」
返ってきた返事はとても穏やかな声で、扉もすんなり開いた。
「ごきげんよう雫さん。」
「ごきげんよう夢さん。」
思っていたより顔色もいいし、表情も明るい。
半強制的にここに住まわされているはずなのに、とてもそうは見えない。
「お話とは?」
「あー、白羽さんから事情を聴きまして。いつまでも来賓邸にいていただくのは心が痛みますので、事情を伺って少しでも解決のお力になれればと思った次第なのですが、もしかしてその必要はなかったでしょうか?」
「あー、相変わらずお優しいんですね。特別お話したいことと言われると特にないのですが、せっかく時間を作っていただいたんですし、お茶にしましょうよ。」
「はい。」
「用意は僕がしますから、お一人でどうぞ。」
「分かりました。」
私は後ろを振り返る。
森崎が一歩後ろに下がった。
これはどうぞ行ってくださいという合図だ。
「失礼いたします。」
私は玄関の扉を閉めて、夢君の後ろをついていく。
子月ちゃんの部屋とはずいぶんな違いだ。
「なんだか、とても満喫しているようですね。この施設のサービスを。」
「はい寛がせてもらってます。」
この言葉は本心だと思う。
言いようによっては半分捕らわれているような状態なのに、夢君は心の底から来賓邸を満喫しているように見えてしまう。
「食事や睡眠は問題なく取れていそうですね?」
「はい、あっ、そろそろ敬語やめてもいい?雫ちゃん。」
「あーうん、いいよ。夢君。」
夢君と私は同級生である。
「それで何を思いいたって勘当願なんか出したの?挙句の果てに、受理されないまま逃亡したりして。」
「勢いってやつかな。」
「勢い?」
夢君が紅茶とお菓子の乗ったプレートを持ってくる。
「そう勢い。しかも酒の勢い。」
「嘘?」
「ほんと。」
「酔って勘当願書き残して逃亡したってこと?」
「うん。」
「へえ。」
呆れたという言葉が喉元まで湧き上がってきたが今は我慢だ。
私はゆっくり紅茶を飲む。
ホットのレモンティーだ。
「今呆れてるだろ?」
「別に。」
「全然ポーカーフェースできてないよ。」
「あらら。」
どうやらばれていたらしい。
28年くらいの付き合いを舐めてはいけないようだ。
「それならどうして早く言ってくれなかったの?さっさと言ってくれれば、来賓邸からとっとと出られたのに。」
「最近仕事が忙しすぎてさ、家にいても結婚とか将来のこととか周りから口煩く言われるし、ちょっと逃げたくなったんだよね。ぜーんぶ放り出してゆっくりしたくなったんだ。」
「つまり来賓邸をどこかのリゾート施設感覚で使ってるってことね。」
「うん。」
もういいだろう、私は長い溜息をつく。
さっきまでこっちが、どれだけあれやこれやと考えていたと思っているのか。
「職場、無断欠勤してることになってるんでしょ?」
「うん。」
「いいの?」
「そろそろやめるつもりだったし、別にいいよ。」
「やめるって?」
「うーん、一般の企業に再就職するか、木漏れ日の中の仕事にもっと力を入れるかなあ。できれば外で働きたいけど。木漏れ日の中にどっぷり浸かってたら、あっという間に結婚とか迫られそうだし。」
「その言い方だとまだそのつもりはないみたいね。」
「ないよー、知ってるだろう。」
「うん、でも木漏れ日の中で働いてもずっと独身の人だってそれなりにいるじゃない。そういうポジションを画一しちゃえばいいんじゃない。」
「外で働いてる独身の雫ちゃんには言われたくないなあ。」
「私はほら、仕方ないのよ。忙しいんだから。」
夢君がチョコレート色のクッキーを1枚食べて口をもごもごさせながら話す。
「前からずっと不思議なんだけど、それほんと?」
「えっ。」
「実はそもそも結婚する気がないとか、とっくに婚約者がいるとか、そういうことじゃないの?だっておかしいじゃん。雫ちゃん、周りからアプローチされまくってそうなのに、全くそういう話聞かないし、逆に周りの年上も結婚しロッテせかせかしてないみたいだし。」
「それ全然違うわよ。お母様には早くしろって催促されてるし、年上にはとうとうお見合い話を探そうかって言われるようになりました。」
