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実家の雫(10)


  10

 「雫様。」

無音の部屋で完全に時間を忘れていた。

扉越しの森崎の声に私ははっとして時計を見る。

もう7時40分だ。

「お着替えはお済ですか?」

「ええ。」

「では失礼いたします。」

部屋に入ってきた森崎はしばらく私を見て頷いた。

「身支度はきちんと整っておいでですね。結構です。」

さっき辻ちゃんと会うために着ていた白いワンピースから寒色の半そでワンピースに着替えて上から1枚グレーの長袖を羽織る服装に着替えた。

本当なら9時からの会議にお母様のお部屋から直行したいし、スーツを着たかったのだけど、お母様はそれをひどく嫌う。

「行きたくなーい。」

「そんなわがままはおっしゃらず。行きますよ。」

「はーい。」

森崎に籠カバンを持たされて私はだらだらと部屋を出る。

(この時間は人通りが多いですからきちんとした表情と姿勢で。)

(わかってる。)

廊下を歩きながらいろいろな人とすれ違い、それぞれに相応しい返答をしながら1階まで降りて外に出る。

お母様の住んでいる麗邸までは外を歩いて2、3分。

視界には入っているのだが、広めのスペースや横断歩道を歩いていると結局少し時間がかかる。

まだ8時前なのに外は暑い。

(暑い、黒い服ってほんとに暑い。日傘さしたい。)

(この炎天下の中ノーエルまで飛んで行ける方が何をおっしゃっているのですか。)

(あれは空飛んでるから関係ないの。)

私は麗邸の入り口少し手前で立ち止まる。

ちょっと大きな街路樹の木陰に入った。

春宮邸が単身者向けの高級マンションだとしたら、麗邸は比較的家族連れの多い高級マンションのような場所。

入り口から親子や家族が出たり入ったりしている。

(行かれないのですか?)

(心の準備がね。)

育ての母親だけどいろいろと複雑な私のお母様は、いろいろあって、お母様の性格がころころと変わっていって、今は少し近寄りがたくなっている。

だから避けに避け続けた結果半年近く会っていない。

(それでもそろそろ向かわないと遅刻しますよ。)

(そうね。)

私は麗邸の入り口で職員に挨拶をしてお母様の住んでいるフロアーに向かう。

「ごきげんよう雫さん。」

エレベーターホールで女の子に声をかけられた。

この子はたぶん6歳くらい、それなのに私の顔と名前を憶えている。

おそらく彼女の世代でこの子はかなり高い地位にいて、教育を受けているのだろう。

「ごきげんよう。朝食のお帰りかしら?」

「はい、家族で食事を摂った帰りです。」

「お部屋へ?」

「はい、今日はお休みなので。」

「あーそうね、今日は日曜日だものね。」

「雫さんはお休みではないのですか?」

「ええ、私は少し用事があるの。」

この子の後ろには使用人がいない。

きっとここは彼女の自宅なのだろう。

到着したエレベーターに彼女と一緒に乗って私は5階で降りた。

「ではまたね。」

「はい失礼いたします。」

エレベーターが閉まったことを確認して私は鼻から長い息を吐く。

私にだってあったのに。

お母様とエレベーターに乗って、お母様の車椅子を押して、お母様をお部屋まで送って。

(雫様。)

森崎の声でひゅーっと我に返った。

(ごめんなさい。)

