十五話 極夜の融解。
うみが際限なく広がっていた。
うみは原初で原子で数で別の何かだった。
流転するそこで体が作られ景色が反転した。
目の前の概念をとたん認識できなくなり思考が沈む。
全身に纏わりつくネバネバした液体以外何もない場所。
今までの帰途も、成果も、感情も。
全てを落としてからだ一つ。
これからどこへいくのか?
わからない。
ただ闇雲に手足を動かした。
音よりもはやく手足を動かすも壁も空も何も掴むものはない。
ふと耳が音を捉えた。
未知の宇宙の外に世界があるみたいだ。
どっと、全身から力が抜けた。
いや、力が抜けたというよりは何とも言えないものが零れ落ちたというか、×××自身が天から地に落ちたというか。
あいまいな表現だけど今の×××では真に理解できないということだけ分かった。
天を仰ぐ。
コツン。
さっきから鈍く重い手が壁に当たった。
心なしか世界の音が大きくなった気がする。
そっと壁をさわる。
ぼんやりと熱を感じる。
強く、壁を押す。
僅かに軋む感覚があるけれども開きそうにない。
指を開き、爪を立て、もう一度力をこめる。
緩急をつけて一定のリズムで。
けんたい感や息苦しさも無視して続けると何度目かで指先が壁をやぶる。
世界に触れた。
くらい宇宙に突如光が差し込んだ。
その光に向けただまっすぐ、海の底から浮かび上がるように全身の力をむけた。
宇宙は光に包まれ、そして×××が生まれた。
自分が死んだ日のことを思い出す。
学術的な枠組みではなく比喩的なもの。
正確に言うならば俺の時間が止まった瞬間だろうか。
肉体は健常だ。身長だって、体重だって日々変化している。
元々一人の時間が長かったからPCの扱いや知識を詰め込むのには苦労しなかった。
世間一般的には成長している、と言えるのだろう。
しかし心は、重厚なもので道を完全に塞がれていた。
前後左右不覚。
何処にも行けない袋小路。
自分の目にはそれが酷く終わって見えた。
追いつかない心の変わりに記号付けされた怨嗟が体を動かしていた。
その日は良く晴れた天気の日だった。
いつぶりかの快晴に心は踊り、手を引かれるまま足を踏み出した。
そして、血の雨と硝煙の香り、喧騒。とどめに、―――。
視界は真っ暗になり、俺は死んだ。
「化け物」
びっくりした。ただぽかんとなった。
顔色を変え走り去るウイカさんを前に遅れて「あっ……」という音が漏れた。
急ぎ、酷く乱れたウイカさんの背を追う。文句を言おうや撤回を求めようとしたわけじゃない。
ただ、走り際の顔が。どこかで見たその顔が私の中で警鐘を鳴らしたから。
このままでは終わってしまうと。
急転。
ことの発端は一時間前に遡る。
お漏らしの後(今でもまだ死ぬほど恥ずかしい)お風呂に案内してもらいシャワーを浴びた。
マヤリカさんの部屋のものと作りが違うのか中々水が出ずに10分ほど悪戦苦闘。
その後、先程の私をここまで案内してくれた白衣の女性が着替えと一緒にカードを持ってきて使い方を教えてくれた。
一部の職員,上客を除いて基本的にシャワーは予約制で発行されたカードを挿入して初めて水が出るらしい。
今後もよく利用するだろうからうんうんと相槌を入れつつ説明を聞いていると「松木さんには初めに説明を受けなかった?」と聞かれ首を振ると「有り得ない……女の子的に死活問題よ!」と軽く憤慨していた。
そういえばマヤリカさんが設備案内、病院内案内をしてくれるってことだったっけ。
結局は、トラブルでうやむやになってた。
慌ててフォローを入れるも顔は晴れず、彼女の中で松木さんの何かが下がったようだった。
松木さん、すみません。合掌。
機械のリミットを告げる音にせかされつつ急ぎ事を済ませ、持ってきてもらった着替えに袖を通す。
本当に生地が繊細で破きそうになる。
着替えて部屋を出ると丁度マヤリカさんがやってきて回収された。
下着チェックが入り、もみくちゃにされて、髪の洗い方,乾かし方に鞭が入って、もみくちゃにされて。
一通り終えて、今度こそ施設の案内をしてもらった。
途中今日あったことの顛末を尋ねられたので恥ずかしい記憶を説明した。
変に気遣う様子もからかう様子もなかったのは本当に救われた。
やっぱり職業柄話を聞くのが上手いのかな?
話の合間にうんうんと相槌をいれていたマヤリカさんだったけど、福沢さんの話になるとやや笑顔が硬かった気がする。
福沢さんの方が明らかに年上っぽいし呼び捨てだったから上司なのかな?
そういえば、福沢さんに口止め料ってもらったものがあった。
手のひらサイズの袋にはいった細かい木片。
マティさんかマヤリカさんにでも聞いてみろって言ってたっけ?
袋を取り出して福沢さんにもらったこと、どういうものなのか分からないけどと見せてみる。
『これって、ちょっとごめんね。少し聞かせてもらってもいい?』
『はい、聞く?』
『嗅ぐってことよ。では失礼して……まさかね……』
ブツブツ小さな声で呟きつつ袋のジッパーを開け、固まった。
先程のなんとなく硬い笑顔でなく明らかに。
ピキッて効果音が多分してるやつ。
『律ちゃん、あなた福沢さんになにしたの?』
『いえ、とくに覚えは』
『うそでしょ』
喝を入れられたのと軽く話を交わしたくらいです。
あーー、器物破損の共犯は担ぎました。言えないけど。
でもそれ以外に思い当たることはないかな?
『気に入られたのかしら。確かに律ちゃんは可愛らしいけど、福沢さん犯罪よ』
『あはは。結局、これって何ですか』
私にはゴミか木片かよくわからないです。
ほんのり匂いがしたけど。
『それは香木よ』
『こうぼく?えっと……教師とか警察とかですか?』
『それは公僕。律ちゃん物知りね。でもこの場合は違うわね、香りの木ってかくの。アロマ、みたいなものね』
『ああ確かにほんのり香りますね』
『これを専用の道具で聞く、とはいっても私は精通してるわけじゃないから齧った程度だけどね』
マティの方が詳しいわよ、と言われかなり驚いた。
え?!あの筋肉のマティさんが?!!
…………。
人は見かけで判断しちゃダメだな。
それでもとマヤリカさんは続けた。
『本当に良いものの良し悪しは分かるつもりよ。これは恐らく伽羅、すごく良いものじゃないかしら』
再びの知らない言葉に思考が停止した。
その後説明を聞いたところによると匂いの辛味や優雅さその他から判断したとのことで高級品らしい。
値段をきいたら腰を抜かすかと思った。
その後、松木さんが来たり、案内の続きを受け自分の病室に戻った。
価値をきいて扱いに困ったこうぼくをそっと机において眺める。
『この量であんな値段?』
分からない世界だった。
何よりそんなものをポンと渡せる福沢さん。
やっぱりめちゃくちゃ偉い人では?!
そんな風にモンモンしてるとコール音がなった。
誰か来たみたいだけど誰かな?
マヤリカさん?松木さん?
特に深く考えることもなく不用心に、ロックを解除し扉を開けた。
「どう、も?」
「……ああ。お邪魔する」
ウイカさんだった。
顔は下を向き手は僅かに震えている。
襲撃を受けた時とは異なるピリッとした空気で不思議と緊張はなかった。
『---色々と込み入っている』
マティさんの言葉が思い出され、ただ表には出さないようにしてウイカさんを部屋に招き入れた。
発端の一時間前。




