実家の雫(9)
9
スマスがガーディを訪ね、チコが緑王女とけんかをした同じ日、雫は約1か月ぶりに木漏れ日本邸の寝室で眠っていた。
昨日の夜帰って来たのだ。
「おはようございます、雫さま。お時間です。」
スリーノックの後森崎が声をかけるが雫は一向に目覚めない。
「入りますよ。」
森崎がドアノブを捻って扉を開ける。
「雫様起きてください。」
スマスたちと部屋に入ってきた森崎が勢いよくカーテンを開ける。
「何時?」
雫がうとうとしながら尋ねる。
「6時を回ったところです。」
「早いよ。」
重たい体を何とか起こして雫が隣を見る。
「あれ、馨ちゃんは?」
「30分ほど前に出て行かれました。」
「どうして?」
「一晩泣き腫らしてすっきりされたそうですよ。」
「一人で帰らせたの?」
「いえ使用人を呼んでお帰りになりました。」
「それなら良かった。」
森崎が雫の前に来る。
「こちらを。」
森崎が差し出したのは白い封筒。
「馨様からです。」
雫が無言で受け取って中身に目を通す。
「そう、とにかく早まらずに済んだのね。良かったわ。」
「雫様が熱心にお話をお聞きになったからですね。」
「だといいけど。」
封筒を森崎に返して、雫がベットから出る。
「おはよう森崎。」
「おはようございます、雫様。」
木漏れ日本邸の上空も今日はいい天気だ。
雫がうんと長い伸びをしていつも座るテーブルへ向かう。
「本日は8時から水香様と朝食のお約束がございますが、先に何か召し上がっておきますか?」
「うーん、大丈夫。お湯だけちょうだい。」
充電器に繋いでいたスマホを引き抜いてロック画面を確認するとメールがびっしり届いていた。
(社外秘のメールは全部パソコンにしか届いてないのに、それでもこれだけ届くとは。しかも一晩で。)
雫がため息をついてスマホを机に戻す。
「雫様こちらにお湯を。」
「ありがとう。」
「それから本日のご予定をこちらに。」
森崎が机の右側にお湯の入ったカップ、正面に文字がびっしり詰まった紙を置いた。
「相変わらずすごい量ね。」
「もう少し帰宅される頻度を増やしていただければ解消できますよ。」
「無理だって分かってて言うのやめてよ。」
雫が今日の予定を頭に入れていく。
(8時からお母様と朝食、9時から14時まで魔道良関係者会議、14時から子月ちゃんとお話しして、15時から夢君とお話しして、16時から。)
雫の目が止まる。
「そっかこの話森崎に任せっぱなしになってたのね。昨日お兄様も何もおっしゃらなかったし忘れてたわ。」
森崎がため息をつく。
「雫様の抱える案件の一つなんですから、責任を持ってください。」
「すみません。」
(16時から「朝音」さんのところを訪ねて17時から20時まで森崎と話し合い、20時から「ここね」ちゃんと話して21時から23時まで木雪さんと雪子さんとお話ね。)
「覚えていただけましたか?」
「覚えたには覚えたけど多すぎね。」
「あくまで予定ですのであと数名人数が増えることは織り込んでおいてください。」
「その言い方だと今の段階で分かってるのがあるでしょう。」
「はい。」
森崎がクローゼットから白をベースにしたロングワンピースを取ってくる。
「森崎?」
雫の顔が曇る。
「それでお母様のところに行こうってわけじゃないでしょ?」
「はい。」
「その後の会議はスーツよね?」
「はい。」
「じゃあ何で今そんな清楚な感じのワンピースをこっちに持ってくるの?」
「それはですねえ、今月隣の部屋にお住いの方が変わりまして、もうすぐご挨拶にいらっしゃる予定だからです。」
「あー。」
雫がテーブルに突っ伏す。
「さきほど急遽決まったことでしたので、予定表に記載できませんでした。申し訳ありません。」
「全く悪気を感じてないでしょう。」
「まあ。」
「ほらー。」
「というわけで早々に準備を始めませんと間に合いませんので、お着替えになってください。」
森崎が服を机に置いて入り口の前に立つ。
着替えを終えた雫をさっきの席に座らせ、机の前に大きな鏡を持ってきた森崎が、雫のヘアセットを始める。
「それでお隣は誰が誰になったの?」
「先月までお住いになっていらっしゃったのは「鳩止」様ですよ。」
「あれ、どこに行ったの?鳩止さんなら本邸からは出て行ってないんでしょう。」
「はい「麗」邸に移られました。」
「どうして?」
「先日ご結婚されまして。」
「そうだったの。」
「もう少し木漏れ日の情勢に過敏になってくださいね。」
「はーい。」
「それで今月の上旬に引っ越して来られたのが木漏れ日「辻」様です」
雫がしばらくきょろきょろしてあーっと声を上げる。
「確か辻ちゃんよね?年齢は次の誕生日で12歳?」
「はい。」
「そう本邸に引っ越してきたのね。先月まではどこにいたの?」
「第4魔道別邸にお住まいでした。」
「第4から本邸まで出世して、しかも春宮邸に住めるようになったなんて、すごい出世ね。親は誰?」
こんな会話を延々繰り返して、雫は辻に関する情報を確認していく。
森崎は最初から聞かれると分かっていたかのように詰まることなくすらすらと答えていく。
「こんな感じでしょうか?」
「うんありがとう。だいたい思い出せたし大丈夫。」
「いえそうではなく髪型のことです。」
「あー。」
雫が笑って頷いた。
「ありがとう、髪型もばっちりね。」
「もうまもなくインターフォンが鳴ると思います。お約束は7時ですので。」
「分かったわ。」