「へえ、やっぱり同い年だな。」
「やっぱりも何も同い年。」
話が途切れた。
夢君の瞳が私をなんとなーく観察している。
どこか疑っているらしい。
正直夢君の推測は概ね合っているのだが、周りの人の私に対する認識はだいたいこんな感じだろう。
「さ、この話はもう終わり。」
「言い出したの雫ちゃんだよ。」
「そうだったわね。」
そろそろ帰ってもいいかと思いかけて、私ははっとする。
大切なことを聞き忘れるところだった。
夢君が来賓邸でバカンスチックなことを満喫しているのは結果の話だ。
そもそも、どうして勘当願を勢いで書いて、そのまま逃亡するほどにお酒を飲んでいたのかがまだ聞けていない。
わざとだろうか。
あまりに自然体で流してくるから乗せられるところだった。
「夢君。」
「何?」
カップの紅茶はもう半分だ。
「私そろそろ帰ろうと思うんだけど。」
「もう少しゆっくりして行ったら。きっと16時前までは、僕に割いてくれてた時間なんでしょ?」
「まあ。」
さすがによく分かっている。
「だったらゆっくりして行きなよ。僕も話し相手がいなくて退屈してたんだ。」
「それならそろそろ出て行ったら?」
「それはねえ。」
「話し相手になるから私の質問に答えてくれる?」
「何さ改まって。」
「どうして勘当願の書類に勢いで記入しちゃうくらい酔ってたの?」
「そういう時だってあるだろう。」
「ごめんね、私お酒飲めないから共感はできないんだけど、ちょっと不思議だなあと思って。」
「不思議?」
「うん、だって夢君自分のことよく分かってるじゃない。そんな夢君が冷静さを欠くくらいお酒飲むなんて。」
「僕にだってそういう時はあるよ。」
こう言われたら後はずっとこの理屈で逃げられる。
「そっか大人にはいろいろあるんだね。」
「そう言う雫ちゃんだって大人だよ。」
「私はまだまだまだ。」
こういう時は早々に引き上げて身辺調査をした方がいいか。
考えられるのは交友関係からの何かか、勧誘された何かか。
「そんなに深読みしなくていいよ。本当に勢いで書いただけだから。」
「分かった。」
今考えるといろいろばれそうだからやめておこう。
「雫ちゃん最近仕事はどう?」
「忙しいわねえ。まあ楽しいからいいけど。」
「忙しいけど楽しいって一番いいね。羨ましいよ。」
「そう。頑張って作り上げた労働環境だからね。愛着もあるし。」
「依存じゃなくて?」
「依存と言えば依存だし、依存じゃないと言えば依存じゃないし、かな。」
「へえ。」
この部屋に入って初めて空気が張り詰めている。
夢君がぱっと明るい顔になる。
「そうだ、僕魔道良に再就職しようかな。それで雫ちゃんの後輩になるんだ。楽しいと思わないかい?」
「私が言うのもなんだけど、あんまりお勧めしないわよ。部署によると思うけど、忙しいし。」
「ホワイトなんじゃないの?」
「ホワイトよ。でも忙しいことには変わりないから。」
「よく分かんねえの。」
「ね。」
15時50分、紅茶を1回お代わりして、クッキーをだらだら食べながら夢君と話していた。
「じゃあそろそろ行こうかしら?16時からもお約束があるし。」
「楽しかったよ、ありがとう。」
「もう一花遊んだら適当に理由を付けて出ていくのよ。あんまり長い間居座ったら、宿泊費請求されるからね。」
「それは困るな。」
「またね。」
「うん。」
誰にだって話したくないことくらいある。
それを無理やり言わせるのはいけないと思う。
本当は聞きたかったけど言いたくないなら仕方ない。
周りを少し調べて、お兄様に報告して今日は終わろう。
「雫様。」
部屋を出ると森崎が控えていた。
「雫さんまた連絡しますね。」
後ろを振り返ると夢君がついてきていた。
「ありがとうございます。お待ちしていますね。」
車に乗り込んで私は大きく伸びをする。
「お疲れさまでした。」
「うーん。」
「何かお召し上がりになりますか?」
「うーん、さっきからちょこちょこ何か食べてるから大丈夫。」
車はどんどん来賓邸から離れて、今向かっているのは10階建てのマンション。
