実家の雫(2)
2
「雫様。」
背もたれに深く体を預けて首から頭をぐったり下に向けて雫がウトウトしていた。
「そろそろ到着いたします。」
「もう。」
体を上げて首をぐるっと一回転させた雫が窓の外を見る。
ガードレールと綺麗に舗装された道、その奥に高い塀がある。
雫が見慣れに見慣れた景色だ。
「確かに。」
車が少しずつ速度を落とす。
「しゃきっとなさってください。晩餐会から帰られる方々とすれ違いますので。」
「車の中まで見えてないわよ。」
「それでもです。」
「はーい。」
スーツを着た男性が見えてきた。
出入りをする車に指示を出している。
森崎が男性の指示を確認し、左に曲がる。
雫がぼんやりと外を見ていた。
車が曲がる一瞬雫の体が何かに触れる。
見えない何か、魔道の何かに全身が触れた。
「いかがなさいましたか。」
左に曲がって真っすぐ車を走らせる森崎に雫が首を横に振る。
「うーん、何でもない。久しぶりに帰って来ると、スパイラルの決壊を過敏に感じてしまってね。」
「なるほど。」
「門と課鳥居とかアーチとかから敷地の中に入る時よりもずっと帰って来たって感じがするのよね。」
「一応それらしき物もありますが。今まさに門の下をくぐってきたところですし。」
「この門はスパイラルの決壊を視覚的にごまかすための飾りみたいな物じゃない。」
「この門を飾りで片付けるのはいかがなものかと。木漏れ日本邸の出入り口で最も大きな物なのですよ。それに、実際に物質的なトラブルからは敷地を守っているわけですし。」
「そう。」
雫の乗る車が走る車線の反対側から本邸を出る車が走ってくる。
中央分離帯が綺麗に整備され、要所要所に交差点も信号もある。
車道と歩道の区別もされているし、等間隔に置かれたベンチや街灯、街道樹は敷地外との区別がつかない。
一つ道を奥に入ればまた別の道が通っていて、歩道に面して建てられた建物はマンション、一軒家、大きな屋敷、ホールと多種多様で、さまざまな形や雰囲気を醸し出す建築物がずらりと立ち並んでいる。
「今日の晩餐会ってどこでやってたの?」
「「初鳥」の間、「四季色」の間、「ユーリレース館」、「ユークレース館」でございます。」
「あら、4か所同時だったのね。」
「非公式なホームパーティー等も含めれば、更に数は増えるかと。」
「それはいつものことでしょう。」
雫が外を見る。
もう21時を回っているというのに、たくさんの人が行き交っている。
小さな子供を連れた家族、お年寄りの夫婦、スーツを着た数人の男女、服装も表情もバラバラのたくさんの人たちが行き交っている。
「変わらないのね。」
「当たり前です。1か月やそこらでコロコロ変わられては困りますので。」
「確かにそうだけど、こんなにたくさんの人が住んでいるのに、何も変化がないっていうのは少しおかしいわ。」
森崎がしばらく考えて口を開いた。
「細かくて目に見える変化ならば、いくらでもありますよ。たとえば、つい先日「アリア邸」の補修工事が終了いたしました。月が替わるのを機に本邸を出て行かれる方と入って来られる方がおりますので、荷物の出し入れがここ数日活発になっております。ですが、空気間であったり暗黙の了解であったりといった目に見えない普遍的な物は、よほどのインパクトがない限り、そんなに急には変わりませんよ。特に木漏れ日は、これだけの歴史と伝統を大人数で継承し、それを国が容認しているのですから。」
森崎が雫の顔を鏡で確認する。
「なぜ今回の帰宅はそんなにも雫様を観賞的にしているのですか?こちらにお戻りになるのは毎月のことではありませんか。」
「そうね、そのとおりね。なんでかしら。」
(きっとこの人たちを見ていろいろ思い出してしまったからよ。)
森崎はこれ以上何も聞かなかったし、雫もさっきの森崎からの質問にあえて答えを出そうとはしなかった。
木漏れ日本邸に入ってからも車は走り続けた。
入って最初の7分くらいは大通りを真っすぐ走り、左に曲がって細い道に入ってからはあっちこっちにうねうねと曲がりながら目的地を目指す。
さっきまで走っていた大通りから1本中に入れば、あっという間に人の量は激減した。
例えるなら、さっきまでの大通りが8車線の太い道で、今走っているのは4車線の少し細い道。
車は更に細い道へと入っていく。
ここまでくれば、歩道と車道の区別は白線で示されているだけになる。
「ねえ今どこに向かってるの?」
「春宮邸ですよ。」
「本邸?」
「はい、さすがに別荘に車で乗りあげるわけにはまいりませんから。」