エレベーターホールから左に曲がってしばらく歩けば私とお母様の共有ルームがあって、その隣がお母様の自室だ。

その扉の前に昔から知っている使用人が立っている。

「雫様ご挨拶申し上げます。」

「ごきげんよう華原。少し早かったでしょうか?」

「いえ水香様の支度は整っております。今お声をおかけいたします。」

華原は私が物心ついた時にはお母様の使用人をしている女性。

きっともうかなりの年齢のはずなのに、それでもまだまだ若々しい。

すらっとした体格に細い顎、髪の毛は低い位置で一つにまとめて瞼の間から除く瞳は真っすぐにこちらを刺すような光を放つ銀色。

使用人だから私は華原を呼び捨てにしないといけないけれど、それでもできる限り敬意を払っていたいと思っている。

「華原、お母様の様子はどうですか?」

ノックをしようとした華原の手が泊まりくるりと私を振り返る。

さすがに聞かずにはいられなかった。

あと最後の時間稼ぎである。

「ご質問に質問で返すご無礼をお許しください。雫様が最後に水香様とお会いになったのはいつでしたでしょうか?」

「3月です。」

「であればあのころからあまりお変わりはありません。」

「相変わらずですか。」

私は一瞬暗くなりかけた自分の表情を改める。

「分かりました。お母様に取り次いでください。」

華原がもう一度扉の方を向いて今度こそノックをする。

「水香様、雫様がおいでです。」

「通して。」

最近の中では比較的早く返事が返ってきた。

「お入りください。」

華原が扉の前からどく。

仕方がない。

これも私の大切な仕事だと思えばまだ頑張れる。

どうしてお母様と会うことまで私の仕事なのかは分からないけれど。

私は扉の前に行きスリーノックをした。

「おはようございます、お母様。雫です。朝食へのご招待を受け伺いましてございます。」

「入ってらっしゃい。」

私はもう一度だけ深呼吸をして扉を開けた。

 扉を開けてまず鼻をついたのは濃い悪気のオーラ。

エントランスから体に入ってくるこのスパイラルを私は必至で遮断する。

「失礼いたしますお母様。」

私の後ろに華原と森崎が続いて入ってくる。

森崎は表情こそ変えないが、必死にこの悪気に耐えている。

室内は相変わらず閉ざされていて窓には分厚い遮光カーテンが掛けられている。

部屋の中の明かりと言えば、テーブルの中央に置かれた大きなキャンドル一つ。

肝心のお母様はキャンドルを挟んだ向こう側に座って本を読んでいた。

「いらっしゃい。」

本から顔を上げたお母様と目が合う。

何だろう、前にも増して悪気が強くなった気がする。

私はテーブルの前で立ち止まりお母様に一礼した。

「ごきげんようお母様。」

「ごきげんよう雫。」

私は森崎の引いた椅子に座る。

本来なら逆なのだが。

本来なら投手候補比率保持者トータルランキングの順位に乗っ取ってお母様が私に挨拶をするのが先のはずだし、椅子に座るのは私が先でお母様が後のはずなのだ。

お部屋を訪ねるのは百歩譲って私が来るとしても、もっといい方法は共有ルームを使うこと。

でも共有ルームはもう長い間お母様と使っていない。

お母様があの部屋をひどく嫌っているから。

「華原朝食を。」

「畏まりました。」

お母様が読みかけの本を閉じてテーブルの端に置く。

「今日は何をお読みになっておられたのですか?」

「魔道書よ。」

「それは表紙を見れば分かります。その中でもお気に入りの本が何冊かおありでしょう。」

「あーそういうこと。雫の察しの通りよ。」

「そうですか。」

ご挨拶も兼ねた話題だったのだが、あっという間に終わってしまう。

会話が続かないのだ。

華原と森崎が私とお母様の朝食を運んでくる。

「その服。」

お母様が今日初めて私を真正面から見た。

「はい。」

「悪くないわね。以前の反省をきちんと受け止めたいい服装よ。」

「ありがとうございます。」

「木漏れ日の人間が屋敷の中でスーツを着ているなんてあり得ないもの。それも他人との食事の席に着てくるなんて言語道断よ。木漏れ日の本邸に住む者としてそれ相応の品位を弁えた服装で行かなければね。」