そこにこれから会う約束をしている朝音さんが住んでいる。
「夢様は大丈夫でしたか?」
「うん、平気そうだったわ。一応身辺調査はした方がいいと思うけど、大至急何かをしないといけないってことはなさそう。子月ちゃんの方が優先ね。今どうしてる?」
「本邸内の専門病院に緊急入院が決まり、現在移動の準備をしていると報告を受けています。子月様はずっと眠ったままだそうです。」
「そう、じゃあこれから精密検査を受けて、病状の把握と治療方針の検討に入るのね。」
「おそらく。」
子月ちゃんの容体は心配だが、これでひとまず子月ちゃんが孤立することはないだろう。
後は早く回復してくれることを願うばかりだ。
「ところで雫様、そのことも併せてなのですが、今回は報告書になさいますか?それとも直接報告に行かれるおつもりですか?」
「あっ。」
しまった、忘れていた。
こうやって世代代表として個別に相談に行った相手との話し合いのやり取りは、報告しないといけない決まりになっている。
どういった対応をしたのかという記録を取っておくためと、情報を共有して全体で支えられるようにするためだ。
報告相手はお兄様。
「そうね、きっと夜はお忙しいだろうし、報告書にしましょうか。」
「今夜夕食のお誘いを受けているのですが。」
「今夜!」
「はい、18時から1時間ほどで。」
「日曜の夜でしょ。晩餐会のゴールデンタイムじゃない。」
「あちらが申し出てきたことに、わたくしたちは意見できませんよ。お答えできるのはYesかNoですね。いかがなさいますか?予定は開けておりますが。」
森崎が言いたいことが何となく分かった。
おそらく逆だ。
お兄様から夕食のお誘いを受けた森崎が、そういえば報告はどうするんだろうと思い出したのだ。
「ちなみに貝さんの予定は確認できた?」
貝さんには、さっきこっそり部屋に仕掛けられた盗聴器を返しに行かないといけない。
「17時から1時間で予約させていただきました。」
「要件を聞かれなかった?」
「はい、お預かりした物をお返しに伺いたいとお伝えしております。」
それはそうなのだが、うまく言葉を選んだと思う。
さすが森崎だ。
「ありがとう。じゃあ18時からの夕食をお受けして。その時に子月ちゃんと夢君の報告もするから。」
「畏まりました。そのようにお伝えいたします。馨様の件は?」
「昨日の夜話したことをそのまま伝えるわ。そうだ、たくまさんにも会う目処を立てないと。早くしないと馨ちゃんが待ちくたびれちゃうわね。」
「でしたら、19時からたくま様がご出席になるパーティーがございますので、そちらに出席なさっては?」
「えっ。」
「確か春宮様からも、可能な限りこういった表の会に出席するようにとお言いつけを受けていたと思いますが。」
「それはそうなんだけど。」
しまった森崎の会話誘導に完全に乗っていた。
「ちょうどいいではありませんか。ここ数か月お帰りになってもほとんどお部屋に籠りっぱなしで、表の会には出席なさっていませんでしたし、衣装の用意ならすぐにでもできますよ。それに普段からお忙しいたくま様を是が非でも捕まえてお話になろうと思ったら、こういった公の会場の方がかえっていいかと思いますが。」
森崎がさっきから正論を叩きつけて、どんどん逃げ道を奪っていく。
もしかして最初からこういう魂胆があって、午前中の段階からこの時間の予定を空けていたのではないだろうか。
「20時からここねちゃんのところよね?」
「はい。」
「19時からの会場は?」
「ユークレース館です。ですので移動の心配はしていただかなくて結構ですよ。白羽様とのお食事のために一度着替えていただければ、そのままパーティーにもここね様とのお話にも着まわせます。」
これはもう断れないやつだ。
「分かったわ、素敵なアイデアをありがとう。」
「いえこれがわたくしの仕事ですので。」
森崎から返ってきたのは、満更でもないという得意げな声だった。
16時少し前、マンションのエントランスで705と入力してしばらく待っていると、オートロックの扉が開いた。
エレベーターを待ちながら私は小さく息を吐く。
