四話 筋肉。
記憶に薄いであろう続きです。
トイレに行きたい。
仏の顔も三度まで、というがこの施設においてそれは適応されないらしく、2度目のコールは電気ショックだった。
バチン、という肉を大きく叩く音がし、ほぼ同時に松木さんは呻き声を上げ仰け反った。
綺麗な挙手だった。
今時、義務教育1年目の子どもで対抗馬がいるくらいかな?そのくらい。
そして絞り出すように、じゃあ,お姉さんが来るからよろしくね、とだけ言って部屋を出ていった。
ダムが決壊を訴えかけてきたのはそれから数分と経たないうちのことだった。
ベッドから降り、ドアの外に出ると前方、左方に廊下が広がっていた。
等間隔に扉が設置されており動くとそれに反応して明かりがつくものの遠くは暗く、成る程たしかに地下なんだと確認する。
が、トイレは見当たらない。
トイレに行きたい。
さっき松木さんに聞いておけば良かった、と後悔するが施設については自転お姉さん(暫定)に教えて貰うよう言っていたことを思い出した。
間が悪かっただけか……。
「うー、トイレどこ」
とは言っても尿意は止められないし死活問題であることに依然変わりはない。
トイレはどこだ。
きょろきょろとあたりを見回すと不意に遠くで明かりがついた。
そして黒く何かが動いたのも確認された。
「トイレ」
いやそうじゃない、と突っ込みを入れるものは誰もおらず吸い寄せられるかのように光の下へ歩みを進める。
角を曲がって幾らかの扉を横に通り過ぎそこにたどり着いた。
薄く、消灯しかかっていた明かりが再びあたりを照らす。
暗く厳かな空間に二人だけが浮かび上がる。
「う、うう…」
「あの、大丈夫ですか」
「発作だ…すまないが松木…医療室まで」
「医療室…ええと」
とっさに脱力した体を支える。て、重い!
変な話だが体に違和感を感じる。起きたばかりだから…といってもそれなりに時間は経っていて。
記憶喪失。
松木さんは一過性なものにすぎないからといった。
この違和感もまた、一過性なのだろうか。
トイレ。医療室。
ぬぐえぬ気持ちに取り敢えずは蓋をして前を向く。
「医療室ってどこだろう」
また遠くで明かりがついたからそこに行ってみようかな。
肩にかかる重さと共に散策を始める。
重心が偏っているせいかいまいち要領を得ない。
やっとのことで明かりがついたあたりにたどり着く。
「この部屋が医療室、なんてことはないよね」
手がふさがっていたため、足元、壁の下の方の窪みを押す。
すぃーー、と扉が開き中には
「ふっ!ふっ!ふんぬっっ!!」
「………」
逆立ちをして腕たてを行う筋肉がいた。---半裸の。
「あ」
「ひぇ」
まずい。目が合った。野生の獣とは目を合わせてはいけないんだっけ。
いや、背中をむけちゃいけない?
「……」
まずい。筋肉が筋トレをやめてこっちを見てる。
何この目。
『筋肉が仲間になりたそうな目で見ている。
仲間にしますか?
▽はい ▼いいえ』
「失礼しました」
当然、ノーなわけで。わたしは迅速に頭を切り替え脱兎のごとく逃亡を図るのだが。
「ふべっ」
もう一人、背負っていることを失念していた…。
気づけば筋肉が後ろに回り込んでいた。やば…
「あれ、ウイカじゃん。なにお前また倒れたのか」
「マティ……はやく」
「はいはい」
むんずと握りもちあげ、っていやいや。軽々と持ち上げすぎではありません?
マティと呼ばれた筋肉さんは見た目通りのスペックらしい。
「そら、食え」
「はぐ」
ポケットから何か取り出したと思うとウイカと呼ばれた少女、いや、童顔で声変わりを迎えてないからか微妙なところだけど、少年の口に放り込んだ。
サクッと軽快な音がする。
「なんですかそれ」
「ハッピーヤーンだ」
「へ?」
「幸せの白い粉がついてるお菓子が」
「語弊が」
「でもまあ、ウイカにとっては安定剤みたいなもんだ。ほら」
「まさか、お菓子で……嘘」
しばし口を動かしていたウイカ君だったが、驚くことに先程の発作などなかったかのような菩薩の笑みを浮かべている。かわいい……。コホン。
「で、だ。お前のことだがその前にひとまずはウイカに変わって礼を言おう。あいつをここまで運んでくれてありがとな」
「いえ…」
結局、医療室にまで運んだわけではないし、ここにたどり着いたのも偶然だ。
というか、下手に動かしまわるより誰かほかに人を探して呼んできた方がよかったのでは?
あれ……ひょっとしなくてもわたしがとった行動て医療的にNG?
「ありもので悪いがこれはお礼だ。受け取ってくれ」
「いや、困ります」
そんな機微を察知してかどうかは不明だが筋肉、もといマティさんが何かを手渡してきた。
缶、飲み物のようだが水分補給にでもとくれたのならのども乾いていたことだし正直ありがたい。
ほんとになにもしてないんだけど、好意は受け取ってーーー
「何ですか、これ」
「プロテインだ。見たところ筋肉が足りてないようだからな」
固まった。
頭まで筋肉か、こいつ。
「は?」
「おっとだが、プロテインを飲んだだけじゃ筋肉はつかない。見合った負荷をかけないとでだな。具体的にはーーー
その後、マティさんはなぜか筋肉について語りだした。おすすめのトレーニング方法に始まり、効能、果ては危ない宗教勧誘か何かのような文句まで。
あまりに長いものでウイカ君はがっつり寝に入っていた。マティさんに担がれたまま。器用だ。
「で、あなたは?マティさんと呼ばれていましたが、あなたは何者ですか?松木さんはお医者さんみたいなこと言ってましたけど、ここは病院、ですよね」
「一気に来たな。俺か?俺は、大した奴だ」
「は?」
パードゥン。聞き間違えだろうか。
「なんと」
「大した奴」
「…」
「すげー奴」
「……」
「ビッグな
「もういいです」
ただの自画自賛。何一つさっぱりしない。
「よくもまあ、そこまで自分を凄いと言えますね」
「当然だろ。まず自分が自分を肯定しなくちゃ、誰が認めるってんだよ」
「……そうですか」
さも当然であるかのように言い放った。いや、けろっとした表情から、至極当然と思っていることがうかがい知れる。
ナルシストですか、なんて言ってしまいそうなところだった。
だけど、何故か、堂々と言い切れるマティさんを心のどこかで羨ましく思っている自分に気づきわたしは疑問符を浮かべるのだった。
(わたしは自分のことについて何一つ思い出せてないのにどうして)
心か頭か、気づかないくらい小さくチクッとした感覚をそのまま飲み込む。
「まず、ここについてだが病院というのは間違ってはいないが正しくもない」
「え?」
飲み込んだものが反芻される前に、マティさんがそう切り出した。
「実際に案内して説明するのが早いんだが、色々込み合っててな。お前のことについて聞きながら掘り下げていくことにしようか」
そして途端に、さっきまでのゆるっとした雰囲気が引き締まる。言葉にはなっていないが目線が準備はいいか、と尋ねてきていた。
無言でうなずくと改めてマティさんが口を開いた。
今回、次話から少しずつ掘り下げていく予定です。