「少し遠くない?」
「メイン道は混雑しておりましたので、遠回りでも早く着く方を選びました。」
「なるほど。」
雫が少し笑う。
「いかがなさいましたか?」
「いやね、迷子になりそうだなと思って。」
「そうですか?」
「ええ、だって考えても見てよ。私15歳で1人暮らし始めたのよ。もう13年近くここは私の第2の自宅で本当の家は別にあるわ。帰って来るって言ったって不定期だし、最近は月に1回森崎の運転に任せきり。本邸の敷地の地図なんてかなりうる覚えね。」
「では雫様が自力で脱走できないような場所に閉じ込めてしまいましょうか。そうすれば、もう少しこちらの公務にも専念していただけますかね。」
「怖い冗談はよしてよ。」
雫がくすくす笑う。
「冗談と解釈なさいますか?」
「当たり前でしょ。森崎がそんなこと言うわけないもの。」
森崎が車の速度を落として左に曲がる。
「さようでございますか。」
「ええ、それにね。」
雫が得意げな笑みを浮かべる。
「もし私が自力で敷地から出れない場所に閉じ込められても、私は手段を厭わず脱出するわ。空を飛んででもね。」
森崎がため息をつく。
「分かりました。では閉じ込める作戦はしばらく保留といたしますので、もう少しこちらの公務にも熱を入れてくださいね。」
「はーい。」
本邸に入って15分後、細い道を走っていた車がふっと明るいところに出た。
左手に見えるのが春宮邸、木漏れ日本邸メイン4邸が1邸である。
6階建ての建物には窓がたくさん付いている。
ベランダはなく、換気をするために取り付けられた窓といった感じだ。
一見するとホテルにしか見えない。
そもそも木漏れ日本邸とは、数多くいる木漏れ日家の人間のうち魔道適性のあるなしそれぞれで非常に優秀な人間、あるいは次期党首候補比率保持者トータルランキングにおいて上位のランクにいる人間が暮らすことを基本とした場所だ。
現在木漏れ日本邸の敷地で暮らしている木漏れ日の人間は約700人、それに対してふっとマンや執事などの木漏れ日の人間に仕える使用人と本邸にある使用人育成機関に所属する人数が約1500人と会わせて2200人がこの敷地に部屋を持っている。
大所帯も大所帯で大抵の施設は敷地内にあり、木漏れ日本邸の中だけで十分に生活できるレベルになっている。
その中でも、木漏れ日本邸メイン4邸という四つの邸宅があり、ここに住むことが許されるのは、木漏れ日本邸に住む人間の中でもエリート中のエリートのみである。
そして雫が自室を持っている春宮邸は、メイン4邸の中で、ひいては木漏れ日本邸の中で最も重要な人物が住む屋敷である。
その警備システムは他の邸宅とは比べ物にならないほどに厳重であり、外装・内装共に一級品である。
大雑把に例えるならば、木漏れ日本邸春宮邸は木漏れ日のピラミッドの頂点に位置する人間が住む場所なのである。
「降りましょうか。」
ターミナルに車を停め森崎が後部席の扉を開ける。
すぐそこまで男性の使用人が近づいていた。
この後この車を駐車場に持って行くのだ。
(さて、さすがにちゃんとした顔をしないとね。)
「ええ。」
雫が後部席から車を降りると一瞬でたくさんの視線が雫に注がれた。
ユークレース館で開かれていた晩餐会に出席していたゲストやこの辺りに住む木漏れ日の人たち、近くを通りかかった使用人などたくさんの人が雫に目を奪われる。
雫が木漏れ日本邸に戻ってくるということ自体が、もはや一つのイベントのようだ。
雫は周りの視線を気にも留めないで森崎を見る。
既に雫が乗っていた車が走り出していた。
「行くわよ。」
「はい。」
雫の数歩後ろの位置に森崎が立つ。
(さて。)
ターミナルから春宮邸の入り口までの十数メートルに雫が視線を走らせる。
(挨拶をしておかないといけなさそうな人は。)
「雫さん。」
雫の斜め前から女性が歩いて来る。
「ごきげんよう。」
女性が雫の前で立ち止まり、ゆっくり一礼した。
「ごきげんよう。」
「今お帰り?」
「はい今着いたところです。」
女性は緑のロングドレスを着ていた。
後ろにスーツ姿の男性を連れている。
「今晩餐会からのお帰りですか?」
「ええそうよ。ついさっき終わったところなの。」
「お疲れ様でございました。申し訳ございません。この後予定がございますので、ここで失礼させていただきます。」
「あら、引き留めてしまったのね。ごめんなさい。」
雫が女性に深く一礼するのに合わせて森崎も頭を下げる。
(今の人誰だっけ?)