このマンションは木漏れ日の屋敷と違って、比較的一般的なマンションに寄せている。
それぞれの家が完全に隔離されていて、使用人はいるがすべてがそれぞれの家の中で完結するように作られている。
このマンションも木漏れ日の伝統や空気感の薄い場所で、建てられたのも確か2年ほど前だ。
こうやって少しずつ伝統や風習を薄めたり、逆に濃くしたりしながら、春宮様は木漏れ日のバランスを取っている。
「雫様。」
エレベーターが到着していた。
「ごめん、ごめん。」
7階で下りて705室のインターフォンを鳴らす。
「開いてますよー。入ってきてください。」
「分かりました。森崎も一緒なんですけど、いいですか。」
「ええ。」
玄関に上がってカギを閉め、靴を脱いで奥に進む。
フローリングや天井の高さや壁の感じがやっぱり屋敷とは違う。
ノンフェリーゼにいたころ住んでいたマンションに似ている。
「お邪魔します。」
廊下の突き当りが一番広い部屋になっている。
いわゆるリビングだ。
そしてソファーに座って私に会釈をしてくれる女性が朝音さん。
少しボリュームのある茶色の髪を肩くらいまで伸ばして、前髪は左側にまとめてピンで留めている。
暖かくて少しわくわくするようなお日様の笑顔を浮かべる人である。
「こんにちは雫さん。」
「こんにちは朝音さん。」
「森崎さんもこんにちは。」
森崎が深く一礼する。
「朝音さんお顔の色がかなりよくなりましたね。」
「そうですか、嬉しい。どうぞ好きなところにかけてください。」
「では失礼して。」
私は朝音さんの隣に座る。
「森崎さんもどうぞ。」
「恐れ入ります。それでは。」
森崎と目が合う。
私は森崎の斜め後ろにあるテーブルセットの椅子をちらっと見た。
森崎がもう一度軽く頭を下げて椅子に座る。
「今飲み物用意しますね。」
「あー大丈夫ですよ。」
「だめです、お客様はちゃんとおもてなししたいんです。」
朝音さんは、相変わらずの明るい笑顔で私に首を振ってキッチンに向かう。
「朝音様、何かお手伝いいたします。」
「森崎さん。」
「わたくしたちのために準備いただくのですから。」
「ならやっぱり私も。」
「雫様はそこでお待ちください。雫様がやるとかえって仕事が増えます。」
「もう。」
朝音さんはくすくす笑って、森崎はキッチンに入る。
「じゃあお願いしますね。」
「はーい。」
私はソファーから何となくキッチンを見ていることにした。
朝音さんが木漏れ日の家に花嫁としてやってきたのは、だいたい1年くらい前のこと。
結婚当初はまだ頑張っていたけれど、やっぱり疲れてきて心身共に弱っていった。
朝音さんに魔道適性はない。
それもあって本邸に住む朝音さんへの周りからの風当たりは決して優しくなかった。
それに追い打ちをかけるように、朝音さんの夫は、朝音さんと結婚して半年でふらっと国外に脱走した。
今も必死で捜索しているけれど見つかる気がしない。
それでも朝音さんが木漏れ日本邸にいる理由は、夫と朝音さんの一人息子がいるから。
朝音さんは魔道適性はないがかなり優秀、今は行方不明になっているが当主候補比率保持者トータルランキングからまだ抜けていない夫もかなり高いランクにいて、二人は木漏れ日本邸に住めていた。
そして奇跡的に一人息子の「翼」君は優秀な魔道士で、朝音さんが育てることになったのだ。
ただ結婚半年で夫がここを出て行って一人で翼君を産んで必死で子育てをする朝音さんは、ぎりぎりまで追い詰められていた。
それで二人で初めて話したのが2か月くらい前のこと。
その時はまだ「通邸」に住んでいて、周りとのやり取りや格式や家束が辛いと言っていたから、このマンションに引っ越してもらったのだ。
屋敷とマンションそれぞれに良しあしがあるし、マンションに翼君と二人にしたらますます孤立しないかという心配はあったんだけど、案外安全な基地を作った結果、少しずつ木漏れ日の中に馴染めるようになってきている。
森崎や私が木漏れ日の家の家束に従った挨拶をしないのも、朝音さんがまだこういった諸々を嫌っているから。