「はい。」

以前、つまり3月にお母様と今日のように会ったとき、私は今日と同じでお母様の約束の後会議が入っていた。

それで会議会場に直行できるようスーツを着てお母様を訪ねたところえらく怒られたのだ。

主に今お母様が話していたような理由で。

「いただきましょうか。」

「はい。」

「いただきます。」

今日の朝食はお米を主食とした献立になっている。

困った、お米を主食にした朝食は得意ではない。

起きてから2時間も何も食べずに待っていたのに、これでは気分が下がる。

「お米が主食の朝食は嫌いだったわよね?」

「はい。」

「よかったあ。」

「どういう意味ですか?」

「私はあなたの母親なのよ。それなら子供の好きなことだけじゃなくて、嫌いなことも知っておくべきだわ。」

「そうですね。」

私は味噌汁の入ったお椀に手を伸ばす。

お母様も食事をしている。

私たちの間に生じる会話のなんとぎすぎすしたことか。

「華原。」

「はい。」

お母様の後ろに控えていた華原がお母様の近くに歩み寄る。

「少し外して。」

「ですが水香様。」

「何かあれば雫があなたを呼ぶでしょう。」

華原がしぶしぶというふうに応じる。

「畏まりました。」

こうなると私も森崎を下げさせなければならなくなる。

それにそろそろ森崎は限界のはずだ。

「森崎。」

「はい。」

「あなたも下がって。」

「畏まりました。何かあればお声をおかけくださいませ。」

二人が部屋を出ていきお母様を改めて見ると、満足げに笑っていた。

何か二人で話したいことがお母様にはあるのだろう。

「ねえ雫。」

「はい。」

「二人で話したいと思っていたことがあるの。」

当たった。

「何でしょうか?」

お母様が箸置きに箸をおいて微笑む。

「一昨日までネオンダールの領地に足を運んでいたそうじゃない。しかもそこで大きな獲物を狩ったとか。」

「どこからそれを?」

「木漏れ日の情報収集能力を舐めてはいけないわ。」

こう言われたらお母様が何を聞きたいかには察しがつく。

「それでネオンダールの言葉は聞けたの?」

やっぱり。

「いいえ、わたくしにはそのような能力はありませんので。それにネオンダールが実際にあの地にいるかも不明なままです。」

「そんなわけないわ。ネオンダールは実在するわよ。雫にはステファシーの末裔としての力があるのだから、もっと正確に悪魔を認識できるでしょう。」

私は首を振る。

「いいえ、わたくしにはそのような力はありませんわ。昔から申し上げているではありませんか。」

「そう残念だわ。」

お母様の声がとても冷めたものに変わる。

「未だにお母様はお母様の夢を諦めていないのですね。」

「ええ。」

食事のスピードと会話の量がなかなかテンポを揃えないまま食事は続いた。

「私の夢は必ず叶えるわ。自分の力でね。雫が雫のやりたいことを、理想とするコミュニティーを自力で作り上げたように。だから雫、邪魔しないでね。」

こう言い出したら何も言わない方がいい。

「分かりました。」

「それから。」

「はい。」

「そろそろ本格的にあなたの将来について考えるころ合いよ。心の準備をしておきなさい。まさかあなたまでお母様を置いてこの家を出て行ったりしないでしょう。」

「もちろんです、お母様。」

違う、私がこの家を出て行かないのは、お母様に束縛されているからじゃない。

でも今はそう答えておいた方がずっと話が楽に進む。

「ですからお母様。わたくしの将来が落ち着くまでは、どうか心穏やかにお過ごしくださいね。くれぐれもお母様の願いのために、お母様の心や体や魔法や魂を無下にするようなことのないよう。」