春宮邸の大きな扉の両サイドには、使用人が各サイドに10名ずつ立っている。
護衛のエキスパートだ。
「雫様ご挨拶申し上げます。」
「ごきげんよう。」
入り口に一番近いところに立つ使用人の男性が1人ずつ雫に頭を下げ、雫がそれに応じる。
春宮邸の中はすべてジュータン張りになっていて、いたるところでシャンデリアが輝いている。
壁に飾られた雑貨品も、廊下の隅で存在感を放つ観葉植物も、階段の手すりに使用されている木材もすべてが一級品の屋敷、ここまで完成度の高い高級な屋敷はなかなかない。
雫の自室は3階にある。
雫が階段を上る間木漏れ日の人間2、3人とすれ違った。
「ごきげんよう。」
「ごきげんよう。」
やっと3階に着いたと思えば正面から歩いてきた使用人の男性が慌てて姿勢を正して頭を下げる。
「雫様ご挨拶申し上げます。」
「ごきげんよう。」
3階の廊下にはサイドの壁に扉が三つずつ取り付けられている。
階段から真っすぐ廊下を進み、一番左奥の扉の前で雫が止まると、後ろから森崎がカギを渡した。
「ありがとう。」
掌に乗せた鍵を数秒見つめた後、雫がカギを開けて室内に入った。
「ただいま。」
「おかえりなさいませ。」
自動で電気がつき、室内が明るくなる。
「森崎扉閉めて。」
「はい。」
雫がソファーに座ると同時に森崎が扉を閉めると、雫がソファーに寝っ転がった。
「疲れたあ。」
「雫様、スーツでしょう。やめてください。」
「だって疲れたんだもん。あー。」
雫が手で顔を覆う。
「久しぶりに帰って来ると、カルチャーショックというか空気管に飲まれるというか、なんかすごく窮屈なのよ。精神的に。」
「全く分からないとは言いませんが。」
雫の話を聞きながら、森崎が手際よく紅茶の準備をしている。
「家束とか木漏れ日の上下関係とか、ポーカーフェースとか、いろんなことに気を回して頭フル回転でいるのってこんなに大変なことだったかしら。」
「すぐに慣れて元の調子に戻られますよ。少なくともあと数十分で春宮様と白羽様とお話しできる程度に戻してくださいね。」
「はいはい。」
雫の自室は、掃除こそ行き届いているが、あまり生活感がない。
当然だ、月に1度帰って来ても寝るときくらいしか使わないのだから。
現在進行形の生活館ではなく、過去の思い出や大切な品が並べられているような部屋だ。
「雫様、紅茶が入りましたよ。髪型もセットし直したいので、早く着替えて席についてください。」
「はーい。」
雫がだらだらと立ち上がり、壁に向かって設置された机の椅子を引く。
「紅茶の前に着替えを。」
「ええ。」
雫が椅子から手を離し、森崎の近くに行く。
森崎は大きな衣装掛けの前に立っていた。
「今日はどれで行ったらいいの?」
「こちらなどいかがでしょう。」
「ええ。」
「お気に召しませんか?」
「召してるけど、こんな可愛いのもう着れないわよ。」
「着れますよ。雫様はまだまだお美しいのですから。」
森崎の視線に雫がため息をつく。
「拒否権はないのね。分かりました。着ます。」