私と同い年だけど、育ってきた環境は全く違う朝音さんは、私の知らないことをたくさん知っているし、私が得られなかったものをたくさん持っていて、それを分けてくれる感じがする。
とても優しくて素敵な人なのだ。
でも、木漏れ日の色が朝音さんの色を塗りつぶしてしまいかねない。
だから、今はこうして周りから一線を分けたところでゆっくりしてもらっている。
「雫様取りに来てください。」
「さっき手伝うなって言ったじゃない。」
私は立ち上がってベビーベットの方が気になった。
そろそろ起きる。
「雫様。」
と思ったらすぐに翼君が泣き出した。
「あらら。」
「もらいますね。」
キッチンで朝音さんの持ち上げたお盆を森崎が受け取っている。
私と森崎がお茶を運んでいる間に朝音さんが翼君をあやす。
「起きたのー。お昼寝気持ちよかったねえ。」
朝音さんは、優しいお母さんの顔だ。
翼君が泣き止んでおもちゃで遊んでいるのを見ながら、私と朝音さんは夕方前の紅茶を飲んでいる。
今は森崎がいるから、一瞬朝音さんが翼君から目を離しても大丈夫。
「このマンションでの生活には少し慣れてもらえましたか?」
「はい、かなり楽です。家政婦さんにも2日に1回来てもらってますし、時間にも余裕があるので翼のことずっと見てられます。」
「良かったです。最近ご近所さんとは?」
「ぼちぼちですかね。やっぱりまだ輪の中には入りたくありませんけど。」
私は何度も頷く。
「ゆっくりでいいですし、無理して輪に入らなくたってやって行けますよ。」
朝音さんは元々保育士として個人経営の保育園に勤めていた。
翼君の子育て自体へのストレスはあまりないように見える。
それよりも周りとの関りの方が辛いらしい。
そして今も何か気にしていることがあるのに、それを我慢して黙っている。
強制して話させる必要はないんだろうけど、言葉にして楽になるなら喜んで聞く。
「朝音さん、何か気がかりなことがあれば、伺いますよ。」
気がかりなことばっかりだろうけど、心配事も不安なことも不満なこともあるだろう。
朝音さんの顔からすーっと笑顔が消える。
真面目で真剣な静かな顔だ。
この顔の時に朝音さんはいつも悩みごとを口にする。
「もう1年近く経つんですよね。あの人がふらっと出て行ってから。」
朝音さんと会うのはこれで3回目だけど、毎回口にすることが違う。
1回目は木漏れ日の伝統が辛いということ、2回目は翼君の将来のこと、そして今日は夫のこと。
「今も警察と木漏れ日の捜索隊が調べてるんですけど、なかなか情報が下りてこなくて。心配ですよね?」
「そうですね、それに私と翼を置いて急にいなくなったりして。」
朝音さんの言葉はすべて本心だ。
嘘偽りがなく、今の言葉には少しいら立ちが混じっているような。
「実家にいる両親に最近進められたんです。」
私は隣に座る朝音さんの顔を見上げる。
重大なことを伝えようとしているトーンだ。
「離婚して苗字を「三上」に戻して帰ってきたらどうかと。」
思ったより早かった。
いつか必ずこういうだろうと思っていたけど、こんなに早いとは思わなかった。
私が即答できずにいると、気を使って朝音さんが首を振ってくれる。
「ごめんなさい。雫さんがせっかくここまでいろいろと整えてくださったのに、こんなこと。」
「いえ、ご両親がおっしゃっていることも選択肢の一つだと思います。そういう道を選んだ人たちもたくさんいます。」
「雫さんのご両親は?」
そういえば話したことはなかった。
本当に私のことを聞きたいのか、話を聞きながら頭の整理をしたいのかの判断がつかない。
取りあえず事実を伝えよう。
「私の親は二組いるんです。産みの親と育ての親で、産みの親の子とはほとんど知りません。連絡を全然取らなくて。」
「そういう決まりでしたっけ?」
「いいえ、むしろ親や兄弟に1日でもなった人たちには、必要に親切にするのが木漏れ日の家ですよ。私が産みの親と兄弟を極端に嫌っているのは、個人的な理由ですね。」
「そうですか。」
「育ての親は私が18の時に離婚しました。その時は外から来た父が離婚を申し出たので、父一人が家を出ていくことになりました。」