「嫌よ、私は私の夢のために、あの人ともう一度愛を結んで、あの子が私の手の中に帰ってくるために、私は私のすべてを捧げるわ。」

お母様が大きな声を出した。

ドアの向こうで華原と森崎がこちらを意識している。

「お母様お心をお鎮めください。」

私は椅子から立ち上がらずにお母様に頼む。

「木漏れ日本邸に住まい、麗邸に「居」を構える方の振舞ではありません。」

「そうねえ。」

お母様がまた微笑む。

「お母様の気持ちはよく分かりました。ではその時が来るまでの間はお待ちいただけますか?」

「ええ構わないわ。」

これで話は終わり。

食事も半分は摂り終わったしそろそろ失礼しよう。

時間は。

「お母様もしやまだ時計を部屋に置いていないのですか?」

「当たり前でしょ。私の時間はあの時に止まったままよ。」

「そうですか。ではわたくしとあの時からこれまで過ごしてきた時間は、すべてお母様にとって幻覚のようなものですね。」

「ええ、全く「実」を持たない虚像の時間。」

「分かりました。」

私は立ち上がってお母様を見る。

「本日はこれで失礼いたします。」

「まだ会議まではしばらくあるでしょう。」

「これ以上わたくしと話したいことなどお母様にはありますまい。」

「そうね、母親らしく振舞ってみたけれど、やっぱり私あなたが嫌いだわ。早く出て行って。」

「失礼いたします。」

お母様にもう一度儀礼的な一礼をして私は扉の方へ歩いていく。

ドアノブに手をかける少し前に外から扉が開けられて森崎が迎えてくれた。

「お帰りですか?」

「ええ。」

廊下に出て改めてお母様を振り返った時には、お母様は既にさっきまで読んでいた本に目を落としていた。

 扉を閉めて森崎を見る。

「今何時?」

「8時半でございます。20分ほどお休みいただいてから会場に向かっても問題はないかと。」

「そう、なら隣の部屋で休むわ。」

私は華原を見る。

私がここを離れた後食事を下げにお母様の部屋に戻るのだろう。

「華原。」

「はい。」

「お母様のことをお願いします。お母様の弱った心に付け入る不届き物がいればそれを排除し、お母様がお母様を粗雑に扱うことがあればそれを制し、お母様がいつもお心穏やかに過ごせるよう身の回りに仕えてください。」

私は深く一礼する。

廊下ですることではないかもしれないが、今は誰も通っていないしいいだろう。

それに、私にとって華原はお母様を支えてくれる使用人の中で唯一信頼できる人だから、これくらいのことは喜んでやる。

「頭をお上げください、雫さま。この華原、木漏れ日の使用人に相応しく、雫様をお慕いするに相応しく業務を全ういたします。」

私は頭を上げて華原の顔をきちんと見てから共有ルームに向かった。

木漏れ日家の家束として「個人一人ひとりのプライベートルームと一世帯が共有して使える家族の共有ルームを確保すること。」という決まりがあり、私たちの共有ルームはお母様の部屋の隣だ。

「どうぞ。」

森崎に開けられて入った部屋の仲は閑散としていた。

相変わらず生活感がない。

「掃除だけはきちんとしてくれているといった感じかしら?」

「はい。」

私は部屋の中央のソファーに座る。

「簡単な軽食をお持ちいたしましょうか。ほとんど召し上がっておられないでしょう。」

「そうね、パンをくれる?」

「畏まりました。」

森崎が近くの引き出しの上に置いていたプレートを持ってくる。

お皿の上にマーガリンやジャムとロールパンが二つ乗っていた。

「準備がいいわね。最初からご飯だって分かってたなら、事前に教えてくれていたら良かったのに。」

「申し訳ありません。わたくしも知らなかったのです。運んだ朝食を見て急ぎ準備いたしました。」

「そう、じゃあしかたがないわね。」

疲れた。

私は黙々と食事をしながらぼんやりとさっきの会話を思い出す。

「久しぶりの水香様とのお食事はいかがでしたか?」

「楽しくなかった。」

「それはお顔に書いてありますよ。」

「分かってるなら聞かないでよ。疲れたわ。」

森崎がわざわざ聞いたのは私の感情放出を狙ってのことだろう。

やり方はかなり雑だけど、意図が伝わってきてほっとする。

お母様との間にできた大きな溝、埋めたくても埋められない考え方の違い、お母様が叶えたいと切に願っている夢の実現は決して実現させてはいけないという決まり。

いろんなものが私とお母様の間を隔ててしまって、もう歩み寄れないところまで来てしまった。

「お母様私のこと嫌いだって。」

森崎が難しい顔をする。

つい口から漏れてしまった。

「ごめんなさい。忘れて。」

「いえ、お辛かったことお察しいたします。この後も大切な方々との会議や面談が続きます。どうかしばらくお休みください。」

「そうね、そうさせてもらうわ。」

最初から分かっていたけれどやはりかなり精神的に堪えた。

しっかり休んでリセットしないとこの後の会議に差し障りが生じる。

今はほんの少しの間休もう。

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