「念のために申し上げますが、くれぐれも辻様のお手本にならないような行動は慎んでくださいね。」
「分かってます。」
雫が真面目な顔で頷く。
「分かってはいるんだけど、引っ越しのご挨拶の受け答えって結構久しぶりでしょう。あんまり正確には覚えてないのよねえ。」
「とおっしゃると思って。」
森崎が引き出しの上に置いていた書類を渡す。
「目を通しておいてください。」
「ありがとう。」
雫が苦笑いを浮かべて書類に目を走らせる。
書類には引っ越しの挨拶をする側と受ける側のやり取りの典型例が書かれている。
「私さあ。」
「はい。」
お湯のお代わりを淹れようとしていた森崎の手が止まる。
「この挨拶を受ける方は結構やってるけど、挨拶をする方ってやったことないのよねえ。」
「雫様はこれまで一度もこの部屋から引っ越したことがありませんからね。やってみたいですか?」
雫がくすくす笑って首を横に振る。
「いいわまだ。」
「そうですね。」
7時5分前、雫がスマホに届いた大量のメールをのんびり捌きながらお湯を飲んでいた。
「雫様、まもなくお時間です。」
「はーい。」
雫がスマホを閉じて立ち上がる。
「辻ちゃんにとっては最後の引っ越しの挨拶よね?」
「そうですよ、雫様が一向にお帰りにならなかったので、辻様も使用人も頭を抱えておりました。」
「あらら、それは申し訳ないことをしたわね。」
森崎が箱から取り出したネックレスを受け取って雫が手を後ろに回す。
正面に金色の貝殻の飾りがくるように微調整をして、森崎から花束を受け取る。
「それならお詫びの代わりに少しお相手しましょうか?」
「できればおやめいただきたいですね。もっとも雫様は言い出したらわたくしの意見なんて聞いてくださらないとは思いますが。」
「そんな言い方しなくたっていいのに。それに最初から私が辻ちゃんにいけずするみたいに思ってるみたいだけど、さすがに私だってそんなことしないわよ。相手は初対面で11歳よ。それに辻ちゃん、彼女の世代の女性ランキング4位なんでしょ。優秀よねえ。これからもちょこちょこ会うかもしれない人にすごく怖い人だったなんて印象持たれたくないもの。」
雫が言いながら入り口のところへ歩いていく。
「雫様。」
雫が一瞬森崎を振り返ってにっこり微笑んだ後ドアノブを引いた。
森崎がため息をつく。
「あっ。」
雫が扉を開けると真正面に立っていた女の子が驚いて数歩後ろにたじろいだ。
「えっと、えっと。」
女の子が何回も瞬きをしている。
「ごきげんよう、木漏れ日辻さんよね。」
「はっ、はい。ごきげんよう。」
女の子が大きく頭を下げる。
雫が微笑んで頷く。
「どういったご用件かしら?」
女の子がはっとして姿勢を正す。
「早朝より失礼いたしました。本日は引っ越しのご挨拶に伺いました。」
「そう、こちらこそ朝早くからありがとう。これお祝いの印に。」
雫が左手に持っていた花束を両手で持って女の子に渡す。
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしもこちらを。」
女の子が雫が渡したのと似たような花束を手渡す。
「ありがとう。」
「今後いろいろとお世話になるかと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。」
「こちらこそどうぞよろしくね。改めて自己紹介を。木漏れ日雫です。雫・白羽の世代の代表をしています。投手候補比率保持者トータルランキングは8位、役職は魔道良を担当しています。普段は別の家で一人暮らしをしているから、ここに帰ってくることはほとんどないのだけれど、何かあったら使用人を通じていつでも連絡をしてね。力になれることがあれば、何でもするわ。」
雫が軽く頭を下げると女の子も頭を下げる。
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしも自己紹介を。木漏れ日辻と申します。「十」・望」の世代の投手候補比率保持者世代内ランキング女性4位をいただいております。小学5年生で私立春属学園に通っております。」
辻が丁寧に一礼する。
「ありがとう、改めてどうぞよろしくね。本当ならこれから一緒に朝食をと言いたいところなのだけれど、この後先客がいるから、今日はこの辺りで。また今度ゆっくりお話ししましょうね。」
「はいお忙しいところ失礼いたしました。雫さん。」
辻が一礼し数歩後ろに下がってから雫に背中を向ける。
ドアの間から辻が見えなくなった後雫は扉を閉めた。
「お疲れさまでした。」
さっきの椅子に座りなおして雫がぐったりと顔を下げる。
「ねお手本のお姉さんになりきってたでしょ。」
「最初を除けばできていましたね。」
「最初?」
雫が顔を上げて花束を森崎に渡す。
「最初、エスパー魔法を使ってタイミングを見計らっておいでだったでしょう。」
「うん?」
「扉を開けるタイミングです。ノックされる前にわざと開けて辻様を困らせていたでしょう。」
「あー、ばれてたかあ。」
「ばればれです。案の定、辻様困っていたではありませんか。」
「それでもきちんと受け答えできてたじゃない。あれだけできれば大丈夫よ。」
雫が昨日持って帰ってきていたパソコンをカバンから取り出す。
「お母様のところに行くまでまだしばらくあるでしょう。その間に会議の資料に目を通すからデータでちょうだい。」
「畏まりました。」