「お父さんについて行こうとは思わなかったんですか?」
「はい、私はもう木漏れ日の中で生きていくって決めていたので。」
「そうですか。」
今私は、話しをどっちに振ったらいいか悩んでいる。
離婚を考える時のことを話すか、夫である彼を待ち続けていく日々について話し合うか。
結婚して半年、妊娠4か月で家を出て行ってから、もう1年が経とうとしているのだ。
「以前説明を受けた時、私は翼が10歳になるまでは育てられると聞きました。」
「はい。」
「でももし夫がこのまま帰ってこなかったら、それも変わりますかねえ。」
その答えを言うために一つ質問をしないといけない。
「それはひたすら帰ってこないのを待ち続けた場合ということなのか、離婚したうえで木漏れ日の家に残った場合ということなのか、離婚して木漏れ日の家を出て行った場合ということなのか。」と。
どの選択肢も選んできた人たちはたくさんいる。
そもそも木漏れ日の血縁ではなかった人の相手である木漏れ日の血縁者が、木漏れ日の家を勝手に出て行って、それ以降元々木漏れ日の外にいた人が望む場合、木漏れ日の家はその人を責任もって保護してきた。
今回の朝音さんも万が一の場合その例外に逸れることはないだろう。
ただ。
「すみません。今すぐお伝えすることができなくて。こういった場合ケースバイケースで、対応が完全に個々によるんです。だから典型例みたいなものがなくて。」
「そうなんですね。」
「急いで結論を出すことをお考えなら、調べてみますが。」
朝音さんが笑顔を作って首を振る。
「あーいいえ、大丈夫ですよ。ふらっと出て行ったんです。ふらっと戻ってくるかもしれません。まだ何の書類も届いてないですし。」
「はい。」
朝音さんの夫は、朝音さんより一回り年上で私たちの世代の人ではない。
だから、この案件は私たちの世代の独断で対応できる範囲が限られている。
朝音さんが言っている書類、勘当願や絶縁願いなどなども、もし彼が提出すればそれは彼の属する世代代表に届けられる。
届いたら速やかに連絡をくれるように頼んではいるけれど、あの世代は全体的に閉鎖的で、込み入った事情を抱えている人も多い。
正直なところ、何かあっても素直に教えてくれるか不安なのだ。
けどまだこれは朝音さんには言えない。
もし朝音さんが私と同じ年数木漏れ日の中にいれば、こんなことすぐに分かるだろうけど。
本当に時間は何にも代えられない。
「何か気がかりなことでもあるんですか?」
「いえ、早く帰ってきてもらわないと困りますね。朝音さんも翼君も待ってるんですから。」
「はい。」
「翼君のことなんですけど、以前ご相談した臨時の魔道指導官についてご検討いただけましたか?」
「あーはい、えっと、紹介してもらった方でお願いしたいです。」
「分かりました。完全に信頼するのは、かなりハードルが高いと思います。保育園の先生みたいな感覚で付き合ってもらえればいいと思います。かなり早い家庭教師みたいな感じですし。」
「はい。」
魔道適性を持つ翼君には、魔道士としての乳児期からの指導を始めないといけない。
予定では朝音さんの夫がやることになっていたのだが、いつまでたっても帰ってこないので、臨時で指導のできる人材を何人か探して、その中から朝音さんに選んでもらったのだ。
一応調査段階でややこしそうな話の浮上しなかった人だから大丈夫と思う。
「今後の連絡の取り方などをまとめた書類をお渡ししますね。」
森崎が席を立って茶色い封筒を朝音さんに渡す。
「ご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。ここに勤務する家政婦に問い合わせていただいても分かるかと思います。」
「ありがとうございます。分かりました。」
朝音さんの顔は晴れないままだ。
「朝音さんいつでも連絡くださいね。私にでも森崎にでも他の誰かにでも。必要な時は車を使って実家に帰っていただいても構いませんし。」
「はい、ありがとうございます。また頼らせてもらいますね。」
「喜んで。」
朝音さんの心の荷が下りるには、もう少し時間がかかりそうだ。




